巡夏
【プロローグ】
「美月が死んだの」
「美月って誰?」
ふっと唇の端から笑みがこぼれた。
「ちゃんと名前つけてたのよ。知らなかったのね」
彼は視線を少し泳がしながら「ああ、猫か」と答えた。
「そう、猫よ」
【初めの夏】
鈴木優は自宅ビル前に自転車を止めて四階を見上げた。灯りが付いている。少し考えてからビルの裏口に回り、非常階段を駆け上がった。
優の住むビルは三階までがテナントで四階からはマンションになっている。このビルは優の同居人である学生時代の親友の親戚の所有物で、優は格安な家賃で親友と四階全フロアを借り切っている。全フロアといっても二〇坪にも満たない小さなビルだ。
四階まで一気に階段を駆け上がった優は鞄から財布を取り出し、非接触型認証機にそれをかざした。カチャリと電子音がし、非常口の扉の鍵が開いたのを確認した。
非常口から入ると、そこは優の部屋であった。八畳程の空間にロフトが付いている。キッチンとリビングは同居人との共通のスペースで、各々自分の部屋を持っている。
優が部屋へ入ると三毛猫が大きな伸びをした後、尻尾を立てて足元に近づいて来た。
「みーにゃ、ただいま」と言いながら鞄を扉前に置くと、猫を愛おしそうに抱き上げた。
猫は満足そうにグルグルと喉を鳴らしてくしゃくしゃに撫で回されるのに身を任せている。
一通り撫で回した後、「今日もお医者さん行かなくちゃね」と言いながら、猫を解放した。
猫はふるふると体を震わせた。首をに付いた鈴がちりんと鳴る。
毛づくろいを始めた猫の頭を二回ほど撫でてからロフトに上がると、隅にあるペットキャリーバッグを取り出してきた。猫は何かを感じたのか尻尾を下げて耳を後ろにそらし、足音を立てないように部屋の隅にと急いで逃げて行く。
そんな仕種を微笑ましく見ながらキャリーバックを片手に猫へと近付く。
「逃げてもだめよ。今日が最後なんだから。ね。」
怯えた猫の首根っこを掴むと、そのまま一気にキャリーバックに入れた。
バッグの中から「にゃおにゃお」と非難の声が聞こえる。
ふぅ、と一息ついて立ち上がろうとした時、リビングへ通じるドアが二度ノックされ、開けられた。
「また裏口から帰って来たの?」
やや非難めいた口調で同居人の笹原美奈子が言った。
「ごめん、今から病院いくから・・・」答える優の語尾は次第に弱くなっていく。
美奈子はあからさまに眉間にしわを寄せた。美奈子が猫を好いていない事を十分に知っているからこそ、優は直接自分の部屋に入ることができる非常口から帰宅したのだ。
美奈子は腕を組んで扉にもたれかかっていた。
美奈子と優はあらゆる面で正反対であった。明るく活発な美奈子、なんとなく暗い印象を受ける優。それは容姿にも表れていた。大きな二重の目にすっと通った鼻筋、花芽がほころんだようなふっくらとした唇。それらが調和して個々のパーツを主張し合うことなく配置された美奈子の顔は化粧をせずとも人の目を引くのに十分な美しさと愛らしさを持っている。体も女性らしく柔らかな曲線はルーズな部屋着を着ていても手に取るように感じることが出来る。一方優は特別美人ではなく、それ程見られないと言う容姿でもないものの、ことさら目を引くというわけでもない。目立つものがないのだ。一般的と表現するのが一番無難か。体は痩せすぎて女性らしいとは言い難い。太ることを極端に恐れるために、脂肪を分解する薬を常用しているせいもあるが、薬に頼るほど脂肪があるようには見えない。美奈子に言わせると優は拒食症だそうだ。本人は否定しているが、あまりにも痩せたその姿を見る限り、多くの人は美奈子の意見に賛成するだろう。
「三〇分で帰って来るから」
猫の入ったキャリーバックを胸の前で持ち直して立ち上がりながら言った。
美奈子は答えず、手をひらひらと振るのを見て、優はまた非常口から外に出た。
動物病院は歩いて一〇分ぐらいの所にある。夜七時まで開業してくれているので、優のような仕事を持つ飼い主にはありがたい。
優が猫を飼いだしたのは今から半年ぐらい前になる。もともと猫好きなので、近所の猫達とは顔なじみだった。今飼っている猫もそんな近所の猫の中の一匹だった。五十メートル程離れた家に住むおばあさんが飼い主らしく、その辺りでよく目にしていた。
ある日、その家の近くを通ると「にゃーおにゃーお」と一際大きな声が聞こえた。覗き込んで見ると、三毛猫が家の中に入りたいと扉に爪を立てている。どうやらおばあさんは外出中らしい。猫は優の視線を感じたのか、そそくさと逃げ出した。
一週間後、またその家の近くを通りかかると、近所の人が二、三人集まって立ち話しをしているのが聞こえた。
「この猫どうします?ここで死なれてもねぇ」
その言葉に優は思わず人々の視線の先へと目を向けた。そこにはやせ細った三毛猫が家の前でじっとうずくまっているのが見えた。
「どうかしたんですか?」思わず問いかけていた。
「ここのおばあさん、先週から入院してるんですよ。この猫、忠犬ハチ公みたいにずっとここに居て困ってるんですよね」
優は慌てて猫に近づいた。普段なら視線を合わせただけで逃げてしまうような繊細な猫であったのに、抱きあげるとされるままになっていた。
このままでは死んでしまう。そう感じた優はその足で近所の動物病院に猫を持ち込んだ。事情を説明し、診察を受けると、猫は栄養失調だと言われた。獣医師が水を用意するとそれはおいしそうにその水を飲んだ。
「この子、飼いますか?」
獣医師にそう聞かれた優は逡巡の末、「はい」と答えた。
美奈子が動物をあまり好きではないことを知っていたからだ。それでもこの猫をこのまま放っておくことができなかった。
猫と帰宅してから美奈子を説得するのに三日かかった。優の部屋以外には猫を出さないこと、猫の毛を共有スペースに持ち込まないことなど細かな約束をしてやっと許可を得た。
それまで優の部屋に特に用もなく出入りしていた美奈子はぱったりと来なくなった。優はそのことに心を痛めていたが、自分に甘えてくる猫の仕種を見るにつけ、そのことを考えないようにしていた。美奈子には友達もいて、家族もいて、美奈子を必要とする人々がたくさんいるが、この猫には優しかいない。自分が守らなければならないと強く感じていたし、優自身も自分を本当に必要としてくれているのはこの猫しかいないと考えていた。
夕暮れの空の下、キャリーバックの中に向かって「大丈夫だよ」と小さく囁きかけながら歩を進めた。
程無く動物病院の看板の灯りが視野に入った。
肩で扉を開けながら「こんばんは」と挨拶をすると、いつもの受付の女性が「こんばんは」と笑顔を返してくる。
診察券を出すとすぐに診察室へと案内された。今日は優しか患畜がいないようだ。こざっぱりとした清潔感に溢れるこの病院はそこそこ流行っており、日によっては何人か待ち人がいることもある。
診察台にキャリーバックを乗せながら、「こんばんは」と今度は獣医師に挨拶をする。
初老の獣医師は椅子をくるりと回転させてこちらを振り返ると「こんばんは」といつもの丁寧な声で言った。
「調子はどうですか?」
「昨日から大分いいです。鼻水も止まってきました」
獣医師はバックから出された猫の口の中などをチェックしながら淡々と問いかけてくる。
「口内炎は出来てないですか?」
猫の口をチェックし終えた獣医師に優が尋ねた。
「大丈夫ですね。この子は歯がないですから。治療のために歯を抜く場合もありますからね」
「そうですか」
ふうとため息をつきながら猫の背中を一度撫でた。
優の猫は猫エイズに感染しているのだ。一週間程前から鼻水を出し始め、風邪の兆候が見られたので、病院に連れて来たところ、血液検査で判明した。猫の年齢は不詳だが、歯が犬歯を含めほぼ全て抜け落ちているので、高齢であることには間違いがない。猫エイズの場合、口内炎により食事が摂れなくなり死に至るケースが多いことを優はインターネットで調べていたので、その心配は排除されたことになる。しかし、エイズと名の付く通り、抗体が弱くなるので風邪でも死に至ることもまた確かだ。そのため、抗体を増やすインターフェロンを二日に一回、計三回注射するという治療方針を獣医師より提案された。今日はその三回目だ。
猫の背中に注射を一本打つと、獣医師はまた椅子に座りくるりと背中を向けてカルテに文字を書き始めた。
「またどうしても鼻水が止まらなかったり、様子がおかしいようなら来てください」
「はい」と獣医師の背中に声をかけながら、猫をまたキャリーバックに押し込む。
最後に「ありがとうございました」と背中に声を掛け、診察室を後にした。
受付の女性は獣医師よりカルテを渡されると、少しの間パソコンに何かを入力し、視線はそのままに「鈴木さん」と声を掛けた。プリンタから吐き出された用紙を受付に出しながら「今日は三千六百円です」とにこやかに言った。優は猫の入ったキャリーバックを抱きながらもたもたと鞄から財布を出し、現金を差し出すと、女性は素早くお釣りとレシート、診療点数の書かれた先程の用紙をその手に渡した。
財布に入れるのは面倒だったので、そのままポケットにそれを突っ込むと、キャリーバックを胸の前で持ち直して「ありがとうございました」と軽く頭を下げた。女性は笑顔のまま「お大事に」と返してくれた。
また肩で扉を押しながら、動物病院を後にする。夕暮れと夜の混じり合った風に髪がさらりと流される。
「よかったね、もう大丈夫だよ。元気になってね」
キャリーバックの中に声を掛けると一層大切な物を取り扱う様にバックを持ち直し、足早に夜の匂いが立ち込めてくる街中を歩き始めた。
早足で歩いて自宅ビルの裏口へと向かった。階段を目前にした所で携帯電話から着信音が流れてくる。相手を確認するまでもなく、その曲は美奈子からの着信を現していた。
もう家に着くのにと心の中でつぶやきながら電話に出る。
「もしもし、もう家の前だよ?どうしたの?」
階段に足を掛けながら答える。背後で宅配便の軽バンが止まるのが視野の隅に入った。
「ねぇ、ユウ、今私のハマってるお笑い芸人って知ってる?」
何の話しかと思えばである。確かに美奈子はお笑い番組が好きで、まだメジャーでない芸人を見付けてはライブに行ったりと次から次へと新しい芸人を紹介してくれる。
優はため息を一つついて、「もう家に着くから、それから聞くよ」と答えた。
「薬田啓よ」と美奈子はお構いなしに会話をつづけてくる。
「え?何?」意味が理解出来ずに優は聞き直した。
「だから、薬田啓よ。や・く・た・け・い。復唱して」
「えぇ?やくたけい?」
キャリーバックの中の猫が「にゃお」と鳴いた。
背後から宅配業者の制服を着た男性が非常階段を上がってくる。優は急に不安になった。宅配業者が非常口を使うことなど考えられない。一瞬の硬直の後、優は全力で階段を駆け上がった。制服の男性も駆け上がってくる。明確な恐怖を覚え、三階と四階の間にある踊り場で振り返った優は思わず片手に握っていた携帯を宙に放り出してしまった。
しまったと感じると同時に身体が反応してしまった。優は階段の低い手すりの向こうの携帯を受け取るようにその身を乗り出した。勢いの付いた身体は制御が付かず、手すりから腰まで乗り出した所で、落ちるとそう感じた。
「ユウ!」
美奈子の声が聞こえた気がした。身体は一瞬の浮遊感の後に急速な重力を感じた。携帯はその重力に従ってどんどんと落ちていく。自分も落ちていくのだと認識したとき、新たな恐怖が体中に満たされたが、重力に逆らうことはもはや不可避であった。
その時、右肩に強烈な痛みが走った。引きちぎられるのではないかと思うほどの張力を肩に感じたのである。
カタンと地上に携帯が落ちた音がした。
見上げると宅配業者の制服を着た男が優の右手を握っていた。
「おい、猫を捨てろ!」
男に言われて、今だしっかりと左手でキャリーバックを抱えていることに気が付いた。
「猫か、俺か、どっちをとるんだ!」
男が苦しげに声を絞り出した時、背後を何かが通り過ぎて行く感覚を覚えた。
あ、と男が小さく声を上げた。その時少し男の力が緩んだ。優は自分の右手の力を抜いた。
落ちる、落ちて行く。その僅かな時間で猫を守るためになるべく身を屈めて両手でしっかりとキャリーバックを抱き締める。
