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那年夏天  作者: 侍_崗
2/7

第1話 ここで暮らすひと(1)

※この物語はフィクションです。登場する地名、店名、団体、人物名等は架空のものであり、実在するものとの関係はありません。






 2006年8月





  回想




 僕がここに来たのは、随分と前の事になる。

 当初僕は国内の本社勤務で、電話の取次ぎに営業補佐、在庫管理に社内インフラ管理と総務といえば聞こえはいいが、ただの雑用係だった。社の内外を問わず業績を争い食い合いの状態にある業界において、水槽の金魚の様に外界の生存競争の枠から隔たれている我が部署に、各方面からの圧力や怨恨が集まるのは必然だった。

 そんな折、総務の部長が至らぬ大不祥事で退職。これが一気に「総務部不要」の声に拍車をかけた。結果、総務部は解体。とはいえ、我が社は規模がそんなに大きくはなく常に人手不足。又、新人育成より内情をよく知る人間を使った方が色々と便利だという一部役員の鶴の一声で、僕を含めた総務の人間は方々の部署へ転属・または自主退職扱いとなった。

 僕が配属されたのは、海外からの商品の納品や生産管理を任されている部署だった。そこで輸入の際の書類の手配、船便・航空便の運行状況とコンテナスペースの確保、サンプルの送付と受け取り等を担当していた。

 部署が1つなくなっても仕事がまわるというのは、決して珍しいことではないなと、この時僕は学んだ。その証拠に、今まで僕たちが行っていた各々の業務を彼らは自治的に管理し、元々そんな部署はなかったと言わんばかりに成り立たせたからだ。

 僕は周囲から放たれる言葉の足蹴に遭いながらも、日々の業務をこなしていった。


 仕事にも慣れ始めた去年の2月。僕は会議室に呼び出された。

 入室すると、そこには普段滅多に揃ったところを見ない会社役員、在配属されている部の部長、そして若年ながら会社の創業者である社長、その存在すら噂の域を出ていなかった相談役らが一列に並びこちらに向かって座っている。

 そんな会社の上層部に呼び出された僕は、彼らに「南方支社社長代理兼生産管理室室長」という大層な肩書きを与えられ、突如としてこの大陸南方のちいさな町に送られることになったのだ。

 経緯についてある役員がこう言った。

『海外の提携している工場での生産管理が杜撰であり、加えて他社に情報が漏れている可能性がある。しかし現状、誰も本社より動かすわけにはいかない。何より部署内で独身なのは君だけだ。失うものは無いだろうし後学の為でもあるので行って欲しい』

 そんな冗談のようにふざけた経緯説明を受けただけだった。

 これは体の良いミエミエの「左遷、そして自主退職ルート」である。

 僕自身が部署内で遅れを取っており、若干の足手纏いとなりかけているというのもそこに呼ばれた原因ではないかと思っていた。そもそも元総務だった同僚の何名かは、同じ手法をとられ会社を去っていったので、なんとなくではあるが、そういう事で遅かれ早かれ声がかかるだろうと感じていた。

 会社は決して解雇にはせず、自主退職という形ですまそうとしていた。

 しかし、その時の僕は自主退職後に転職するという言葉に面倒くささを覚えており、何より給与が大幅に上がるという言葉にまんまとのせられ、その話を了承した。

 

 こうして僕はこの地を訪れたのである。

 

 最初のうちは大変だった。

 根本的な問題として、僕は自国の言葉しか話せないし書けなかったのだ。

 何年も学校で習っていた英語だって怪しいものだった。

 だから空港に到着した時、まさかの空港エントランスの停電で表示板が見えなくなってしまい、あまつさえ携帯電話も現地調達だった為に持っておらず、誰が迎えに来ているのかも分からなかったのだ。

 なんとか工場のオーナー専属の運転手を務める青年を見つけ出したものの、彼に対して何も伝えることができず、工場地帯に到着しても誰がどの役職で、どこで何をすればいいのかも分からなかった。

