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那年夏天  作者: 侍_崗
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第1話 ここで暮らすひと(3)

※この物語はフィクションです。登場する地名、店名、団体、人物名等は架空のものであり、実在するものとの関係はありません。

 


 2005年 4月




 僕とアメは工場のオーナーである「ツァイさん」の家に間借りをしている。

 工場から徒歩5分。この町でも比較的賑やかな通りに面した、地上6階建の鉄筋コンクリートビル(とツァイさんは言っていた)だ。

 その6階建ての5階にひとり部屋をあてがわれた。

 6階建てだがエレベーターはない。5階へ行くには、狭いスペースに作られた階段をグルグルと昇らなければならない。

 到着した日、ツァイさんの使用人達がベッド、荷物をすべて手作業で運んでくれた。僕はというと殆ど手ぶらだったため、階段が苦痛であると感じたことは今現在ない。しかし、毎回何か届くごとに、使用人達が運んでくれるので何だか申し訳なく思っている。

 アメは僕の使用人という扱いで、3階にある仏間の隅っこにベッドを置かれただけだった。


 僕の部屋には、入口にトイレと洗面とシャワーがある小部屋があった。

 それだけ聞くとユニットバスを連想できるのだが、日本で見るそれとは違う。

 全面タイル張りの小部屋入口すぐに洗面台と鏡。小部屋の奥に便器。その便器のある壁の上部に大きなシャワーヘッドが付いている。シャワーヘッドは固定で、ノズルが伸びたるするどころか、角度調整もできない。だからシャワーを浴びる時は便器の蓋をしないと、ずぶぬれになる。トイレ掃除をするときにもそのシャワーヘッドを使うからという事だが、本当だろうか。

 シャワーも洗面も便器も、水圧を調整するタンクやポンプが付いていないので、水圧が非常に弱い。うっかり流しっぱなしにすると、水が糸のように細くなる。トイレが流れないのなんて日に何度も起こる。

 外国の客人を迎えるための高級なホテル以外、どこへ行ってもこの造りなのだとアメが言った。

 シャワーを浴びるところと用を足す場所の立ち位置が同じことに、僕は慣れなかった。

 ――いつか自分の家を持ったら、絶対に風呂トイレ別にしてやる。

 そう思いながら、僕は今日も自分用のサンダルを履いてシャワーを浴びる。


 オーナーのツァイさんは2階に寝室を設けている。

 色々理由があると彼は語るが、多分あの細く長い階段を昇るのが面倒だというのが一番の理由なのではないかと思っている。


 1階は洋品店に軒貸しをしている。バイトの女の子は2人が交互に店番をしている。

 どちらも尖がった髪型に服装をしている。彼女たちの趣味を反映させたアイテムは置いておらず、無難なTシャツやデニム、スニーカーが陳列されている。客は偶に入っているそうだが、今のところ見たことがない。彼女たちは今日も暇そうにカウンターに肘をつき、外の通りを眺めている。


 食事はツァイさんと2階にあるダイニングで共に食べていた。

 広い建物にこじんまりとしすぎた食卓で、5人座れば隣と肩が触れるものだった。

 それでも寂しい反響もなく、最初こそ戸惑ったものの、数日もすれば「よその家で食べるご飯」の様に思えてきたので気に入っていた。

 食卓には厚めのガラス板が敷かれている。

 僕はツァイさんに何のためだと身振り手振りで聞いた。ツァイさんは川エビの殻を器用に剥くと、ガラス板の上に乗せていった。

 どうやらこの国での作法らしい。食べ物の殻や皮、種などは捨て鉢などではなく、テーブルに直接落とす。それを使用人たちが後から片付ける。

 掃除もし易いガラス板を乗せていた方が良いんだと、ツァイさんは笑って答えた。

 ここで食事をした初日こそ気になっていた事だったが、数日たった今は完全にこちらのやり方で馴染んで、正に目の前でアメがエビの殻をどんどんガラス板の上に落として集めているのも気にならなくなっていた。そんなことより気になる事が、僕の周囲には幾重にも立ちはだかっていたのだ。