足に激痛が走った。その後、腰、背中、頭と地上に着いたが、何かが優の下にあり、幸い強打することはなかった。優はそのまま意識を失った。
優を守ったその何かが美奈子の身体だと知ったのはそれから三日後のことであった。
【過去】
優と美奈子が出会ったのは彼女らが高校生の時だった。高校には制服がなく、私服であることが優には疎ましかった。毎日毎日何を着て行くのか、考えるだけで面倒だったのだ。だから優は夏はTシャツにジーンズ、冬はトレーナーかセーターにジーンズとまったくお洒落とは縁のない服装をしていた。一方美奈子はと言えば、入学式に鮮やかな振袖で現れ、その後も毎日ファッション雑誌から抜け出て来たような垢ぬけた服装とその愛らしい美貌で学校内で知らないものはいない程目立った存在だった。
もちろん、美奈子は毎日男女を問わず大勢の取り巻きに囲まれ、影の薄い優などとは次元の違う生活を送っていた。そんな美奈子との接点は美術部だった。
優は一年生の時から美術部に所属していた。その日の放課後もほとんどが幽霊部員の美術室で一人で絵を描いていた。そこに突然美奈子が現れたのだ。優は無言のままファッション雑誌から抜け出て来た自分とは無縁の存在を見つめた。
「一人?」
その存在が言葉を発した。その時初めて優はこの存在も同じ人間なのだと認識した。
片手に筆をもったまま、何度か頷く。
「私、入部したいんだけど」
意味が分からず「入部?」とオウム返しに言葉をつないだ。
「そう、私デザイナーになるから、絵の勉強がしたいの」
入部という言葉がこの美術部に属することを意味するとやっと理解した優は慌てる。
「で、でも、ほとんど誰もこないし、それに、誰かが教えてくれる訳でもないし・・・」
「じゃぁ、あなたが教えてよ。ね、いいでしょ?鈴木優さん」
尻つぼみに弱くなる優の語尾に重ねるように美奈子がたたみ掛けた。優は心臓が飛び出るかと思うほどおどろかされる。美奈子がフルネームで自分の名前を呼んだのだ。今まで一度たりとも会話はおろか、交わりすらなかった美奈子から自分の名前が出てくるなどまさに青天の霹靂である。
そんな優の動揺を知ってか知らずか「鈴木さんじゃ堅いわよね。ユウって呼んでいい?」と美奈子は続けた。
目を見開いたまま頷くことしか出来ない優に更にたたみ掛ける。
「私のことはミナって呼んで。みんなそう呼ぶから。私も気に入ってるし」
「ミナ・・・」
またしてもオウム返しに口に乗せてから、それが重要な意味を持つことを知って優は更に慌てた。そんな優を見て美奈子は満足そうに微笑んだ。そして扉を閉めると優の隣に椅子を引いて来て座った。
「何描いてるの?」
とても自然な仕草の一つ一つが優を驚かせる。初めて至近距離で接した美奈子からは優しい香りがした。その香りがとても心地よくて優は強張っていた身体から力が抜けて行くのを感じた。
「学校の裏にある池」
「裏に池なんかあったっけ?」
「うん、あるよ。池って言うか、沼って言うか」
「あぁ、あの水溜りねぇ」
人見知りをするタイプの優だが、なぜか初対面の美奈子とは当たり前のように会話ができた。美奈子のペースに乗せられてしまったのかもしれない。それでも構わなかった。美奈子の鈴を転がすようなきれいな声がすぐ近くから聞こえることが心地よかった。自分のアルトな声と交互に交わされる鈴の音が妙に旋律を描くように美しいもののように聞こえた。
その後、二人で三十分ぐらい話しをした。それは極普通の女子高生の会話で、毒にも薬にもならないような会話であったが、優にとっては夢のような時間であった。
時計をちらりと見て「じゃぁ、また明日」そう言って美奈子は立ち上がった。
「うん、また明日ね」優の口から自然と約束の言葉が出ていることに本人は気付いてなかった。
美奈子が立ち去った後、なぜ自分の名前を知っているのか聞くのを忘れたと思ったが、なんとなくそんなことはどうでもいいような気がして口角が自然と上がり、自分が笑顔でいることにも気が付かなかった。
その日から美奈子は毎日放課後美術室を訪れるようになった。優は絵を勉強したいと言った美奈子の希望を叶えるために、デッサンから自分の知っている技術を美奈子へ教えた。美奈子の絵はその性格を現すかのように大胆でそれでいて華麗であった。よい先生に導かれたのか、そもそもの才能か、美奈子の絵の技術は見る見る上達した。優にとっては学校のアイドルである美奈子を独占する時間がとても快感でもあり、一を知って十を知る美奈子の勘の良さや才能に驚かされる毎日であった。
優は美奈子が自分を相手にしているのは絵のためと割り切っていたので、この関係は美術室の中だけの秘密の関係だと思っていた。しかし、それは美奈子の手によって日常にまで広がることとなる。
美奈子は校内で優を見かけると、ためらいもなく名を呼んで駆け寄ってきては優の腕にしがみつく様に身体を寄せてきた。もちろん美奈子の取り巻き達はただ唖然とするばかりである。傍から見ても美奈子と優の接点が見付からないからだ。なぜ美奈子が冴えない影の薄い、友達と呼べる人もろくにいない優を特別にかまうのか、それが理解出来なかった。
それ故に優は取り巻きの一部からイジメとも取れる行為を受けるようになった。それは些細なことではあるが、人の心を傷つけるには十分な行為であった。もちろん、優は誰にも自分の身にそんなことが起こっているなどとは言わなかった。美奈子になど、言えるはずがない。
それでも何かの拍子に美奈子がそれに気付くと、彼女は烈火の如く怒った。取り巻き達に罵倒を浴びせ、そのような行為がいかに自分を不愉快にさせるかを取り巻き達に理解させた。
その事件の後、優に対する周りの人々の視線が変わったような気がする。なんだか居心地の悪い、むず痒いような視線であったが、あからさまな非難の視線ではなかった。
美奈子は殊更優をかまうようになった。授業の間の休憩時間はかならず優の所へ来たし、昼食も一緒に食べた。
一日の殆どを優と過ごすことを望んだ。そんな関係は受験を控える高校三年生になっても変わらず続いた。
ある日、美奈子は優に大手専門学校のパンフレットを差し出した。
「ねぇ、ここにしない?ほら、服飾科もあるし、ユウのやりたいって言ってたコンピュータグラフィック科もあるわよ」
美奈子に驚かされることには慣れたつもりであったが、これにはさすがに驚かされた。美奈子は自分に同じ専門学校へ受験しようと言ってきたのである。優は心のどこかで美奈子との蜜月は卒業と共に終わるのだと考えていたのだが、美奈子は優を手放すつもりなど更々ない様子だ。
「でもココ、通うの遠いよ?」
経済的に恵まれている美奈子にやんわりと断りを入れるように答えた。専門学校は市街地にあり、優達の家から通うには片道二時間はかかる。優の家庭は極普通のサラリーマン家庭なので、一人暮らしをするような余裕はないし、両親が一人暮らしを許すとは思えなかった。
美奈子はコロコロと鈴を転がすような笑い声を上げると、「だからぁ、一緒に住むのよ。私の叔父さんがね、ビル持ってて、そこの部屋貸してくれるって言うしさ。ユウは料理上手だし、私毎日おいしい料理食べれるなんて最高!」と言った。
優には益々意味が分からなかった。一緒に住む。叔父さんのビル。料理。そんな単語だけが頭の隅に残った。
それらの単語が繋がりを持ち、意味を成す頃には、すでに優の進路は決まっており、美奈子が優の両親を説得し終わった後であった。
高校卒業後、美奈子との生活が始まった。洒落たカウンターキッチンとリビング、それと各々の部屋が割り振られた。優の部屋にはロフトがあったので、そこにベッドマットを敷き、寝床とした。ロフトの下にはローテーブルタイプのパソコンラックを設置し、愛用のパソコンと周辺機器、そして小さな箪笥を置いた。それから安物のソファと本棚、それだけが優の家具の全てである。リビングには美奈子が持ち込んだ本革の立派なソファと大型テレビ、コレクションテーブルが置かれていた。コレクションテーブルには指輪や貝殻、ドライフラワーなど美奈子のセンスの良さを感じさせる小物が絶妙に配置されている。美奈子の部屋にはセミダブルのベッドに白い猫足のドレッサー、たくさんの洋服や鞄などの小物が部屋を埋め尽くしていた。それでも散らかっているという印象を持たせない所が美奈子の腕かもしれない。
二人の生活は充実したものだった。食事は主に優が担当し、掃除は美奈子が担当した。その他にも家事は互いに担当を決め、互いを補いながらの生活は十分満足のいくものであった。
美奈子はたまに優に自分の服を着せ、化粧をし、優を変身させては喜んだ。優はなされるままのお人形のような気分であったが、それが嫌なわけではないので美奈子の笑顔と鏡に映る自分の変な顔を見て楽しんでいた。
美奈子は優にお洒落をすることや、化粧をすることを望んだが、優には何をしても美奈子のようにはなれない自分を自覚していたので、「そのうちね」と言い続けていた。
専門学校での二年はあっという間に過ぎ去り、美奈子は望みどおり服飾デザイナーとして就職し、優も小さな印刷会社で画像加工の仕事に就いた。優は何度もこのままの生活を続けていいのかと美奈子に聞いたが、美奈子はさも当然とばかりに同居を主張した。
「だって、離れる意味が分からない」と言う。確かに今住んでいる場所は通勤にも便利だし、美奈子の親戚の所有物とあって、格安な家賃でいられる。それでも優は不安だった。いつか美奈子に飽きられる時がくるのではないかと。でもそれまでは側にいたいという気持ちもあったので、美奈子の言葉のままに同居生活を続けていた。
二人の関係が少し狂い始めたのは、優が猫を飼いたいと言い出した頃からか。美奈子は動物が好きではないので、説得するのに三日かかった。渋々ではあったが、美奈子が許してくれた時はうれしくて美奈子に抱きついた。
抱きついた美奈子の身体からは、初めて会ったあの日と同じ優しい香りがした。
それから美奈子は日に日に不機嫌になっていった。リビングで二人でテレビを見ている時に優の部屋から猫の声が聞こえると「呼んでる」と彼女は自室へ戻ってしまう。二人で過ごす時間が少なくなるのが美奈子には不満だったのだ。そんな美奈子の様子に気が付いたのか、優は度々玄関のあるリビングからではなく、自室へ直接入れる非常口から出入りすることが増えた。その事が益々美奈子を不機嫌にさせているとは気付いていなかった。
そして、あの日が訪れる。
【病院】
混濁した意識が徐々に戻ってくると、優は自分が見知らぬ場所にいることに気が付いた。何度か瞬きをすると、その動きに気付いた母親が「優ちゃん」と声を上げた。
母親は優の手を握り、もう片方の手を額にあて、涙で赤くなった眼を更にうるませて覗き込んできた。
優には何が何だかわからず、何度も瞬きをして、自分の置かれている状況を把握しようと試みた。
「優ちゃん、大丈夫?どこか痛いところある?」と母親は涙声で言った。
その言葉を受けて、自分の身体に神経を馳せてみる。痛い所だらけだ。体中が痛い。思わず呻き声が口からこぼれる。それを聞いた母親は更に握った手に力を込めた。
「優ちゃんよかった、よかった。無事でよかった」
全然無事ではない。こんなに全身が痛いのに。でも言葉に出来ず口から洩れるのは「うぅ」という呻きだけだった。
そもそも自分の置かれたこの状況が理解できない。なぜこんなにも全身が痛むのか。少しでも力をいれると落雷が背骨を刺す様に痛みが走る。
少しずつ回りが見えてくる。頭上には点滴の袋。スズキユウと片仮名で名前が書かれている。白い天井、白い壁。あぁそうか、病院にいるのだと理解した。しかし今度は何故病院にいるのかが分からない。少しずつ記憶を紐解いていく。猫を病院に連れて行って、それから、それから・・・。
落ちたのだ。非常階段から落ちたのだ。だからこんなにも全身が痛むのか。命は助かったのか。
そこまで理解してから優はふとあることに気付いた。
「みーにゃは?」と精いっぱいの大声を出したが、それは掠れたつぶやきでしかなかった。
「何?どうしたの?何か言いたいの?」と母親が身を乗り出して優の口元へ耳を近づける。
優はもう一度力を込めて「みーにゃは?」と言った。やはり掠れたつぶやきだった。
母親はそれが猫のことだと思い当たり、にっこりと笑顔を作った。