 追って到着したアメの通訳でなんとか最初の体裁は整ったものの、そこから数日はただ工場を見てアメのおぼつかない通訳だけを頼りにやってきた。

 普通こういうのは語学がある程度できて、交渉力の強い人材がやるものだろう。

 しかし愚かにもここで僕は初めて「やられた」と実感したのだった。

 しかし戻る為の航空券もなく、自力で取れない以上、なんとか頑張るしかないと身振り手振りを交え現地の人間に指示を出していた。だがそれで相手が完璧にこちらの考えを汲み取り実行できる筈もなく、ただただ徒に時間を浪費してしまうばかりだった。

 悩んでいても仕事は次から次へと舞い込んでくる。立ち止まっている暇はないと思った僕は言語辞書を小脇に抱え奮闘することとなる。本来ならば3週間あたりで音をあげてしまうと僕を含めた誰しもが思っていたのだが、気がつけばここでの勤務も1年程続いてしまっていた。

 必要になるかと勉強用に持ってきたテキストは、あまり役に立たなかった。

 夜帰宅してから勉強に使うには使っていたが、文法や発音をじっくり……等と悠長な事をする時間はなかったし、そもそもテキストの内容がそのまま通じる地域ではなかったのだ。この町だけではなく、この国全体が山を1つ越えると言語が違うといっても過言ではなかった。

 術は他に見当たらなかった当時、僕は格式ばったテキスト通りの言葉と発音で暫く奮闘することになる。


 次に直面したのは、気候と考え方だった。

 まず暑い。

 とんでもなく暑い。

 殊地に赴任したのは4月初旬だというのに、日本でいう軽い真夏日相当の数値は確実に出ていた。

 おまけに湿度が高い。

 高すぎて、昼の湿気が夜には霧になり視界を塞いだ。真夜中になると2メートル先が霞んで見えない日もある。車のライトを点けて走っても危ない。手元と対向車の位置で、道の形状が何となく分かるという日もあった。

 それだけ暑いものだから、彼らは休む。

 何かあると休もうとする。

 昼休憩になると、彼らは2時間戻ってこない。1時間あれば昼食を取ったり休息したり出来るのではないかと僕は思うのだが、彼らは違う。

 1時間かけて全員で昼食をとり、残りの1時間で昼寝をする。

 かといって、朝早くからバリバリ働くという風でもなく、工員以外はかなりのんびりと出社し、ボチボチ仕事をしている。そして昼を知らせるベルが鳴ると、その倍以上のスピードで出て行く。本社へ届く書類や見積が遅いのは、これだったと僕は発見した。

 では昼休憩の後、午前よりも働くかといえばそうでもない。

 夕方6時までこれもまたのんびりと机につき、ボチボチ始める。そうして6時のベルが鳴ると、一斉に帰宅してしまうのだ。

 そんな事を繰り返していると、とてもじゃないが全てが先延ばしになる。結果、納期10日前ぐらいになると8月末の宿題が終わっていない小学生の如き焦り方で仕事を始める。最終的に数と納品日が間に合っていればいいという考え方で、大抵彼らは「なんとかなるさ」と口にしながらやっている。

 ギリギリで工員もフル稼働するものだから、必ずどこかに支障が出る。

 場合によっては「輸送は次の船にしたいので期日を延ばしてくれ」等と言ってくる者もいた。勿論そんな事ができる筈もないので、そこは頑なに拒んだ。

 都市に近い工場や日本の大企業が自社で持っている工場とは、比べてはいけない環境である。

 しかして品質を落とさず、納期を守らせる為に来ている僕に、本社からの改善命令は耳と胃を痛めた。

 この「なんとかなるさ」という言葉は僕がこの国にいる間、何度も耳にした。

 それでどうにかなった場合もあるが、どうにもならない事だってままある。

 彼らは今日もそ知らぬ顔で使う。


 なんとかなるさ。

 

 1年前の入国日に空港エントランスで起きた停電から、僕はその言葉に一喜一憂することとなる。





                                          つづく

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