第1話 ここで暮らすひと(2)
※この物語はフィクションです。登場する地名、店名、団体、人物名等は架空のものであり、実在するものとの関係はありません。
アメに書かせたメモを服務室長のデスクへ置き、僕は第1工場の向かいにある倉庫の狭い階段を上った。途中に2枚ある鉄格子の扉を抜け、最上階突き当りの扉を開けると空間が一気に広がる。
ここが僕の自宅である。
工場のオーナーに20万円程で都合をつけ、大きな倉庫の上に無理矢理増築した、ある意味築1年未満の新築物件だ。天井や壁、床は青みがかった白色で統一され、中央は200平米程のエントランスホール兼ダイニングとなっており、10人掛けのテーブルがその中央に据えてある。
この青白い壁や天井は大理石でも、まして丈夫な鉄筋コンクリートでもない。何本か立てた針金を基準にレンガを積み上げ、そこにセメントとペンキを塗っただけに過ぎない代物だ。下手をすると力のない僕でも蹴り壊せそうな、なんとも脆弱な作りである。
部屋に入って両端。北側と南側の壁にはそれぞれ木製のドアが付いている。
北側に4つ、南側に5つ。そこへ北側に今僕が開けたドアが一番西側にあり、南側にはドアのないキッチンへと繋がる入り口が大きく口を開けている。
西側、東側それぞれの中央には窓枠も壁もない。完全に吹き抜けになっている。それぞれの端はテラスになっていて、簡易の手すりが付いているだけだ。
自宅の位置は高さにしてビル5階分。周りは高い建物がないので遠くまで一望できる。眺めは非常にいい。しかし、5階分を階段で上がるのは少々骨が折れるものだった。
僕は後ろ手に入り口のドアを閉めてエントランスを歩く。空間にテーブルと椅子しかないので、足音が涼しく反響した。
北側、出入口を数えない3番目のドアの鍵を開け入る。そこからが僕の部屋だ。プライベートな部屋にしてはかなり広い。これも80平米程の部屋にベッドとテレビ、飲み水用のタンク、作業机があり、入口を入って両端にそれぞれ風呂とトイレがある。僕は部屋の奥まで歩きながら途中に設けられた作業机の上に鞄を放り投げ、部屋奥にある窓から外界を見下ろした。
眼下には第2工場と廃材置き場がある。
廃材と化しうず高く積まれた金属片の束が、僅かに照らす日光をキラキラと反射していた。
空には相変わらず雲が延々と青色を覆っている。それでも日光が負けじと射している。ここではこの状態を曇りとは言わない。晴れなのだ。この町に雲1つない快晴の日は殆どない。大抵は薄い雲の幕が空を覆い、自分の周囲が明るければ晴れだ。どれだけ陽射しが強くても、雲はなかなか退くことがない。たまに大雨など降れば貴重な青空を拝むことができる。
ふとエントランスから香ばしい匂いが僕の鼻へ抜けた。
僕は窓を半分開き、ブラインドシャッターを下ろして部屋に影を作ると、エントランスへ向かった。
香ばしい匂いの正体は、今日の昼食だった。
エントランスにぽつんと置かれた大きなテーブルには、幾つもの料理が乗っている。10脚ある椅子の北西側にアメが座っていた。彼は自室に戻らず、席に就いて僕が部屋から出てくるのを待っていた。
僕がその対面に座るとアメは待ってましたとばかりに、料理に手を伸ばしかけたが、僕の顔をみるや一旦その手を引き、両手を胸の辺りに軽く合わせ「イタダキマス」と呟くようにこぼした。その直後、急いで彼は手元の更に料理を取り始める。
一連の動作は僕がいいつけたものだった。
どの国にも作法はあるが、曲りなりともアメはうちの社員だ。
最初彼と食卓を囲んだとき、僕から見ればマナーも何もなかった。余りにも無作法だった。
万一日本からの来客時に食事を共にする事があれば、失笑を買うのは明らかだった。そこで僕は彼に「目上の人間が同席する場合は先にがっつくな」「食べる前はいただきます。食べ終わったらごちそうさま」を真っ先に教えた。
彼は以前も日本の会社に勤めていたらしいが、食事だけ見るとその真偽を疑った。だから僕は厭味ったらしい事を承知で彼にしつこく言って聞かせた。
その成果もあり、今や彼は僕の教えたその2つだけは忠実に守り、実行するよう務めている。
ただ、彼が口を開けてクチャクチャと大きく音をたてて食べる癖を直すことは、1年かかっても矯正できなかった。
僕は彼の鳴らす咀嚼音に若干の嫌気を感じながら、自分の取り皿に料理を乗せた。
大きなテーブルには厚めのガラス板が敷いてあり、その上に置かれた器に料理は並んでいる。
鮫のフライ。
豚肉とジャガイモの煮付。
ゴーヤの炒め物。
川エビ炒めと川エビの水煮。
豚の血の腸詰。
生姜の醤油漬け。
この辺りの家庭料理らしい。
作っているのは2人の女の使用人、アイヤとマーヤ。どちらも顔が似ているので僕には判別が難しいのだが、アイヤ曰くマーヤの方がずっと年上らしい。
マーヤはオーナーの下で働く使用人だが、僕の身の回りの世話もしてくれている。洗濯、掃除に三食の料理。住み込みではない上、オーナー宅の事もしなければならないので、かなりハードだと思う。
そんな彼女らが作る料理は大体似通っていた。というか大体メニューは同じだった。たまにエビが川蟹に、豚肉が鴨肉になる程度だ。
味付けはどちらが作っても濃い。油分もかなり濃い。
しかし、その味付けで正解だった。今、茶碗にあり、炊飯器にもある炊いた白米が、日本にはない独特の風味なのだ。ここに来た当初、僕はその味が受け付けられなかった。その苦手だった風味を打ち消す味を僕の舌が欲したのである。料理の味そのものは幸いにもこの匂いの強い米ほど嫌いではなく、彼女らの作るものはなんでも食べることが出来た。
米の味は3日で慣れたものの、未だに日本の米で炊いたご飯が記憶の彼方にあり、変に懐かしくなる。
2人で食事をする際も音は小さく反響し、余計に寂しさを倍増させた。
そんな中、僕はここに来た当時を思い出していた。