「猫のことなら大丈夫よ。今はボランティアの人が預かってくれてるわよ。馬鹿ね、一番に何を言いだすかと思ったら猫のことなんて」
こぼれる涙を拭こうともせずに笑顔のまま泣いていた。その涙を見て、自分の目にも涙が溢れるのを感じた。
生きている実感をようやく味わったのだ。そして愛する猫も生きている。自分はあの子を守ることが出来たのだ。そのことで胸が一杯になった。
翌日、二人の刑事が病室を訪れた。母親とは既に顔を合わせたことがあるようで、少し言葉を交わしてから優へと近づいてきた。一人は中年でゴマ塩頭を角刈りにした顔の四角い男で眉間に常にしわがよっている。もう一人はやけに身長の高い童顔でひょろっとした男だった。
ゴマ塩の刑事が自己紹介をしてから「この度は」と紋切型の挨拶をするのを優は他人事のようにぼんやりと見ていた。
刑事の質問は初めに美奈子との関係についてであった。いつからの付き合いか、同居していた理由、最近の美奈子の様子、あの日直前にかかってきた電話の内容。
優は嘘こそつかなかったが、本当の事も言わなかった。特に最後の電話の内容については「覚えていない」と答えた。ゴマ塩の刑事はその答えに眉間のしわをさらに深くした。
次にあの日の行動について聞かれた。答えることはほとんどない。動物病院の帰りに非常階段から落ちた。なぜだかは覚えていない。詳しいことは覚えていない。自分でもなにがどうなったのかわからない。
そんな言葉を繰り返すだけだった。それでも長身の刑事はその全ての言葉をメモしていた。
刑事は一枚の写真を優に見せた。それには造作のはっきりとした美男子と表現しても異論のないような男性が写し出されていた。
「この男に見覚えはありますか?」
その質問に優はしげしげと写真を見た。どこかで見たような気もするが、はっきりとしない。
無言で首を振ることで否定した。
「田代拓也と言う名前なんですが、聞き覚えはありませんか?」と重ねて刑事は問うた。
全く聞き覚えがなかったので、またも頭を少し動かして否定を表現した。
刑事たちはあからさまに残念そうな表情をして互いに頷きあう。
「この男はあなた達が落ちた時、非常階段にいたんですよ。ナイフを持っていました。この男に襲われたという覚えはありませんか?」
非常階段にいた男。そこで優はやっと理解した。あの男か。自分の手を取り、落ちないように受け止めてくれたあの男だ。
しかし、その事実以上に優を動揺させる言葉があった。刑事は今、「あなた達が落ちた」と言った。
落ちたのは自分だけではないのか?男は落ちてないようだ。では誰が?
あの時、優が右手一本で命を繋いでいたあの時、背後に何かが落ちて行くような感覚を覚えたことを思い出した。
何かが落ちて行った。何が?いや、誰が?
一つしか浮かばない答えを口に出してしまうと、夢から覚めてしまうような気がして唇が震えた。
それでも、掠れた声はその答えを言の葉に乗せてしまった。
「ミナは・・・?」
病室内の時間が一瞬止まった。誰もが息をすることさえ憚られるとばかりに呼吸を止めた。
「ミナは?」と再び問うた優の言葉で時間が動き出す。
ゴマ塩の刑事は後頭部を擦りながら、「笹原美奈子さんは、あなたより先に落ちたようです。美奈子さんの体がクッション代わりとなって、あなたは致命的な怪我をすることもなく助かったんですよ」と言った。
その言葉の一つ一つを優は噛みしめるように自分の頭の中で整理した。美奈子が落ちた。それが不可解でならない。自分は落ちそうになったが、なぜ美奈子が、しかも先に落ちたのか。
自分は写真の男に追われていた。でも美奈子は部屋にいたのではなかったのか。いや、あの時優の名を呼ぶ美奈子の声を聞いたような気がする。それでも美奈子が先に落ちたことの原因を見つけることは出来なかった。
刑事はその後も何か質問をしてきたが、優は「覚えていない」を繰り返すだけだったので、あきらめたように席を立った。深々と頭を下げながら「何か思い出したら連絡してください」と言って病室を後にした。
優は今朝問診に来た医師の言葉を思い返していた。「両足とも複雑骨折していますが、奇跡的に脊髄や脳へのダメージはありませんでした。本当に奇跡ですよ。」
奇跡ではない。美奈子がクッションになってくれたのだ。美奈子に助けられたのだ。
「ねぇ、母さん、ミナはどの病室にいるの?」
母親は林檎の皮を剥いていた手をぴくりと震わせた。俯いたまま「ミナちゃんは、優ちゃんを助けてくれたの」と答えた。
「どこにいるの?」
重ねて聞くが答えはいくら待っても帰って来なかった。母親はただ涙を浮かべて見つめてくるだけだった。
どこにもいないのかと優は思った。どの病室にもいないのだ。美奈子はもうこの世界にはいないのだ。美奈子は死んだのだ。不思議と涙はでなかった。ただ胸のなかに冷たい風が通り過ぎていくのを感じた。
【刑事の悩み】
病院から出ると杉村刑事は腕を組んで首をかしげた。
「スギさん、解せませんか」と隣を歩く長身の刑事が言った。
「解せるわけがないよ、君だって同じじゃないのかね、上島君」
上島と呼ばれた男が答えた。「えぇ、何も覚えていないの一点張りですからね」
杉村はもう一度首をかしげて唸った。
「これじゃぁ、調書も何もあったもんじゃないよ。田代拓也はたまたまその場にいたの一点張り。こうも頑固者が集まると何があったのかさっぱり解らん」
首筋を揉むようにゴマ塩頭を下から撫で上げる。
「田代拓也はなぜ逃げなかったんでしょう」と上島が問うた。
「本人に言わせれば何も悪いことはしていないからだそうだが、なんとも人を馬鹿にした話しだよ」
杉村には現場の状況が不可思議でならなかった。笹原美奈子は頭から地上に落ちている。普通手すりの上に立ってそのまま飛び降りたりしない限り、人間は頭から落ちるものだ。しかし、鈴木優は足から落ちたのだ。手すりに残っていた繊維の鑑定により、美奈子は四階から、優は三階と四階の間にある踊り場からそれぞれ落ちたと推測される。これもまた謎だ。二人仲良く飛び降り自殺という訳でもないようだ。
更に話しをややこしくするのは田代拓也の存在だ。彼はたまたま「高い所で街を見下ろしながら煙草を一服したくて階段を上っていたら、次々と人が落ちて来た」と証言しているのだ。
事件のあったビルは七階建でさほど高いというわけではない。しかもサバイバルナイフを携帯していた。ナイフについては「梱包を開けるときに使う」と証言しているが、それならカッターナイフで十分だ。そして拓也の繊維も優と同じ踊り場から採取されている。「びっくりして踊り場から下を覗き込んだ」というのが拓也の言い分だが、彼はそのまま救助をするでもなくその場にいたのだ。
救急に一報を入れたのはビルの清掃員で、物音に気付いてビルの裏に行ったら女性が二人倒れている、というものだった。その後清掃員は非常階段にいる拓也を見つけ彼が事件に関係あると思い拘束したのだ。
拓也はそのまま警察へと引き渡された。美奈子、優とも面識はないと言い張っている。
上層部のシナリオはこうだ。拓也が宅配を装い非常口から美奈子を呼び出し、ナイフで脅した所、彼女は階段から身を投げた。そこへ同居人の優が帰ってくる。優が異変に気付き逃げようとした所を踊り場から拓也が彼女を突き落した。目的は金目当ての強盗ではないか。
しかし杉村には納得がいかない。強盗目的ならば、何故拓也はその場に止まっていたのか。拓也は事実宅配の仕事をしており、装っているという訳でもない。非常階段の鍵はオートロックで施錠されており、拓也は金目の物はなにも手に入れていない。更に優は足から落ちているのだ。そのことがどうしても引っかかる。
シナリオには無理がありすぎる、とそう考えている者は捜査陣にも多くいたが、早期解決を謳う上層部はなんとしてもこれで押し通そうという考えだ。
被害者である優の話しを聞けば現場の状況がもう少しはっきりすると期待していたのだが、それも叶わなかった。
「鈴木優は笹原美奈子が死んだことを知らなかったようですね」
車の鍵を開けながら上島が言った。
「あぁ、その点だけは本当のようだな」
杉村は助手席に乗り込むとシートベルトを締めながらつぶやいた。
このままでは上層部のシナリオを強化こそすれ、覆すことは不可能だ。もし、拓也が本当に何もしていないとしたら、これは重大な冤罪を生みかねない。
シートに深く沈みこんで大きく息を吐いた。これから優の証言を報告するのかと思うと気持ちは重く、奥歯に何かがはさまったような不愉快さだけが増していた。
【命】
一週間後、優は自宅近くの病院に転院した。警察は毎日日課のように優のもとを訪れては同じ質問ばかりを繰り返してきた。優もまた同じ答えを繰り返した。「何も覚えてない」と。
真実、優には何が起こったのか理解出来ていなかった。田代拓也という男性とも全く面識がなかったし、美奈子の交友範囲は広く、その全てを把握している訳ではない。
美奈子はその容貌と竹を割ったような性格の故か、次から次へと付き合う男性が変わって行ったので、優にはそれらを把握する術はなかったし、美奈子は分かれた男性とも友達として付き合い続ける場合が多く、誰と恋愛中なのかはその手のことに疎い優にはさっぱりわからなかった。
あの日、自分が落ちそうになった時、拓也は優の手を取り、助けを差し伸べて来た。その点を考えると拓也には優に対する殺意はなかったのではないかと想像出来る。でもその事実を優は警察に話すことはなかった。何故だか解らなかったが、美奈子が死んだのは拓也の責任だと思っていたからだ。彼がどんな罰を受けようとも美奈子の死を贖うことは出来ないと考えていた。
一つ不思議なことは拓也自身も優を助けようとしたことを証言していないらしいという点だ。毎日訪れる警察からも彼が自分を助けようとしたと言った話しは聞かない。何故自分が不利になるようなことをしているのか分からなかったが、それこそ美奈子を死なせた罪は拓也自身にあると本人が証言しているようなものだと優は考えていた。だから自分も彼に有利な証言をする必要はない。そう考えていた。
会社には退職願を提出し、すでに受理されている。もうあの部屋に戻るつもりはなかった。戻れば辛くなるだけだと解っている。
しばらくはマスコミも事件について騒いでいたが、大衆の興味は既に別の事件へと向けられていた。
優はこれから何をしたらいいのか分からなかった。怪我が治れば退院する。あの部屋にある自分の荷物を片づけて実家に戻る。そしてまたどこかの会社に就職するのだろうか。そしてそのまま何事もなかったように歳を取って行くのだろうか。
美奈子がいない生活が考えられなかった。いつも美奈子に背中を押されながら生きて来たのだ。優が何かに迷った時はいつも美奈子が判断を下してくれた。その通りにしていれば、物事はうまくいった。優にとって美奈子は生きる指標となっていたのだ。その指標を失った今、誰に何を相談すればいいのか、それすら分からなかった。
美奈子ならどうするだろう。優は自分が美奈子になったつもりで考えてみたが、やはり答えは見つからなかった。そもそも美奈子が何を考えているかなど、優には想像もつかないからだ。
優は突然暗闇のなかに取り残されたような気がして痩せた体を抱きしめた。美奈子のような優しい香りなどしなかった。長く入浴できずにいる自分の身体からは不潔な匂いがした。
優の考えが纏まることは無くても否応なく日々は流れ、退院の日を迎えた。長く入院していたので足の筋力は衰え、立ちあがることも出来ないが、これから毎日リハビリが始まる。面倒を見てもらった看護婦らに見送られて優は病院を後にした。
自分の中には依然何の目標も指標もなかった。これからのことなど考えることも嫌になってきていた。もう何も考えたくない、それが本心であった。
だから美奈子と生活していた部屋を両親が片付けに行く時も優は同行しなかった。あの事件のことも、美奈子のことも何もかも忘れてしまいたかった。いや、忘れなければならないと自分に言い聞かせた。その反面、美奈子ならどうするかといつも自分に問いかけていた。本当の所は何も分からないが、もし美奈子だったらと自問自答を繰り返した。不毛であるし、矛盾である。しかしそのことで優は現実に引きとめられていたのかもしれない。そうでもしないと優の精神は破たんを来たしかねなかった。
