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そういえば私は〇〇を忘れていた

作者: 大橋 秀人
掲載日:2019/03/03

縦読み推奨

 瞬くと、雪を被ったバス停と、寂れたベンチが見て取れた。

 会場を逃げるように後にして、発車のベルが鳴る電車に滑り込んだ。一刻も早くお家へ帰りたかった。今日で大学受験の全ての日程が終わった。睡眠時間の短い期間が続き、目の乾燥がひどい。頭は飽和状態が長く続き、今にもふやけそうだった。

 温かい座席で寝られるかと考えたが、思いのほか興奮しているのか一向に眠気は訪れなかった。くたびれ果ててたどり着いたのが、地元の駅から出ているバスの待合いだった。

 もうすぐ着く。そう思いながらも時刻表を見て失望する。次の到着予定まであと三十分も時間があった。私は夏場に鬱陶しくて切ってしまった髪を恋しく思う。首筋が縮まるほど寒かった。

 仕方なくベンチに座る。座面は雪が払われているものの、冷え切っているのに代わりなかった。立っていようかとも考えた。それでも三十分立ち続けるイメージはどうしても持てず、止む無く腰を下ろしたのだった。

「あれ、バス停、一緒?」

 どうしてこんな日にマフラーを忘れてしまったのだろうと嘆いていると、見知った顔が現れた。

「受験? 帰り?」

 私の問いに同級生は首を縦に振る。手には参考書が開かれている。どうやら彼も同じ大学を受けた帰りのようだ。竹原という苗字は覚えているが、下の名前は思い出せない。三年間も同じクラスだったのに、お互い人付き合いが上手じゃない方だから、まともに喋った記憶はなかった。

「まだ受験、残ってるの?」

 その問いに彼は首を横に振る。

「じゃあ、なんで参考書なんて開いてるの?」

「出たとこで勉強したけど思い出せない箇所があって、なんかモヤモヤするから見てる」

 ボソボソとそう零す竹原は時刻表を見て、うわっと声を上げる。私はその様子が可笑しくて噴き出した。

「まだまだあるじゃん」

「そうなんだよね」

「こんな寒いところに、あと三十分も」

 心底ゲンナリした表情の彼の首には、温かそうなマフラーが巻かれていた。

「マフラーあるだけいいじゃん」

 私は大袈裟に寒いふりをする。実際に寒くないわけではなかったが、一人で黙って耐えるよりは気が紛れる気がした。

「卒業式は行くの?」

 受験の状況によっては卒業式に来られない同級生もいると聞いていた。参考書を手にしている彼もその口かと思った。

「俺は今日で最後だから」

 予想に反した彼は、でも参考書に目を落とし続けている。

「できた?」

 受験終わりの開放感からか、口が軽くなっているのが自分でもわかった。ぶっきらぼうにも受け応えてくれる竹原の態度が、私には却って話しやすかったのかもしれない。

「うん」

「そうなんだ」

「そっちは」

「全然だった」

「じゃ、おれも」

「なにそれ」

 そんな軽口を叩いて笑う。彼も参考書に目を落としたまま、ニヤリとしていた。

「受かったら、今日のとこで決まり?」

 竹原はその問いには素直に頷いた。

「もしかしたら、またクラスメートかもな」

 ボソッと呟かれた言葉に、なぜか閃きに似た感覚が電撃のように体を駆け巡った。

 束の間、二人の間に沈黙が流れた。時折り通る車が喧しい音とともに時間差で冷たい風を連れてきた。私は思わず、首を縮める。

「ねえ」

「何」

 同級生は律義に返事をする。一向にこちらに視線を向けることなく。

「マフラー貸して」

「何だって?」

「マフラー」

 どこかでこそばゆい気持ちを隠すように、私は大袈裟に寒がって見せる。竹原は一瞬、こちらの様子を窺ったようにも見えたが、視線は頑なに、もはや捲られることのなくなった参考書に落とされたままだ。

「なんで」

「寒いからに決まってるからでしょ」

 私は鼻で笑う。

「嫌だよ」

「えー。どうして」

「どうしてって……」

 答えに窮した男子は同級生がよくやるようにダンマリを決め込んだ。彼は答えを探しているのか、それとも見つかっている答えを示せないでいるのか、どちらにせよ口を真一文字に結んでしまった。

「意地悪……」

 やはり女子の大半がそうであるように、私は沈黙を打破する術を知らずに縋るような不満を吐露する他なかった。さっきまでの気配は何だったのだろう。それはまるで、何かが始まるような気配だった。私は寒空の下、確かにそれを感じて胸が躍っていたはずだった。しかし今ではそれが存在していたかすら疑わしく、自分の気持ちのやり場に困った。

 すると、その日一番の風が吹いて、二人はそれをやり過ごすのに身を縮めた。あまりの強風に、私は立てていた制服の襟首を掴んで丸くなる。彼も流石に参考書を閉じて風が収まるのを待った。

「仕方ない」

 一通り風が通り過ぎると、静寂が落ちて、その中で彼は少し大げさな声を上げた。

 ベンチはドカッという音を立て、彼を加えた重みに軋んだ。私は襟首を掴んだまま、その様子を見守る他なかった。竹原は巻いていたマフラーを半分だけ解いた後、少し乱暴に、でも本当は細心の注意を払ってそれを私の首に巻き付けたのだった。

「なに?」

「貸せって言ったの、そっちだろ」

 私はそう言われて、言いたいことが色々ありすぎて、開いた口を閉じるのを忘れてしまう。間もなく隣に座る彼の体温が伝わってくると急に恥ずかしくなり、縮こまってしまう。しかし次第に平気な様子の同級生に軽い苛立ちに似た感情が起こりはじめた。自分はこんなにドキドキしているのに、この男は何にも感じていないのだろうか。参考書を捲る横顔を食い入るように覗き込む。すると合わせたように顔を上げた竹原と至近距離で目が合ってしまった。 

「なんだよ―—―」

 彼はその瞬間、初めて私の存在に気づいたような顔をした。そして見る見る内に顔を赤らめ、俯いた。そんな彼の仕草を見て、私も一気に体温が上がるのを感じる。恥ずかしくて死にそうなのに、マフラーはしっかりと二人の首に巻かれて、解けそうになかった。

「温かい?」

 あと三十分が途方もなく長い時間に思えた矢先、相変わらず視線は落としたままだが、始めて竹原から声をかけられた。私が頷くと、彼も、そっか、と同じように頷いた。

 それからも私たちはポツポツと短い会話をした。受験のこと、卒業のこと、これからのこと。バスは案外、すぐに来てしまった。

 その間、そういえば私は、寒さを忘れていたのだった。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 偶然から始まるほのかな感情が、受験と冬の寒さを溶かしていくような感覚が良かったです。 [一言] 初めて「縦書きPDF」を使ってみました! 縦書きの文章はパソコンではほとんど読むことがないの…
[良い点] すんなり出会いから入っていけました。二人の会話もなんか楽しい。 この二人長い付き合いが始まりそうね。
[一言] 3月なんですよねー。 この時期になるとやっぱり真っ先に思い出すのは受験&卒業。とても、タイムリーな物語ですね。 ボクにとっての◯◯は時間ですかね。 やっぱり、好きな女の子がいて、付き合ってい…
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