序
あの歌
歌い出しは確かこうだ
『思い出してた
小さかった頃の事
青い空に白い雲が流れた
あの時、君は言ったね
手を繋いで世界の果てまで行こう』
僕と彼女の話をしよう
あの日の空も雲も
これ以上消えてしまわないうちに
2005年4月
だだっ広い事務室の中央に据え置かれた、茶色い応接用のソファに身を投げ、僕は右手に握りしめた書類を手前にあるテーブルに投げつけた。
外の暑さと納得いかない見積書の山に向かい、苛立ちを溜息で吐き出す。
コンクリートむき出しの床とやや高い天井が、小さくその声を反響させた。
とうに正気を失った冷房は、たまに目を覚まし、仕事をしているとばかりにささやかな冷風をよこすが、この熱気の中では屁のつっぱりにもならない。
汗ばむ首筋を、指で一掻き、二掻き……。
ソファから立ち上がり窓を開けると、その向こうから抑え込んでいた熱気が勢いよく入り込んできた。
外から近所の超市にある電動遊具から流れる調子外れの音楽が、繰り返し聞こえてくる。それがこの暑さを押し上げた。不快以外の何物でもない。
僕のいるこの部屋の奥は、工場というより「こうば」……いや、「作業場」と呼んだ方がよさそうな空間がある。つい先ほどまで僕はそこにいたのだが、どうにもこうにもそこにあるものは、僕の国の常識からかけ離れたものばかりだった。
今その空間とを隔てるドアを閉めても、ドア越しに機械の駆動音がすり抜けてくる。一定間隔で鳴る音と、ベースの様に低く唸り続ける音は小気味良く、角度を変えれば、何かの演奏をしているように聞こえなくもない。けれどそう思い込むと、とことんまで今置かれている状況から逃避してしまいそうで怖かった。
作業場につながる側と反対方向に位置するドアがノックとともに開き、僕を呼ぶ声がした。
振り向くと、ドア付近には僕より少し若い女性が立っている。
彼女はこの工場の事務を一手に管理する事務長だ。
小柄な彼女は眼鏡の向こうから細く厳しい眼差しをこちらに向け、手にしていたA4用紙を僕に差出した。僕はそれを何も言わずに受け取る。頼んできた商品の見積り内容が記載された、相変わらずペラペラで質の悪い紙を覗きこんだ後、僕はもうひとつ溜息をついた。
その額面は1時間前に貰った金額と左程変わっていない。
これでは駄目だやり直してくれ。
僕はそう彼女に告げる。が、彼女は僕のつぶやきに首をかしげるだけだった。
紙を手の甲で軽く叩きながら――普段より少し言葉強めに――僕はもう一度彼女に告げた。
しかし彼女は「なぜ?」という顔しかしない。
そもそも、事務長である彼女が普段この部屋に直接来ることはあまり無い。この僕と彼女の間をやりとりするのは「ショウワン」が行っているはずだ。僕がショウワンはいないのかと事務長に聞くと、今はイナイとだけ答えた。
いないのならば仕方がない。それはいいとして――
僕はショウワンではないもう1名の名「アメ」を大声で呼んだ。しかし、アメからの返事が返ってくる様子はなかった。
彼女はまたイナイと言い、その後なにやら僕に早口で説明する。僕は聞く耳を持たなかった。否、理解できないでいた。
こんな時にあいつは、アメは何をしているんだ。
心の中でぼやいたその時、ズボンのポケットにしまっていた携帯が鳴る。僕は彼女に待つよう身振り手振りで伝え電話に出た。電話の向こうからは、えらく呑気なアメの声が聞こえてきた。
僕はやや声を荒げ、彼の居場所を確認した。
聞けば彼は1階にある生産ラインを見ているらしい。
それも「他社」のライン。
そんな事を指示した覚えのない僕は、これ以上アメと話すといくら血管が余っていても切れすぎて在庫切れになりそうだと思い、急ぎこの部屋に戻る様にとだけ伝え、一方的に電話を切った。
僕の後ろには大きな窓ガラスがあり、その向こうでは小麦色の肌をした女性事務員たちが、何人も働いている。僕が大声を出しているので、彼女たちは面白がってこちらの様子を伺っている。
もっとも、彼女らは僕が何を言っているのかまでは理解していなかった。