実家に帰るとボランティア団体に与られていた猫が待っていた。
キャリーバックから出された猫は優を見て「にゃあ」と鳴いた。その時ずっと胸の内に吹き荒れていた風穴が愛しさで満たされていくのを感じた。
「みーにゃ」優は愛猫の名を呼んだ。「にゃあ」ともう一度猫が鳴いた。
猫を抱きあげるとこれ程の涙はどこから出てくるのかと言うほど泣いた。涙が溢れて止まらなかった。美奈子の死を聞いても泣くことができなかったのに、今は意味もなく涙が止まらない。
愛しさが涙となって込み上げてくる。そして美奈子を失った悲しさとなって頬を伝う。この時優は本当の意味で美奈子の死を実感したのだ。
美奈子の笑顔、声、香り、その全てが脳裏を駆け巡った。そしてその思いを全て猫へ注いだ。この小さな生き物は優の思いを全て受け止めて、そして愛情へと変換して優に返してくれる。それが堪らなく悲しかった。無条件に愛してくれるこの存在が愛おしくて儚くて、切なかった。守られていたのは猫ではなく自分だったのだと気が付いた。自分は周囲の人々に守られていたのだ。特に美奈子に。
今度こそ守ろうと思った。この小さな猫という生き物を守り通そうと思った。美奈子が優にそうしてくれたように、優は猫を守り続けると心に刻んだ。
【裁判事情】
日本の裁判事情は年を追うごとに変わって行った。二〇〇九年、裁判員制度が導入された。その数年後には死刑が撤廃された。その代りに導入されたのが終身刑だ。無期懲役では模範囚であれば何年か後に仮出所を許されるが、終身刑にはそれがない。生涯を檻の中で終わらせるのだ。もちろん賛否両論議論の末の制度である。しかしこの制度にもやがて限界が訪れる。犯罪件数の増加とその凶悪化が囚人の増加と終身刑の増加を産んだ。結果拘置所は人で溢れ、人権問題へと発展した。もう一方でテクノロジーも日々進化していた。生命の不思議は解き明かされ、人の脳の謎に関する解明も進んだ。そうした事情の中で、終身刑の在り方にも変化が生じた。早い時期から終身刑を採用していた欧米で実用されている方式だ。それは囚人の身体の自由を一切奪い、囚人はカプセルの様な物のなかに寝かされ、栄養補給などの代謝は一切をコンピュータにより管理するというものだ。脳に接続されたコンピュータによって囚人は外界とコンタクトを取る。その声は生前のそれを利用し、コンピュータが再生する。モニターには囚人の顔がコンピュータグラフィクによって再現される。微妙な脳の信号を読み取り、笑ったり、怒ったりとモニターの表情が変化する。囚人は生きながら植物人間状態に置かれるのだ。
これなら脱走の心配も見張りの必要もない。少ないスペースで大人数を監視下に置くことができる。
またしても賛否両論議論が交わされた。しかし既にこの制度を導入している国では凶悪犯罪が減少したとの統計結果もあり、遂に日本にも導入されることとなった。二〇三六年のことであった。
【罪と罰】
結局拓也は警察上層部のシナリオ通りの罪で起訴された。彼は強盗傷害致死罪に問われ裁判へと誘われた。
検察の描くシナリオにはどう考えても無理があったが、それを否定するだけの証拠は何もない。拓也は一貫して「自分は何もしていない」と訴え続けた。
優は複雑な思いでその裁判を見守っていた。彼が人を殺してなどいないことは自分が一番よく知っているからだ。
あの状況で拓也が美奈子を階段から突き落とすことなど出来る筈がないし、優自身も自らの意思で彼の手を放したのだ。それでも美奈子の死には拓也が関係しているとしか思えなかったから、優は彼が罪を負うのは当たり前だと考えていた。
しかし裁判の流れは優の予想以上に拓也に不利に傾いていく。拓也に窃盗の前科があることや、多額の借金があること、そしてなによりも拓也の頑なな態度が裁判員の心象を悪くした。反省の色がないと言うことだ。
優は自分のしたことが本当に正しいのか、不安になってきた。拓也は自分を助けようとしてくれたのに、今自分は彼を謂れなき罪に落そうとしている。だがそれは自分だけの責任ではないはずだと言い聞かせた。拓也も優を助けようとしたことを一切話さないからだ。彼がそのことを証言したならば、優も認めようと思っていたが、その機会は最後まで訪れなかった。
結審の日、両親は優に裁判を傍聴するかと聞いてきたが、優はその結果を聞くのが怖くて断った。直接裁判長からその言葉を聞くことが怖かった。拓也に科された罪はそのまま自分の罪であるように感じられたからだ。
事態は優の考える中で最悪の結果をもたらした。終身刑である。テレビのアナウンサーは「終身刑を言い渡された犯人田代は不敵な笑みを浮かべて法廷を後にした」と伝えた。
優の身体は自然と震えた。震える身体を抱き締めながら拓也の笑みを思い浮かべてみる。それは本当に不敵なものだったのか。違う、とそう思った。それは優へのメッセージのように思えてならなかった。「お前の望み通りになったぞ」と彼が語りかけて来ている気がして、優は身体の芯まで震えた。
酷く後悔した。と同時に拓也に怒りを覚えた。何故本当の事を言わなかったのかと。理不尽な怒りであることは理解しているが、そうでもしないと拓也の人生を終わらせてしまった罪を負うには重すぎた。
結審の日から優は自室に引きこもっていた。考えることは拓也の事ばかりであった。彼はもうあのカプセルに入れられてしまったのだろうか。自分の事を恨んでいるのではないか。今ならまだ間に合うかもしれない。いや、今更自分が何か言った所で何も変わることはない。そんな思考がぐるぐると頭の中を駆け巡っていた。
一日、二日と日が過ぎて行くに従って優の思考は重力を持って重くなって行く。まだ間に合うかもしれない。いや、もう間に合わない。もしかしたら。もう無駄だ。何度も何度も同じことを繰り返す。食事もろくに喉を通らなかった。そんな優の態度を見た両親は腫れ物に触るように扱った。ただ猫だけは変わらず側にいてくれた。自分がどんなに思い悩んでいても、何事もないかのように側に居てくれる。それだけが救いだった。優は生まれ変わったら猫になりたいと思った。こうして日がな一日好きな人の側にいて、のんびりと過ごせたらどんなに幸せか。自分は誰の側にいたいのだろう。美奈子だろうか、それとも。そこまで考えて拓也の事が頭に浮かび、また思考が停止した。
食卓には優の好物が毎日並べられ、母親は事あるごとに優を外出するように促した。買い物に付き合ってくれないか。たまには外で家族で食事をしないか。新しいショッピングモールが出来たのでウインドウショッピングでもしないか。
優を思ってのそれらの言葉が疎ましくて仕方がなかった。そうして日々を過ごすことで拓也への罪悪感は決定的に優の心を掴んでいた。人を殺したらこんな気持ちになるのかと優は思った。思うにつれ拓也の本心が分からなくなる。なぜ甘んじて罪を負ったのか。拓也とはどういう人物なのか。どんな人生を歩んできたのだろうか。美奈子とはどんな関係だったのか。一日中拓也の事を考えていた。テレビで何度も見た拓也の端整な顔を思い出していた。きれいな顔をしていた。きっとカプセルに入った彼はそのきれいな顔のまま静かに目を閉じているに違いない。今は何を考えているのだろう。カプセルに入るのと、こうして一日中部屋に籠っているのとどう違うのだろう。優の心は拓也という名のカプセルで覆われていた。
ある日、母親が優の部屋をノックしておずおずと言った。
「刑事さんが来てるの。優ちゃんに会いたいって。嫌なら断ろうか?」
刑事という単語を聞いて優はとうとうこの日が来たのかと思った。自分の罪が暴かれる日がようやく来たと思った。すっと心の支えが降りた気がした。自分はこの日を待っていたのだとも思った。
膝に乗っていた猫を下し、無言で立ち上がると扉を開ける。突然のことに数歩後ずさった母親には目もくれず優は玄関へと向かった。
玄関にはゴマ塩頭の刑事が立っていた。杉村と言う名前だったと思う。優を見ると被ってもいない帽子を上げる仕草をして「どうも」と言った。
「外で話をしませんか。今日はいい天気ですよ」
杉村に促されて優は玄関から外に出た。家から出るのは何日振りか。西に傾きかけた日差しが自分の罪を咎めるように眩しかった。
しばらく無言で歩いて、近所の公園に着いた。杉村は当たり前のように公園に入るとベンチに腰を降ろした。優もそれにならって隣に座った。公園には子供たちの歓声が溢れている。優はふと子供の頃を思い出す。自分もよくこの公園で遊んでいた。あの頃に戻りたい。そんな気持ちになった。
「足の具合はどうですか?」と杉村は聞いた。
「はい、特に不自由はないです」優は答えた。家族以外と言葉を交わすのは久しぶりだと感じた。
「色々と大変でしたねぇ。」
「えぇ」
答えながら何が大変だったのかと考えた。自分の中であれ程煩悶したというのに、世間的には大して大変ではなかったような気がする。
「一つだけ、教えてもらえませんか?」杉村が人差し指を立てて口元にかざした。その人差し指は一つの意味にもとれたし、秘密の意味にもとれた。優はゆっくりと頷いた。
「普通人間てのは高い所から落ちると、こう、頭から落ちるんですよ。頭のが重いですからね」
優は自分の顔が強張るのを感じた。
「でも鈴木さん、あなたの場合は足から落ちた。自分にはこれがどうしても解らないですよ。突き落されたってなら、尚更頭から落ちるはずだ。何度も聞きますが、あなた、一度どこかに掴まったりしませんでしたか?」
何度も聞いた質問だ。そして何度も覚えていないと答えた。しかしこの日、優は俯いて「えぇ」と短く答えた。
「やっぱり。そうでしょう、そうでなきゃああはなりません。」杉村は何度も頷きながら言った。
「でもね、鈴木さん、それならそれで、あなたの掴んだ場所に指紋なりなんなり痕跡が残るんですよ。」
きゅっと心臓が音を立てて縮んだ。
「あなた、どこに掴まったんですか?」
眩暈がした。日差しが優の罪を責める。杉村が真実へと迫る。拓也の顔が頭をよぎった。
今だ、今しかない。本当の事を話すなら今しかない。優は大きく息を吸ってから口を開きかけた。
「いや、いいんです。今更どこだっていいんです。あなたが足から落ちたこともはっきりしましたから」
言葉にする前に杉村に遮られてしまった。そして眉間のしわを一層深くして言った。
「ただ、もう少し早くに聞きたかったですねぇ。それが残念だ」
制裁の槌は落とされた。杉村は知っているのだと直感で感じた。知っていてその答えを優には語らせることを許さなかった。
杉村はよいしょと呟きながら腰を上げると、何度か臀部を払って「では、ごきげんよう」と声をかけて歩きだした。
優は知らずに冷や汗をかいていた。握りしめた手にじっとりと汗が滲む。子供たちの歓声が遠くに聞こえた。
日差しは変わらず優の罪を責める。杉浦の後姿も優を責めている。拓也の端整な顔が頭をよぎった。その顔がデスマスクの様に表情を失ってカプセルに寝かされているのを想像した。高校生の時にデッサンをした石膏の胸像を思い出した。拓也の顔が石膏像と重なる。日が沈むまで優は動くことが出来なかった。
【拓也と美奈子】
その時、田代拓也は途方に暮れていた。とにかく全てのことに疲れを感じ、何もする気が起きずに、ただ座っていることさえ疲れを感じていた。
この一か月あまりの生活の変化を思い起こすと、腹の底からため息が長く洩れる。
それまでは普通の大学生であった。特に成績がいい訳でもなく、何か才能があるわけでもなく、大多数の人がそうする様に高校を卒業し、自分のレベルに合った大学に入学した。友達と遊んだり、アルバイトをしたりと普通の生活を送っていた。しかし、ある日家に帰ると、部屋の中は雑然とし、部屋中を見回したが、そこに残っているのは生活の残滓のみであった。テーブルに何通かの書類が散乱していた。それらは借用書と拓也に宛てた短い言葉だった。「拓也、ごめんなさい」それだけが走り書きされていた。
拓也に分かったことは、両親が自分のいない間に夜逃げしたということだけだ。いや、昼間に居なくなったので夜逃げという表現は正しくないか。そんなどうでもよい考えが頭をよぎった。
そのまま雑然とした部屋の中で座り込んでしまった。これから何をすればいいのか。大学は?この家はどうなるのか?自分はどうすればいいのか?
