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忘れないように…  作者: 火薬
9/10

野良 3




脳みそがもっとも記憶に刻むもの、それはにおいだ。

楽しかった思い出や怪訝そうな態度が鼻につくいけ好かない奴の顔でも、

いつまででも頬張っていたい肉やドロ臭く濁った排泄物みたいな水の味でも、

毛皮の上から肌を撫でる暖かく、時に涼しかったり、そして引き裂く冷たい風でも、

僕自身がいつ、どこで生まれて今に至るのかはまったくもって覚えていないわけなんだけれど

その道程を踏みしめた足音と感触、そんなものや事柄なんかよりもずっとずっと長い間覚えていられる物

、何を差し引いても、何を差し置いても「におい」ってやつは頑なに記憶に残り続けるらしい。

「らしい」と表現したからにはもちろん、僕自身が体験したからではない。

だからといって、そんな事をどうして言えてしまうのかと問われれば

「んー、まぁ覚えてないや。忘れちゃった」と笑い。そして相手には「お前らしいな」とか

「まぁ、お前の事だからな」なんて失笑されてしまう。

失笑さえされないかも。馬鹿にされて相手によっては怒られてしまうかもしれない。

実際、とあるやつには時間の無駄だと言われてしまったものだった。

覚えていないことだ。忘れたというしかない。

ただある日誰だかに、若しくはどこか風の噂で小耳に挟んだことなのかも、

あぁ、ひょっとするとこの場合はどこかで嗅いだ「におい」の一種なのかもしれない。

でなければろくでもない僕なんかが、そんな風の噂なんて覚えているわけがないのだから・・・。


彼女にあったのはもうずいぶん前の事になる。

すごく前、天気は雨こそ降っていなかったけれどそんなにいい陽気でもなかった。

そんなによくはなかった?いやいやずいぶんと悪かった気もする。

起きたら街は騒がしかったし、にも関わらず薄暗かった。

実は夜なんじゃないかとさえ思ったくらいだ。

そんな不安定な気候に僕は目を白黒させていた。

暗いので瞳孔は開いていただろう。当たり前だ。

しかし、自分が瞳孔だったら間違って閉じていたかもしれない。そんな事があるかって?

僕ならやりかねない事なのだ。

硬いコンクリートとコンクリートに挟まれた形で暖を取りながら眠っていた僕は、そんな薄暗い曇天の下を、

コンクリートまみれの団地を、静かで暖かいところを探して放浪する。

さっきの溝のところでも充分だったんだけれど、今日という日がいつも通りの日であるのならそろそろ

騒がしいばかりの場所になるだろうから席をはずしただけだ。

まぁ、僕くらいになればどこでだって眠れるし少しくらい五月蝿いからといっても問題は・・・少ししかない。

少し嫌だなぁって思うだけだ。

ちょうど小腹も空いてきたので、何かどこかで貰ってこようという腹積もりなのだ。

ここから始まるのが僕のルーチンワークのひとつなのだ。


このコンクリまみれになってしまった団地のいいところは食べるものに苦労がないという事と

寝るところに困らないという事だ。

コンクリだらけだからなのか暖かい。

やっかいなのは小さい人間が多くて五月蝿いというのと犬が多いというところだ。

僕よりも小さい犬も多いのが救いではあるのだけど、とはいえ横で金属音のようにキャンキャンと怒鳴られれば気分のいいものではない。

あぁ、雨を凌ぐ場所が少ないというのもやっかいなとこだ。晴れているときは日当たりがよくてとても心地がいいものだけれど、雨や風のときなんて地獄だ。寒いばかりだ。

そう考えると、この団地って僕個人としてはやっかいな部分の方が多くないだろうか?

茶トラのやつにそんな風に愚痴ったりしたら「文句があれば出て行けばいい。そんな風に思うのは私だけではない。お前のようなやつが一匹いなくなろうと二匹いなくなろうと私にとっては何とも思わないし感じない。」