僕は深呼吸し、もう一度手渡された紙に目を落とした。
やはり深呼吸をしたところで、金額は変わらない。落胆を味わった後、彼女に再度計算しなおして欲しいと人差し指を立てながら伝え、薄い用紙を戻した。何となく、彼女もわかったらしい。
溜息と共に呆れたとも降参ともとれる素振りを僕に見せた事務長は、僕から紙をひったくると、何も言わず部屋を出て行った。
あのように、彼女には全く愛想がない。それどころかちょっとだけ横柄だ。
立場的にはこちらが発注者。依頼している側なのだから、もう少しコニリとさえしてくれればいいのに。
僕はそう思いながら再びソファに倒れこむと、天井に向かって暑いと一言こぼした。
再び電話が鳴った。画面の表示は「本社」とある。
ああ、本社から電話がかかってきた。
僕は一呼吸置いて電話をとった。電話の向こうは、上司である石橋さんからだった。石橋さんの飄々とした声が耳に届く。 恐らく見積の件だろう。そう察した僕はそれとなく逸らそうと試みたが、彼は見事に軌道修正し、仕事の話に戻した。どうやら依頼されていた見積りを、向こうの時間で今日の夕方5時までに出さなければいけなくなったらしい。
向こう――本社のある僕が生まれ育った国と今いるこの場所には、数時間の時差が発生している。という事はかなり前倒しで金額と工程を送信しなければいけない。
確か昨日の時点ではいつでも良いとの指示だった筈だ。けれど、客先のいう事なら仕方が無い。
こういった急な変更は、この数日でもう慣れた。
僕は何とかしますと石橋さんに告げ、電話を切ると、さらに深くソファへと沈みこみ、右手で両目を覆った。
本当にまいった。その急いでいる見積りこそ、先ほど見せられた、前回と金額の変わっていない見積だったのだ。
ここ数日味わった異常な蒸し暑さで、頭の回転もいつも以上に鈍くなっていた。
そこへ男が1人、作業場側のドアからノックもなしに入ってきた。
彼は僕の直属の部下であるアジア人。ここに来る前……面接の時点で彼は「アメ」というあだ名をつけられていた。痩身で長身。面長の顔に細い目と八の字眉、口の上に中途半端な髭をドジョウのように生やしている。
日本語はカタコトで話せる。気が弱いことも手伝い、少しでも状況が変わると周りを見失う。日常的な会話は問題ないものの、彼のその性格は仕事の事交渉の場においてトラブルの種になる。
そんな男でも居ないよりマシという本社の意向で、僕は自身の下に置き働かせていた。
何の用でしょうか。そう呑気な声で聞いてくる彼を、何故他社の製品ラインを見守っていたのかと叱咤した。アメは勉強だの、現状他のラインが動いていて、こちらの納期が間に合わないだのと薄い八の字眉を更に八の字にしながら僕に返したが、鼻で笑うしかなかった。
そんな事は十分承知している。
最早怒る気にもなれず、僕は彼の言い訳を塞ぐように軽く咳払いをした後「事務長に見積りを急がす様指示を出せ」と伝えた。
しかしアメは、それはできないと眉を歪めた。僕が何故だと聞くと、アメは腕時計を見ながら天井を指差した。同時に、けたたましいベルの音が鳴り響く。
その音は、ドアの向こうだけでなく館の全域……否、外向きの窓の向こうからも一斉に響いた。
けたたましいベル音と共に、ドアの向こう、窓の外、事務室からも慌ただしい足音が外へ外へと逃げ出し、あっという間に消えていった。
音が止み、その場に残っていたのは、僕とアメだけだった。
アメが飯の時間だから無理ですと得意気に言った。
僕は何もかもに呆れ果て、しんと静まり返った館内で、怒号を辺りに響かせた。
こんな事に慣れてしまっていると思ったが、やはり変わらない。
ここに来たときと何も変わらない。
日本から約2000キロ以上南
密集する石づくりの家屋
街から一歩出ると広がる荒野
赤い色をした河
独特のにおい
高層ビルも、アスファルトの道路も、コンビニも無し
なにより、日本語はおろか、英語も通じない
日本人は半径100キロ圏内に、僕ひとり
――故に、逃げ場なし
これがこの時、僕の暮らす世界の全てだった。
つづく