疑問符ばかりが頭に浮かぶ。
思考を遮るようにけたたましく電話が鳴った。強制的に現実に戻された拓也は反射的に受話器を取った。
下卑た男の野太い声が威嚇する様に受話器から聞こえてくる。
「おい、今日こそは払ってもらうぞ。いいか、一時間後にはきっちり耳揃えて用意しとけや」
そこまで聞いて慌てて受話器を置いた。これはまずいと心の中で警鐘が鳴っている。ここに居てはまずい。とにかくここを出なければ。それだけの思いに突き動かされて最小限の衣類や日用品、自分の全財産を鞄に入れると家を飛び出した。どこへと言う訳でもなく走った。とにかく遠くへ。誰も自分のことを知らない所へ。
それから拓也の生活は一変した。所謂ホームレス状態に成らざるを得なかった。それでもさすがに段ボールの家で生活することは拒まれたので、ネットカフェなどで寝起きし、昼は仕事を探して彷徨った。しかし住所を失った彼には日雇いの仕事すら見つけることは難しかった。所持金はみるみる減って行き、ついにネットカフェを利用する金もなくなり、仕事を探す意欲も失い、ただ彷徨った。
そして今はただ途方に暮れて、人の行きかう駅前の噴水の縁に腰を下している。幸い暖かい季節であったので寒さに凍えることはないが、どうしようもない疲れが全身を満たしていた。
「おまたせ。遅くなってごめんね」
突然頭上から声が降ってきた。恋人との待ち合わせかと拓也は思いながら、左右に目を馳せたが、自分の周りには誰もいなかった。「ね、行きましょ」と見知らぬ女性が拓也の手を取って無理矢理立たせた。
「え?何?誰?」
困惑する拓也の腕をぐいぐいと引きながら女性は囁いた。
「お願い。しつこい男に追われてるの。新しい彼が出来たって言っちゃったから、付き合って。お願い、ね」
ようやく事態が飲み込めた。拓也は特に用があるわけでもないし、まぁいいかと思い女性と歩調を合わせた。
よく見るとなかなか美人だ。水色のワンピースがよく似合っている。成程これなら大抵の男は優しくされればその気になるかもしれない。拓也とて自分の置かれた現実が以前のそれであったなら、こんなかわいい女性と
連れ立って歩くのは悪い気がしない。
そのまま雑踏の中を二人で歩いた。一〇分ぐらい歩いてから女性は周囲を何度も見まわすと、ほうと一息付いた。
「ありがと。お礼にお茶でも奢らせて」
その言葉に恥ずかしながら身体が反応してしまった。ぐうと腹が鳴ったのだ。もう三日もまともな食事をしていないことを思い出し、拓也は赤面して俯いた。
女性はくすっと笑うと「お腹空いてるんだ。私も。せっかくだしどこかで食事しましょ」とまたも拓也の腕を引いて歩きだした。拓也は猛烈に惨めな気持ちになり、今度は力を込めて立ち止まった。怪訝そうに女性が振り向く。
「どうしたの?」
「いや、そんな奢ってもらうようなことしてないし。知らない人にそんなことしてもらう必要はない」
女性はちょっと驚いたように目を見張ると「私は笹原美奈子。ミナってみんな呼ぶわ。はい、これで知らない人じゃなくなったわね」と意地の悪い笑みを浮かべて言った。
その言葉にカッと頭に血が昇るのを感じた。拓也はそのまま踵を返して歩き出した。
「ちょっと待ってよ!」と言いながら美奈子が後を追って来る。
「私、名乗ったんだからそっちも名前ぐらい教えなさいよ」
早足で後を追う美奈子の言葉は少し息が上がっていた。
「田代拓也」とだけ言い捨てて拓也は更に歩を進めた。
「拓也か。ねっ、拓也!ちょっと待ってよ!」
待てと言われたので拓也は立ち止まる。そのまま振り返って「これ以上なんの用があるんだよ。関係ないんだからほっといてくれよ」と言い捨てる。
ようやく拓也に追いついた美奈子は息を切らせながら「関係なくないわ。さっき言ったでしょ。新しい彼が出来たって。あなた、それに付き合ってくれたんだから、あなたが新しい彼氏よ」
その微笑みは悪女と表現するに等しいものだった。今度は拓也がため息を付く番となった。この女は生来の小悪魔に違いない。こんなことに関わってしまった自分に後悔した。
結局美奈子とはその後も交流を持つことになった。拓也の事情を知った美奈子は住み込みの新聞配達の仕事を紹介してくれた。久方ぶりの布団に拓也は生きている幸せを感じずにはいられなかった。しばらくは新聞配達だけを仕事としていたが、時間にゆとりのある仕事なので、宅配便のバイトも始めた。これも美奈子の紹介だ。また美奈子に貸しが出来てしまった。美奈子は初対面の印象とは違い、色々と世話を焼いてくれる。ただ、美奈子を知るようになって、それが自分だけではないことも知った。特に同居しているという女性の事は殊更気にかけているようだ。
美奈子に「お願いがあるの」と言われた時は嫌な予感がした。いつもなら当たり前のように「これこれをしてちょうだい」と言うのに、今日に限ってお願いと来た。答えに迷っていると、「別に犯罪とかじゃないから」と心の内を見透かしたように微笑む。
「何?」
「簡単な事」
益々嫌な予感がして、自然と眉間に皺がよる。
「そんな怖い顔しないでよ。本当に簡単なんだから」
簡単ならば自分でやればいいではないかと思ったが口には出せなかった。美奈子は一度言い出すと聞かない。経験上それは嫌というほど知らされていた。
簡単な事の内容を聞いてひどく気分が悪くなった。我儘にも程がある。
「でも、それってその人には重要なことなんじゃないのか」
「だからよ。目障りなの」と舌打ちと共に吐き出す。
視線をそらして思い巡らす。それ程憎いものかと。美奈子に気に入られるというのもなかなか大変だと改めて感じた。特別同居人に関しては独占欲が強いように感じるが、本当の所は美奈子が同居人に依存しているのではないかとも思う。美奈子の生活は常にその人が中心になっていて、しかし美奈子は自分を中心に振舞う。恐らく自分と同じように振り回されているのであろう。ある意味美奈子らしいとも言える非常識さに拓也は呆れた。
「で、どうすればいいんだ?」
【拓也と優】
刑事が来てから優は一層部屋に引きこもるようになった。今まではダイニングで家族と共にしていた食事も自室で済ますようになった。家族との会話もなくなり、猫としか会話もしなくなった。その猫との会話すら言葉に出すことすらまれだ。言葉が通じなくても心は通じる。それが唯一の支えであった。自分でも長い一日を何をして過ごしていいのか分からない。それでも何もやる気が起きず、ただ横になってつらつらと考え事をするばかりの日々を過ごした。考えることと言っても、たどり着く先は拓也の事しかなかった。
まるで恋をしているようだと優は思う。毎日毎日、拓也の事ばかり考えている。今彼は何をしているのだろう。何を考えているのだろう。自分の事をどう思っているのだろう。
それはまさしく恋に落ちた女性の思考そのものだった。しかし自分のそれが恋ではなく咎の故であることを優は自覚していた。これが恋であれば救われたであろうに。いや、例え恋であっても救われることはないのかもしれない。拓也はカプセルの中でしかその命を保つことが出来ないのだから。どちらにしても自分の思いは救われないのだ。
「ミナ・・・」
美奈子が居てくれたらなんて言ってくれるだろう。そんな事を考えながら浅い眠りに誘われていった。
その時見た夢に美奈子が出てきた。場所は二人で過ごしたあの部屋のリビングだった。あの時と変わらず、美奈子は屈託のない笑顔で優に話しかけてくる。
「ねぇ、ユウ、コレコレ。今日買ったワンピース、これユウに似合うと思うの」
優は苦笑する。また美奈子の病気が始まった。美奈子は頼まれもしないのにこうして優に洋服やアクセサリーを買ってくることがしばしばある。優の肩口に服を当てて見せて「うんうん、似合う。これいいよ。今度これ着て一緒にデートしようね」と満足気に頷く。
そこで目が覚めた。夢は鮮明に記憶に残り、久しぶりに見た美奈子の笑顔は可憐な薔薇のように美しかった。思わず眼尻に涙が滲む。そして、ふと、あの時のワンピースはどうしたのだろうと思った。無理矢理美奈子に渡されたワンピースは一度も袖を通すことなく箪笥の肥やしになっていた筈だ。では、あの部屋から引き上げてきた荷物の中に紛れ込んでいるかもしれない。
「にゃお」と猫が鳴いた。まるで「探してごらん」とばかりに。優は優しく猫の頭を撫ぜると一つ頷いた。
取りつかれた様に突然立ち上がると、あれ程固執していた自室を出て、倉庫代わりになっている部屋へ向かった。その部屋には使われなくなった家具や読み手のいない本などが雑に積まれていた。その中に新しい段ボール箱を見つけ、優は近寄った。箱を開ける手が少し震える。箱から取り出される衣服や雑貨の一つ一つを愛おしげに見つめる。どの品にも美奈子との思い出が詰まっている。この箱には美奈子と過ごした日々が詰まっていた。
幾つかの物を取り出した後、あの時のワンピースを見つけた。それは薄いオレンジ色をしていた。
優はあの日美奈子がしてくれたように、それを肩口に当ててみる。
「うんうん、似合う。これいいよ」
美奈子の声が聞こえた気がした。ぎゅっとワンピースを抱き締める。涙が溢れて止まらない。
美奈子は今の自分のこんな情けない姿を見たらなんと言うだろう。一日中部屋に籠って、無為に日々を過ごす自分を知ったらなんと言うだろう。美奈子が助けてくれた命なのに。
知らぬ間に猫が側に居た。また一つ「にゃお」と鳴く。そうだ、美奈子はこの子の命も守ってくれたんだ。猫を抱きあげてきつく抱き締める。猫は嫌がる風でもなく、成すがままにしていた。いつもそうして優の形にならない思いをこの生き物は浄化して、そして勇気に変えて自分へと返してくれる。
「ごめんね、私がしっかりしなきゃ、みーにゃを守れないよね」
優は溢れる涙を袖口でぐっと拭うと、ワンピースを持って風呂場へ向かった。
突然部屋から出てきた娘の様子に母親は驚いた様子でその成り行きを見守っていた。
シャワーを浴びて身体の汚れを落とし、あのワンピースを着てみる。スカートの裾が揺らめくのが気になるのか、猫は足元をちょこちょこと走り回る。改めて見た鏡に映った自分はひどい顔をしていた。髪も長くカットしていないので伸び放題だし、肌も手入れをろくにしていないので荒れ放題だ。
「にゃお」と猫が合図を送ってくれる。笑顔で優が頷く。
そっと様子を伺っていた母親に振り向くと「母さん、髪、切って来るからお金貸して」と言った。母親は目を見張り驚いた様子を隠しもせず何度も頷き、優に何枚かの紙幣を渡した。「ありがとう」とだけ言って優は久方ぶりに外出した。
「今度これ着て一緒にデートしようね」
美奈子の言葉が耳元でくすぐるように踊る。優は今、美奈子とのデートをしているのだ。あの日の約束を今実現しているつものなのだ。
あれ程煩わしいと思っていた他人との会話も苦にならなかった。髪を切り、勧められるままに化粧をしてもらい、優は美奈子に化粧をされたことを思いだしていた。そして胸の辺りできゅっと手を握り締める。美奈子はここにいる。自分の中に生きている。
美容室を後にして、紅葉の始まった木々の間を歩きながら美奈子と会話した。もちろん心の中でだ。