つまり、どうでもいいと言われた。

まぁ、勝手な文句はあるものの出ていったって仕方ないだろうし面倒くさいというものが先にたつだろうから僕は出て行かない。出て行っていないわけなのだけれど。

そう、そう思い感じるのは僕だけではないはずだ。


この団地には似つかわしくない古びた建物の前までやってきてガラスを覗き込む。

中からポヤァっと琥珀色のライトが漏れている。

ガラスといっても色褪せていて、ガラスというよりは白い布を適当に張り合わせただけのような感じだった。

一部一部はガラスがなくて本当に布を張っているのかもしれない。

場合によってはダンボールとかガムテープかもしれない。

それくらいみすぼらしく、風が吹けば崩れそうな有様だった。

ナァーっとそこで一鳴きすると、白髪頭をクシャクシャにした身体を九の字に曲げた人間がヨチヨチと

しゃがれた声でそのガラス戸を開く・・・はずだった。

そう思っていたが今日という日は、なかなかその白髪頭は現れない。

現れないどころか物音ひとつ聞こえない。

建物が崩れるのが怖くて触れなかったが、僕はそれでもその戸をカリカリと爪を立ててみた。

もちろん、一鳴きも二鳴きもしてみた。

しかし、その人間は現れない。

すると「ここには誰も居ないよ」と背後から声をかけられた。

「居ない。じゃないかな。ごめん。居なくなったが正解だよ。」

爪で戸をカリカリとするのを止めて背後を見ると薄暗かった天気がいつの間にか晴れていた。と感じた。

その証拠に僕の瞳孔がキュウっと引き締まって眩しさから眼を護ろうとした。

目の前の光景に白黒した。

そこには真っ白で細い猫が行儀よく座っていて、その琥珀色の瞳をぱちくりさせていた。

「居なくなった・・・って?」

彼女が先ほど正解だと言った言葉に対し僕は繰り返して聞く。

「居なくなった。」彼女も繰り返す。

「もっと言うと居なくなってしまった。亡くなったの。今朝、店の準備をしていたら突然倒れてね。救急車で運ばれていったわ。でも間に合わなかった。気がつくのが遅くてね。」

淡々と彼女は語り、説明する。

分からない単語を織り交ぜつつ僕に説明してみせた。

「貴方みたいに集まる野良に先から説明してたところよ」そう、まるで仕事のようにして語る。

「優しい人だったからね。野良猫なんて集まってきたら店の食べ物でさえ上げちゃってたみたいね。だから、これだけ何匹も集まるのかもしれないけどね。」

人の生き様は葬式に集まるっていうけど・・・そう彼女は続ける。

葬式というものが何なのかはわからないけど、彼女はうんざりした表情でも物悲しい表情でもない

形容し難い顔をして言った。

まぁ、僕なんかにわかるような事じゃなんだろうなぁ、なんて思う。

他の子の気持ちどころか、ましてや女の子の気持ちなんて分からない。

ただ、思った事を言った。

「疲れた?」

「いいえ」

即答した。即答した後ですぐに「いや、そうね。疲れたわ。」と言いなおした。

「貴方、名前は?」

「野良だもの、そんなものないよ。あると言ってもあだ名みたいなものくらいかな。あだ名っていうよりは・・・」

殆ど罵倒だけれど・・・。

「ろくな奴じゃないってよく色んなやつに言われるよ。」

「それは名前じゃないね。不便じゃない?」

「なかったらなかったで・・・」身軽なものだった。

まぁ、ある側としては大切にしておきたいものなんだろう。

ない側の僕としてはこれと言って困ったことはなかった。

「いいわ。じゃぁ『ロク』ね。ろくな奴じゃないなら『ロク』はい。きまり!」

決められてしまった。命名されてしまった。「命」とつけるほど重要度があるとは思わないけれど

それよりも取りあえずという感じでつけられた感じだけども、何はともあれ「ロク」という名前はこの時つけられた。

ろくな名前じゃない。


その後、彼女に連れられて

その古びた建物の裏へ回り、同じように古びた民家へ入っていった。侵入という感じで入って行った。

すると彼女はまた僕を驚かす行動に出たのだ。

これはなかなか忘れられない逞しい、勇ましい行動だ。

驚くべきはまず、首輪に繋がれた自分達よりも二倍、三倍も大きなドーベルマンが居た事だ。

両の目をキッと吊り上げて自分の器にエサが入れられるのを今か今かと鼻息を鳴らし、涎を撒き散らしながら待っている。

迂闊に近づこうものなら、寧ろ自分達がそのご馳走にされかねない。

そして、ヨボヨボのご主人が器を目の前に置き合図すると猛々しいうなり声を上げながら待ってましたと飛び掛る。

その牙をエサに突きたてようとする瞬間、彼の頂きますのうちの「い」の字を言わんとする瞬間である

彼の真横から真っ白い前足が目に留まらぬ速さで飛んできた。

彼は、ドーベルマンは思っただろう。

「何で!?」・・・と、まさかいただきますの「い」の字がそのまま痛い!に変わるとは思わなかっただろう。

僕も夢を見ているのだろうと思った。

身体の小さい彼女は自分よりも大きいドーベルマンを細い猫の前足で吹き飛ばした。

顔面の皮膚が波打ち彼は痛みに悶え食事を食べ損ない地面に突っ伏した。

「さぁ、いただきましょう」とまるで何事もなかったという風に彼女はそのエサを頬張り始めた。

ドーベルマンが彼女を見てビクビクしている様子を見る限り、なるほどこれは毎日やっている事なのだと理解した。

これが彼女のルーチンワークなのだと察した。

そして、君も君で苦労しているんだな。とどこか親近感を持ち僕も同じようにして、そのエサにありつくのだった。



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