 一通り食べ終わった僕は、食事を続けるアメを残し、食堂から階段を挟んだ位置にあるリビングへ向かった。

 ソファに腰を掛けると鞄から書類を取り出し、携帯電話を充電ケーブルに挿すと、僕は書類に目を落とした。リビングではテレビが流しっぱなしになっている。僕はそれに視線をやらず、流れてくる声や効果音をBGMにしていた。言葉もわからないので、真面目に観ても仕方がない。それよりも、仕事を勧めなければならない。

 午前中はアメが御用聞きに来たツァイさんと親しい業者に下ネタ満載のジョーク(らしい)をとばし怒らせ、更に事務長の机にあった書類にコーヒーを溢すという2つの出来事に振り回され、碌に書類整理もできなかった。

 時間は有限で、決して待ってくれない。加えて処理しなければならない書類というのが厄介で、これは時間を追う毎に増殖していくのだ。恐ろしい、本当に恐ろしい。

 腕の時計はこちらの時間で12時半を少し回ったところを指していた。事務長が自宅から事務棟の服務室へ戻ってくるまであと1時間と少し。それまでに出来る仕事をしておかねば……。

 アメが食事を終えてリビングに入ってきた。シャツには調味料を溢した跡があった。僕の座っている横にどしんと腰をおろし、テレビを真剣な顔で観始めた。

 何か手伝いましょうか? などと聞いてくるとは思わないので、アメを無視して僕は書類に目を落とす。


 ふとリビング入口の気配に気づき、僕は首をあげた。

 それは入口の端から顔を覗かせていた。勿論、幽霊などではなく、普通の人間……女の子だった。

 年は僕よりずっと若く見える。褐色の肌に、黒くツヤのある長い髪。コロっとしたという形容詞がぴったりな体系。白地に妙な文字が綴られた体系を隠すような大きさのTシャツに、ぴったりとしたパンツルックという出で立ちをしたその子は、僕たちに言葉を投げかけてくる。しかし僕にはサッパリ理解できなかったので、アメに通訳をさせた。

 それによると彼女は「あなたが新しく来たという人か」「言葉がわからないのか」と言っているらしい。僕はその通りだと伝えろとアメに言い、アメはそれを返した。

 そうして入口に佇む彼女の問いかけに対し、アメを介して暫く会話をしていたのだが、段々と彼女は険しい顔つきになり、とうとう部屋に入ってくるとアメに向かって指差しながら大声で何かを伝えていた。

 怯えてソファの背面に退却したアメが通訳するところによると、彼女は「その男と話をしたいのに、何故あなたが割って入るのか。邪魔するな」と言っているらしい。

 しかし僕は彼女と話す言語を持たなかった。

 そもそも突然現れた彼女に何を話せばいいか分からなかった。

 しかし何も喋らず黙っているわけにはいかないと思った僕は、自分の名前を告げ、彼女の名前を聞いた。

 彼女は「娜々(ナナ)」と名乗った後、僕の隣に座ると現地の言葉で矢継ぎ早に質問を繰り出した。

 混乱した僕は書類を持った手で彼女を制止し、背後で様子を伺っているアメに通訳させた。アメの副音声を背に受けながら、僕は彼女の顔を見ていた。彼女も僕の顔をまじまじと見ながら話しかけていた。

 そこで突然、彼女が笑い出した。それは僕がどこから来たのかと聞かれ、日本だと答えた直後だった。僕はアメの方を見ると、アメは僕の言葉を確かにそのまま伝えたと言った。そして彼女が続けて発した言葉をアメは焦りながら通訳する。ナナが言うには、僕は日本人に見えないらしい。こんなところに来る日本人は、あなたよりずっと年をとってるし怖そうな顔でやってくる。ということらしい。

 日本人である証拠を見せられるかとナナは聞いてきたが、生憎手元にはそれを証明するものを持ち合わせていなかった。だから僕は今喋っているこれが日本語だと彼女に伝えた。

 同時に食堂からナナを呼ぶ声が聞こえてきた。声の主はマーヤだ。

 ナナは僕に何かを耳打ちし、入口の向こうへ大声で応えながら部屋を出て行った。スコールの様に去っていった彼女を見送った後、アメは安心したというジェスチャーをしながら元の位置に収まり、再びテレビを眺めた。

 テレビに表示された時間は、1時50分を過ぎていた。


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