それはとても楽しくて、優はこの新しい思考に魅了された。
「ねぇ、ミナ、今年はもみじ狩りに行かない?」
「えぇー、ユウの考える事ってなんか年寄りくさくない?」
「そうかなぁ、年寄りくさい?私、紅葉って好きなんだけどな」
「私はあんまり好きじゃないなぁ。だって枯れて行くより、春の花のがイキイキしてるじゃん」
「そうね、ミナには花のが似合うね」
「ユウだって花のが似合うに決まってんじゃん」
なんでもない会話が妙に楽しくてたまらなかった。美奈子がどんな風に、どんな顔をして答えてくれるか、優には手に取るように分かった。今まで美奈子の考えることなど突飛すぎて分からないと思い込んでいたが、今なら美奈子の考えも分かる気がする。突飛だと感じるのは自分があまりにも保守的な考え方だったのかもしれない。自分を標準とするから分からなくなるのかも。美奈子を標準とすると自分の世界はなんと小さいことか。
ふと思いついて美奈子に聞いてみた。
「あのさ、拓也ってどんな人?」
「どんなって・・・。説明するより直接会ってみれば?」
いかにも美奈子の言いそうな返事を心の中で紡いで自分で驚いた。
「会えるわけないよ。そんな。無理だよ」
「またまた始まった。ユウの悪い癖。何もしないで無理って決めちゃうんだから」
思わず息を飲む。確かに何も行動をしなかった。何もしなかった結果が今である。でも今更、とも思う。そんな優の心を見透かしたように美奈子の声が胸を掠める。
「会えばいいじゃん。聞きたいこと、直接聞けばいいじゃん」
知らずに立ち止まっていた。少し寒気を帯びた風が優の頬を撫でる。何度も美奈子の言葉を反芻してみる。そう、直接聞いてみればいいのだ。今まで悶々と思い悩んでいた事の全てを本人に質問してみればいい。とても簡単なことで、とても恐ろしいことだった。
カプセルの中の彼と会えと言うのか。自分の咎と向き合えと言うのか。
「ユウは何も悪いことしてないんでしょ?だったらいいじゃん。会えば」
見えない手が優の背中を優しく押した。雲の切れ間から日差しがこぼれている。優は一つ頷き、歩きだした。
係員に連れられて入った部屋は蛍光灯の明かりだけが煌々と煌く灰色の小さなものだった。椅子の前にモニターとマイクがある。それだけだった。他には何もなかった。
勧められて椅子に腰を降ろした。係員が出て行って程無くモニターの電源が入った。
優は膝の上でハンカチを握りしめて、その瞬間を待った。
モニターは除々に明るくなり、人の影を映しだす。何度もテレビで見た顔だ。
目を閉じたその顔には何の感情も感じられない。死者のそれを連想させた。
ゆっくりと拓也の目が開く。
「あの・・・」と優が小さく声を漏らすのを待たずにスピーカーから「誰?」と聞こえた。
「あの、私、鈴木優です。あの、えっと、ミナ・・・笹原美奈子の友達です」
モニターの表情が少し動いた。怪訝そうなと表現出来るような動きだ。
「あぁ、ミナの。で、何の用?」
優はハンカチを握りしめた手に一層力を込める。
「私のこと、覚えていませんか?ミナと一緒に住んでたんですけど。あの日・・・」
拓也は少し目を泳がせて記憶をたどる仕草をして「君か」と言った。
そのひと言に自分の行動によって拓也がこうしてモニター越しにしか会話が出来ない事実を突き付けられた気がした。優はあれ程聞きたい事がたくさんあったにも関わらず、何も言葉にすることが出来なくなってしまった。
しばしの沈黙の後、拓也が口を開いた。
「馬鹿だと思ってるだろ?俺のこと」
「そんなことないです!馬鹿なのは、私の方です」
するりと涙が優の頬を滑り落ちた。
「私が、私が本当の事を言わなかったから、だから」
「ストーップ。それ以上何も言うな。これは俺の選択だ。誰のせいでもないし、ましてや君のせいでは決してない。そこんとこ、勘違いしないでもらえるかな」
優の言葉を遮るように拓也がたたみ掛けた。優は唖然としてモニターを見つめる。
「それと、泣かないでくれる?なんか俺が泣かしたみたいで気分悪いから」
驚いて部屋を見回す。どこかにカメラがあるのだろう。そして考えてみれば当たり前のことだが、優の姿は拓也の脳へ信号として伝えられているのだ。
優は慌てて握っていたハンカチで涙を拭いた。
「ごめんなさい」
「誤るなよ。俺がいじめたみたいじゃないか」
「あ・・・すみません」
「だから・・・」
妙な沈黙が生まれた。同時にモニターの拓也と優は噴き出した。優の身体から力が抜けて行くのを感じた。
「お前、変な奴だな。ユウちゃんだっけ?」
彼が口にした「ユウちゃん」という響きに懐かしさを感じた。それは美奈子が呼ぶ時ととてもニュアンスが似ていたからだ。
「改めて、はじめましてってのも変な感じだな」
はじめましての所で拓也は目を閉じて挨拶の意を表した。慌てて優も頭を下げる。
「ユウちゃんのことはミナから聞いてるよ。ってか、ミナはユウちゃんの話しばっかりしてたっけな」
「ミナが?」
「うん、会うたびに聞かされてるよ」
美奈子が優の知らない知人に、しかも男性に自分の事を話していたことに驚いた。自分がそれ程話題性のある人物だとは思えないからだ。
「どんな風に話ししてたんですか?」
「どんなって、普通だよ。ユウちゃんが今日はこんな飯を作ってくれて料理がうまいとか、今日はこんな話ししたとか、どっか一緒に行った時の話しとか」
優は驚きに目を見張った。美奈子がそんな風に自分の事を話題にしていた事が信じられない。美奈子はもっと話すべき内容に富んだ日常を送っていたではないか。何故自分の事など些細な事を話題にしたのだろうか。
その思いを素直に言葉にしてみた。
「ミナがそんな風に私の事、人に話ししてるなんて知らなかった」
「ユウちゃんて、ほんと、ミナの言ってた通りの性格だな」
「え?」と思わず声が出た。モニターの拓也を真摯に見つめて首を傾げる。
拓也はくすくすと笑いをこぼしながら、「そうそう、その感じ。その天然なとこがミナの言ってた通りだ」と答えた。
「天然・・・ですか?」
「かなりいい感じに天然だよ」
確定されて益々意味が理解出来ずに首を傾げる。そんな仕種を見て拓也はいたずらっ子のような笑みを浮かべている。
「大体さ、こうやって終身刑の人間に面会に来るってのが普通じゃないね」
「普通じゃないですか?でも、話しがしたくて」
「それそれ、話しがしたくてって、変じゃね?俺、植物人間なんだぜ?」
「え、でも、今話ししてるじゃないですか」
「だから、普通は植物人間と話しなんか出来る訳ないじゃん。ましてや終身刑だぜ?その被害者が犯人と話しするって有り得なくない?」
優は何度も首を捻って考えながら、「でも拓也さんは犯人じゃないの知ってますし」と言った。
「おいおい、ゆうちゃん。俺、一応ユウちゃんを突き落したことになってるんだけど」
その言葉を受けて力いっぱい首を振りながら「でも、助けてくれたじゃないですか」と答えた。
拓也はあきれたと絵にかいたような表情をしてから、一度目を閉じるとゆっくり開いた。
「その話しはお終い。それ以上その話しをするなら、俺、拒否るけど」
語気の強さに押されて思わず身を引いてしまう。何よりも一番聞きたかったことであり、その話しをするためにここへ来たのだ。しかしここで話しを終えてしまっては、一生答えを聞くことが出来ない気がした。
ぐっとハンカチを握りしめて「わかりました」と答えた。
「で、他に何か用はある?」
優は逡巡し、「私の事はミナから聞いてるんですよね?でも私は拓也さんの事、何も知らないんです。拓也さんの事、教えてください」と言った。
モニターには眉間に皺を寄せて困ったような表情を映しだされていた。
しばしの沈黙の後、「やっぱ変わってるな」と今度は片方の口角を上げて意地の悪そうな笑みを映しだした。
優はそれを承諾と受け取り、笑顔を返した。
その後、取りとめのない会話を交わした。それはミナとの出会いだったり、仕事の話しだったり、ちょっと変わった体験の話しだったり。優には拓也が話してくれる自分の知らない美奈子の話しを聞くことが出来てとても嬉しく感じた。また、拓也も通常は何も思考を行えない状態に調整されているので、こうして会話をすることで自分がまだ生きている事を実感した。記憶もあり、思い出もあり、そして優との出会いもある。誰からも振り返られる事のない存在として命尽きるまで海の底を漂っているような、価値のない命が、この瞬間だけ価値の有る物のように感じた。
拓也と面会をした後、優の生活は驚くほど回復した。もう部屋に閉じこもることもなく、家族とも会話をし、買い物に一緒に出かけたりもした。
それから、美奈子の実家へも行った。どんな顔をして美奈子の両親と会えばいいのかと随分思い悩んだが、葬式はおろか、その後も一度も美奈子の墓前にも顔を出していない。きちんと美奈子の死と対面し、その事実を整理する必要がある。そのために美奈子の実家へ行った。
美奈子の両親は泣き笑いのような表情で優を迎えてくれた。「よく来てくれたわね」と声をかけてくれた。美奈子の写真が飾ってある仏壇に線香を上げ、両手を合わせて声に出さずに美奈子に語りかけた。
「ミナ、会いに来るの遅くなってごめんね。ミナのおかげで私、生きてるよ。ミナに貰った命、大切にするよ」
「ほんと、ユウはとろいんだから。ありがたく思いなさいよ」心の中の美奈子が答える。
美奈子らしいと思った。きつい物言いとは正反対にとても人を思いやる優しい性格だった。決して恩着せがましくならないように、わざときつい物言いをするのを優は知っていた。
その後、美奈子の両親と少し話しをした。ここでも又、美奈子が頻繁に優の話しをしていたことが分かった。美奈子は優が思っていた以上に自分のことを大切にしていてくれたことを知り、とても誇らしくもあり、嬉しかった。こんなにも愛されていたのだと改めて思い知らされた気分だった。
それからの優は今までとは想像も出来ない程、自主的に行動を取るようになった。
両親がまだ早いと止めるのも聞かず、仕事を探し、パートではあるが以前と同じような画像処理に関わる仕事に就いた。職場でも笑顔を絶やすことなく、仕事も精力的にこなした。すぐに社内の人間関係にも慣れ、周囲からは明るい子として評価されるにいたった。今まではなんとなく暗い感じと評されていただけに、驚くべき変化と言える。それはまるで美奈子が乗り移ったような印象さえ受けた。
拓也のもとへも月に二回は通った。別にこれといって話すべき内容はなかったが、拓也と話すことで美奈子との思い出を共有出来るような気がしていた。
「ミナだったらこう言うよね」
「絶対言うな。そっくり!」
拓也とは美奈子ごっことも呼べるような会話をよく交わした。美奈子だったらと面白おかしく生前の彼女の言動や行動を辿ってはそのマネをした。互いの共通点である美奈子の面影を追うことで二人の距離が縮まって行くのを感じた。
拓也も優の訪れを心待ちにするようになっていた。拓也に面会に来るのは優だけだ。両親はあの日、短い手紙を残して居なくなった後、何の連絡もない。もちろんどこかでニュースを聞き、自分の息子が殺人を犯したことは知っているだろうが、尚のこと連絡を取ることなどないだろう。ましてや終身刑となった今、両親が来たとしても拓也は面会を拒否するつもりだ。全ての歯車の狂い始めがあの日であることは間違いないのだから。
何度目かの面会の時に拓也が「ユウ、もう少し食った方がいいんじゃない?痩せすぎだよ」と言った。その言葉は美奈子から何度も聞かされていたものなので、思わず噴き出してしまった。
「何がおかしいんだ?俺、真面目に言ってんだけど」
優は笑いながら「だって、ミナと同じこと言うんだもん」と答えた。
「そらみろ、やっぱり痩せすぎなんだよ。ミナにも言われてたんなら、尚更なんとかしなくちゃな」
拓也は何度か優と会話する間に、どういう言い方をすれば優が言うことを聞くかを心得ていた。美奈子が言っていたと言うと素直に聞くのだ。もちろん実現されない事も多いが、それでも優が努力することは経験上知った。
「次に会うまでに、そうだな、二キロ太れ」とからかい半分に言う。
「そんなぁ、無理だよぉ」情けない声で優が答えると「また悪い癖。すぐに無理って決めるんだから」と美奈子の口癖を真似て見せた。
「あちゃー、ミナが復活したー」
頭を抱えてペロリと舌を出す仕草を拓也はかわいいと思った。優は日に日に表情豊かになっていく。初めて会った時は緊張して筋肉の強張りが表情まで固くさせていたが、今はよく笑う。笑うだけではなく、時にはふてくされてみたり、真剣に怒ったりもする。怒る時は決まって拓也が自分はもう死んでいると言ったような話し方をする時だ。その度に自分の置かれている現実に絶望感を感じざるを得ない。優と話しをするのは楽しいと感じる。でも優に触れることも、その声を直接聞くことさえできないのだ。今拓也が見ている優の姿さえ脳へと接続された端子からの信号でしかないのだから。そのことが歯がゆかった。自分で選んだ道ではあるが、優との出会いによって、少し後悔した。しかし、美奈子が生きていたならば、今のように優と打ち解けることも出来なかったのだろう。それどころか自分は嫌われ者になっていたはずだ。もうどうしようもないことだと拓也は何度も自分に言い聞かせる。こうして優が会いに来てくれる、それだけでも自分は恵まれている。ずっと海の底を漂うように何も感じず、何も考えず時を過ごすよりはずっとましだと思える。不満を持てることに生きていることを感じられた。
同時に優が来ることを望んでいる自分への嫌悪も高まっていた。こんな自分に関わる時間があるのなら、生きて側にいて優を守ることの出来る誰かと付き合った方が優のためになることは分り切っている。それでも優に傾く気持ちを止めることが出来ない。「またね」と言うその言葉に期待してしまう自分に嫌悪した。このままでいいはずはない。そうは思ったが、いずれ優も現実の恋をして自分から離れて行くだろうと分かっていたので、今、この瞬間だけ自分に向けられている笑顔を独占するぐらいは大したことではないと言い聞かせた。
【再び夏】
そして季節は巡り、また夏が訪れた。
その日、優が面会に来たと知らされた拓也は心に重要な決意を抱いていた。
いつものように優の笑顔がそこにあった。
「最近暑くなってきたんだよ。もう夏だもんね」
いつものように会話は弾んだが、心持ち拓也の表情が優れないのを優は感じていた。会話の内容はいつもの通り、自分の近況だったり、世間で話題の話しだったり、それを美奈子のマネをしながら二人にしか分からない言葉遊びをした。
面会時間の一時間はあっという間に過ぎてしまう。最近は係員の扉をノックする音で強制終了させられるのが常であった。今日もまた控え目なノックが二度響く。優はちょっと顔をしかめて残念そうに眉をひそめた。
それは一瞬ですぐに笑顔に戻るとモニターの拓也に「じゃ、また今度ね」と告げた。そのまま椅子から立ち上がろうとする優に拓也が答えた。
「次はないよ」
「え?」と優が振り返る。
「次はないって言ったんだよ。もう来るな。俺もお前の相手するの疲れた」
「来るなってどういうこと?疲れたって・・・」
もう一度ノックが今度ははっきりと響く。
「言葉通りの意味だよ。もうお前とは面会しない。じゃ、さよなら」
係員が扉を開けて優を即した。モニターの中の彼はもう死人のように無表情になっている。優は混乱を抱えたまま係員について部屋を出た。
無言で前を歩く係員に声をかける。
「面会って、拒否出来るんですか?」
係員はちらりと振り返ってからまた背中を向けて「囚人が拒否する権利はあります」とだけ答えた。
優は思いもよらぬ事態に動揺した。何故と言う言葉だけが頭の中を回り続けている。自分は何か失礼なことを言ってしまったのだろうか。彼に不快な思いをさせてしまったのだろうか。そう言えば今日は何故か冴えない表情をしていたように思う。今まで無理に自分に付き合ってくれていたのだろうか。一緒に声を上げて笑い合ったことも無理をしていたのだろうか。本当は何も楽しくなんかなかったのだろうか。
その時優は重要な事実に気が付いた。拓也は暑さも寒さも感じないカプセルの中にいるのだということを。
自分が今日一番に発した言葉は何だっただろう。もう夏だ。そんなことを言った。優にとっては当たり前の季節の感覚さえも拓也には感じることが出来ないのだと改めて実感した。なんと失礼な相手を思いやることのない言葉であろうか。今日だけではない。折に触れてそうした発言をしていたに違いない。そのことで拓也がどれ程傷ついたことか。それを思うと優は自然と涙が浮かんだ。自分の配慮の無さに呆れた。そんな自分に付き合っていてくれた拓也はどんなにか辛かったことだろうか。疲れたと言った彼の言葉が重く圧し掛かってくる。美奈子を失った寂しさを拓也と過ごす時間で補っていたのだろうか。違うと思う。きっかけはそうだったかもしれない。でも今は純粋に拓也との短い逢瀬を楽しんでいた。拓也と交わす何気ない会話がとても楽しかったし、会社などで話す男の人とは全く違う特別な感覚を楽しんでいた。楽しんでいたのは優だけだったのか。そのことが胸を締め付ける。彼は楽しくなどなかったのだ。仕方なしに自分に付き合ってくれていただけなのだ。自分はこんなにも彼を思っているのに。
その気持ちは恋とひと言では表現出来ないもっと深い、対等で親密な感情だった。
その日、拓也はいつもより神経を集中させて優の笑顔を記憶に刻み込んでいた。今日を最後にこの笑顔を見ることもない。今日で最後だ。もう彼女を解放すべき時が来たのだ。いや、時は既に過ぎていたのかもしれない。その事に気が付かない振りをしていた。もうあれから一年も経つのだ。優が拓也に依存しているのか、その逆か、どちらでもよいかとも思う。自分には未来は無い。彼女の未来に自分の存在する場所などない。もし、今泣くことが出来るなら、涙がこぼれているかもしれない。しかし、そんなことさえも不可能なのだ。
優の笑顔が眩しかった。彼女は自分の声は低くて好きではないと言っているが、拓也は好きだ。美奈子の鈴を転がすような声も美しかったが、優の落ち着いたアルトな響きも十分美しい。その名の通り優しい音色がとても心地いい。からかうとすぐにむくれる所も愛らしいと思う。拓也にとって優は生きる全てであり、自分が生きている証しでもあった。
来るべきいつかがいつなのか、それに脅えだしたのは半年程前だろうか。いつか優はここへは来なくなる。その「いつか」が無性に怖かった。いつか彼女はここへは来なくなり、いつか自分は忘れ去られ、いつか誰の記憶からも自分は消え去り、そして海の底を漂うのだ。光も届かない深い海底で音も匂いも感じず、何も考えもせず、時間の感覚さえもなく、ただ肉体の死を待つのだ。
それは自分で選んだ事ではあるが、正直ここまでの罰を受けることになるとは考えていなかった。どうせ住む場所も仕事も美奈子の斡旋であったし、美奈子が死んでしまった事実に少なからず罪の意識もあったので、刑務所に入るぐらいは仕方がないと考えていた。刑務所暮らしがカプセル暮らしになったとしても、もともと何も大切な物などなかったから、それもまた仕方がないかと受け入れた。
でも今は拓也には何にも変えられない大切な人が居る。出来ることなら幸せにしたいと思う、守りたい存在が居る。それが自分には不可能なのだから、自分に出来る事は一つしかない。
優が驚く顔を想像してみた。涙もろいから、泣くだろうな、きっと。そしてどこにも存在しない罪と咎を無理矢理自分の中に見つけ出して、全て自分の責任だと己を責めるのだろうな。そうまでして彼女の記憶に残りたいと思う自分のエゴに辟易した。いつも笑顔でいて欲しいのに。また泣かせてしまうのか。痛みを感じるはずもない胸の辺りが痛いと感じるのは何故だろう。最後はなるべく冷たく接しよう。可能ならば優が自分を恨んでくれればいいのだが。そんな事はするはずもないと承知でそれでもそう願う。
二人の会話を遮るように扉をノックする音が聞こえた。
さあ、時間だ。なるべく冷たく、なるべく感情のこもらない口調で、なるべく彼女を傷つけるように。
「じゃ、また今度ね」立ち上がりながら笑顔を振りまき優が言った。
拓也は心にもない言葉をセリフの様に紡いだ。最後は自分に言い聞かせる為に、さよならと。
優は無言で帰宅した。どこをどう通って帰って来たのかも記憶は定かでない。ただいまも言わず自室へと直行してしまった娘を母親は不安気に見つめた。声を掛けようかと思ったが、優の表情を見て憚られた。美奈子の死を知らされたあの時と同じ目をしているとそう思ったからだ。
優は灯りも点けず部屋の扉を閉じると座り込んだ。拓也の最後の言葉が耳から離れない。次はもう無いと、さよならと告げられたその声はコンピュータが再現した拓也のものであって、彼のものではない音としか認識できなかった。ふと思いついて暗い部屋の中を見回してみた。そう言えば、優は拓也に関する何も持っていない事に気が付いた。写真もない。一緒にどこかに出かけたこともない。思い出と言えるものはあの灰色の部屋しかない。いつも聞いていたあの声が本当に拓也の発する声と同じかどうか、記憶の中にある拓也はあの事件の時のそれだけだ。あの笑顔は本当の拓也のものではないのではないか。彼はどんな風に笑うのだろう。どんな声で「ユウ」と呼んでくれるのだろう。優を痩せすぎだと言っていたが、彼はどんな体型をしているのだろう。背の高さは?服はどんなものを着ていたのか。考えれば考えるほど生きて動いている拓也をほとんど全くと言っていい程知らないのだと痛感した。あれ程心を通わせて会話をしたはずなのに。何も残っていない。拓也に触れたいと思った。その手に、その髪に、その顔に。触れたのはただの一度きり。あの日、あの時、自分の右手を掴んでくれたあの時だけ。何故あの時自分は彼の手を放してしまったのだろう。両手でしっかりと彼の手に掴まり、落ちることがなかったなら、状況は今とは変わっていたかもしれない。
扉をカリカリと引搔く爪の音がした。猫を部屋へと入れて、いや、しかしと思い直す。
あの時、この子を守るために自分は手を放したのだ。その判断は正しいと今も信じている。それよりも自分が本当の事を証言しなかったからこそ、今の状況があるのだ。何かしなければならないと思った。自分には何が出来るだろう。
拓也をカプセルから出すことは出来ないのかと考えてみた。しかしたとえ優が証言をし、彼が冤罪だとしても、すでに彼はカプセルの中で植物人間状態にある。もうカプセルの中でしか生きられない状態に置かれているのだ。カプセルから出ると言うことは死を意味する。本当にそうだろうか。小さな疑問がよぎった。優は慌てて立ちあがるとパソコンの電源を入れた。海外のサイトをあるキーワードで検索した。それには何時間もかかったが、彼女は幾つかのサイトを見つけ、その記事を何度も読み返した。時には知らない単語を辞書検索しながら、その内容を綿密に調べた。毎日毎日キーワードを少しづつ変えながら検索しては目的のサイトを探し続けた。そうして優は一つの希望をその手に入れた。
【邂逅】
その日杉村は情夫を殺した女性の調書を読み返していた。ここ何日かの取り調べの裏取りと残暑のせいで少しくたびれた様子に見える。実際疲労していた。夏が来るとある事件を思い出す。嫌な記憶だ。
「スギさん、面会したいって人が来てるらしいですよ」と部下の上島が受話器を電話に戻しながら声を掛けた。
受付からの電話だった様だ。杉村は「面会?」と怪訝そうにゴマ塩頭を首筋から後頭部へと撫で上げた。
よいしょと呟きながら調書をデスクに放り出して立ち上がる。
「鈴木優だそうですよ」と長身の上島が隣の席から覗き込む様に言った。
その言葉に眉間の皺を一層深くして杉村が頷いた。まさか彼女から自分に会いに来る事があるとは思ってもいなかったからだ。急いで一階受付まで行くと、そこには見違える様にしっかりとした優がいた。今までは影の薄い、線の細いすぐにでも折れてしまいそうな印象だったが、そこに立っている女性は両足で大地に堂々と立つ自信に満ちた風貌だった。
「どうもどうも、お待たせしました」と杉村が腰を屈めて挨拶するのを受けて、「ご無沙汰しています。鈴木です」とはっきりとした口調で答えが返って来た。
杉村はその変化をそのまま口にした。
「随分と印象が変わりましたね。去年とは別人の様だ」
「その節はお世話になりました。少しお時間よろしいですか?」
予想以上の対応に杉村は驚きつつも了承した。「ここじゃなんですから」と外へと促す。以前もこんなことがあったなと思いだしていた。あの時の優は生気のない死んだ魚の様な眼をしていた。
しばらく無言で歩いて近くの喫茶店に入った。アイスコーヒーを二つ頼んでから杉村は優に向き直った。
「どうされましたか」
「教えてもらいたいことがあるんです」
真摯に見つめてくる優の瞳には力がこもっていた。杉村もその視線を真剣に受け止める。
「一度刑を確定された人が、新しい証拠で無罪となった場合、もちろん釈放されるんですよね?」
「そりゃぁ、まぁ、普通はそうです。もう一度裁判をやり直さないといけないですがね」
「もし、その刑が終身刑だった場合はどうなりますか?」
終身刑と聞いて杉村は一つ息を吸い込んだ。一度肺に貯めた空気を吐き出しながら「田代拓也の事ですね」と答えた。優は視線を逸らすこともせず、ゆっくりと頷く。
丁度ウェイトレスがアイスコーヒーを運んで来た。火花の散りそうな視線のやり取りが一時休止する。
杉村はアイスコーヒーにミルクを入れながら、「何か思い出したんですか?」と聞いた。
優は短く「えぇ」とだけ答えた。杉村にミルクを勧められたが断り、ブラックのまま一口飲む。
コーヒーに溶けるミルクの渦を見ながら杉村は刑事の顔になって鋭い目付きで言った。
「では、本当の事を話して下さい」
【三度目の夏】
季節は人の思いとは別にゆっくりとしかし確実に流れて行く。
その証しの様に、その春、猫が死んだ。命をかけて守ったその命の灯火が静かに消えた。老衰だと獣医師に告げられた。
優は庭の片隅に遺体を埋めるとそこに向日葵の種も植えた。これから毎年夏になれば花を咲かせることだろう。猫を抱き締める度に「お日様の匂いがするね」と言っていた。だから向日葵にした。
拓也には何度も面会を求めたが、その度拒否され続けている。それでも優は今までの通り通っていた。優にはどうしても拓也に聞かなければならないことがあるからだ。それには小さな希望も含まれている。真実が分かったのなら、その希望にも花が咲くかもしれない。そう思って通い続けていた。しかしその思いは通じず、答えの分からない謎だけが残った。
優は二年前の事件の記憶を何度も辿った。美奈子からの不可解な電話。あの時拓也が何か言った気がする。彼はなんと言ったのだったか。それが思い出せずにいた。
春が過ぎ、夏が訪れた。庭には向日葵がその名の通り太陽に向かって堂々と花を開いていた。
優は向日葵を眺めながら猫の事を思い出していた。一緒に暮らした時間は短かったけれども、思い出は山のようにある。思い出の一つ一つを愛でるように思い返していた時、ある言葉が頭をよぎった。
「俺か、猫か」
それは誰の言葉であっただろうか。男性だった気がする。いつのことだったか。
その時拓也の顔が思い浮かんだ。あの時、拓也の発した言葉だ。俺か、猫か。
そしてどうしても気になっていた美奈子からの最後の電話の内容を反芻してみる。何かが繋がった。そうか、猫かと思った。それと同時に溢れるばかりの美奈子の愛情を思い返した。そうだった、美奈子は独占欲が強かったではないか。
「ミナは本当に我儘なんだから」呟きと同時に頬を涙の滴が伝う。ようやく答えを手に入れたのだ。
優は力強く立ち上がると、美奈子が買ってきた薄いオレンジ色のワンピースを着た。初めて拓也に面会に行った時と同じ服だ。そしてあの日と同じように拓也のもとへ向かった。
拓也の意識がはっきりとする時はいつも同じ質問を受ける時だ。「鈴木優さんが面会に来ている」と告げられるのだ。拓也は毎度断る。それでも、優はまた来るのだろう。もう何度も断っている。いつまでこんな事を続けるのだろうか。いつになったら自分を忘れてくれるのだろうか。そう思いながらも今だ優が面会に足を運んでくれることに喜びも感じていた。そんな自分がどうしようもなく惨めで情けなかった。早く忘れてくれと思う一方でもう一度会いたいとも思う。そんな思考すら煩わしくて、でも捨てきれずにいる自分に嫌悪した。
その日も同じ質問を受けた。もちろん断ったが、今日は初めて伝言があった。それは「あなたが守った真実を見つけました」と言った短い伝言であった。拓也は困惑した。真実のひと言が彼の心の琴線に触れた。自分が守った真実。それはあの日の出来事以外に考えられない。彼女はどんな真実を見つけたと言うのか。それがどうしても知りたくなった。そして面会を受け入れた。
久しぶりに見る優は少しふっくらした様に見える。二人とも言葉を探して沈黙を彷徨っていた。
「また夏が来たのよ」と優が呟いた。
もう一年経ったのかと拓也は驚いた。そんなにも長い間、面会を拒み続ける自分の所へ彼女は通って来てくれていたのだ。
それからまた沈黙が続いた。沈黙に耐えきれずに拓也が口を開いた。
「何を知ったんだ?」
ふいに優が微笑んだ。そして真直ぐに拓也を見つめて、「真実を見つけたの」と言った。
何をと問いたかったが、優の雰囲気がいつもと違う様な気がして、彼女の言葉を待った。
「美月が死んだの」と優が言った。
【エピローグ】
「どうして冤罪を受け入れたの?」と優は問うた。
「それが真実とやらに関係あるのか」拓也は不機嫌さを隠さずに言った。
優は構わず「薬田啓」と続けた。
「え?」と拓也が聞き返す。
「や・く・た・け・い。それが合図だったのね」
噛んで含めるように優はゆっくりとマイクに向かって言った。
「あぁ」と何かを懐かしむようにモニターの拓也が目を閉じた。やはりと思った。
「逆さ言葉はミナの得意技よ。でも、あなたは私を殺そうとしてたんじゃない」
目を閉じたまま拓也は答えようとはしなかった。
「ミナがあなたに頼んだのは猫の事だったのね」
しばらく答えを待ったが何も返ってこないのを確認して優は言葉を続けた。
「ミナは非常口から覗いていたんでしょう?あなたがちゃんと猫を始末するかどうか確かめるために。もしかしたら、ただ私から猫を奪うだけの予定だったのかしら」
含みを持たせた声で続ける。
「でも予想外の事が起きた。私が踊り場から落ちそうになったから。ミナは私が落ちたものと思ってその場から自分も身を投げた。それが真実なんでしょ?」
拓也はようやく目を開いた。
「今更どうだっていいだろう」
そう、それが真実だとしても何が変わるのかと拓也は砂を噛む思いでいた。
「あの時、猫か俺か選べって言ったわよね」
「そんな事言ったっけ」
「言ったわ。私が猫を放さなかったから、だからそう言ったのね」
拓也は過ぎた日を思い出すようにまた目を閉じた。目を閉じるとあの時の事が今でも手に取るように思いだせる。
確かに言った。猫を放せと。
「でも私は猫を選んだの」
「あぁ」と目を閉じたまま答えた。
「もし、もう一度同じことがあってもやっぱり私は猫を選ぶわ」
右の口角を歪めるようにモニターの拓也が少し笑った。
「馬鹿な奴だと思ってるんでしょう?」つられて優も微笑む。
「でも、もう一度があるなら、私はあなたも選ぶわ」
怪訝そうに拓也が右目だけ開けた。
「あなたに罪を負わせたりしない。あなたは私を助けようとしてくれた事を証言する」
「もう一度なんてないさ」
「あるわ」優は断言した。その語気の強さに拓也は少し驚いた。優はこれ程意志の強い性格だっただろうか。
「私は今から戦うの。あなたのために戦うわ」
拓也は苦笑を浮かべた。
「もうどうしようもないさ。今更どうしようって言うんだ」
「あなたをそこから出して、私が看護するの。冤罪を晴らすの。私、調べたんだから。海外では、終身刑で冤罪だった人が一〇年かけてリハビリして、回復したって。今度は私が罪を償う番よ」
「そんなことをしてもらっても俺はちっとも嬉しくないけどな」
本心ではなかった。しかし本当にそうなった時の優の負担を考えるととても喜べることではなかった。一〇年と言ったが、それはきっと気の遠くなるような時間に違いない。
「それでも私はそうしたいの」優は握りしめた両手の指先が白くなるほどもう一度握り直した。
「拓也を愛してるから」
拓也はきつく目を閉じた。一番望んでいたことでもあり、一番恐れていたことだった。
「私、拓也に触りたいの。一緒にいたいの」
心の中で「俺もだ」と呟く。どれほど優に触れたいと思ったことか。どれだけその笑顔を守りたいと思ったことか。しかし声に出すことは出来なかった。
「私、絶対、あなたをそこから出すから」
「無理だよ」
優はくすりと笑うと誰かの声色を真似て言った。
「また悪い癖。すぐに無理って決めるんだから
初めての投稿となります。お目にかけて下さった方に感謝です。拙い文章ですが、少しでも気に入って頂ければ幸いです。
今回この作品を書くにあたって協力してもらった友人のさばすけさん、つばりんさんに感謝の意を表します。