ジロー、桃川を追いかける
32.ジロー、桃川を追いかける
8コーナーから、最終コーナーへ向かう。その先には、桃川のマシンが見えた。
『スタートで付いた差を、ここまで詰めて、桃川の背中が見えるところまできた。ラップタイムは、俺のほうが確実に速い。絶対に追い付く』
ジローは、レコードラインをなぞりながら、桃川を追いかけ、6周を終えた。
ホームストレートで30m。差がありすぎて、スリップストリームが使えない。それでも、スピードが遅くなるコーナーでは、ジローのマシンが、ぐっと近づく。
『もう少しだ』ツバメが、さっきよりも旗を激しく振っている。
『3台抜いたぞー』ジローは、自慢げに叫んだ。ツバメも喜んでくれている。
ジローは、ぎりぎりの攻めの走りをしながら、最終コーナーを立ち上がる。そして、桃川に迫ろうとホームストレートを駆け抜ける。7周をクリア。そしてまたツバメの許へ帰ってきた。ツバメの顔が見えた。8周目のスタートだ。
『スタートからずっと、桃川君との差が詰まっている。ラップタイムは、俺のほうが速い。それに、同じ性能のマシンだから、直線スピードだけでも体重の軽い俺のほうが速いはずだ』
ジローは、カラーリングのしていない桃川のマシンのテールカウルを睨む。その中から突き出したマフラーエンドを睨む。後輪が回りながら路面を蹴り出している様を睨む。桃川が、マシンの上で、右に左に体を動かし、マシンを傾けコーナーをクリアする様を睨み、追いかけていく。マシンも人もスムーズに動いている。
『変だ。俺と桃川君との差が、全然縮まらない。桃川君がペースを上げたのか?ヘアピンでも後ろを振り向いていないから、俺が付いているのもわかってないだろうに。でも、何故だ?』
桃川の背中をにらみながら、8周をクリア。そしてまたツバメの許へ。旗を掲げてまっすぐ立っている。9周目。ジローには、もっと速く走る方法はない。レコードラインを出来る限りキッチリなぞって走る。ブレーキングとアクセルワークをキッチリ操作する。ギヤをエンジン回転にあわせ、キッチリつなぐ。マシンの動きに合わせ、キッチリと体重移動をする。そのために、集中する。集中する。コーナーの出口を、ストレートのその先を睨む。
コントロールラインを駆け抜ける。9周をクリア。ツバメがいる。
『桃川君。やたら速いや。全然、追い付けないや。オレより遅いようなこと言っといて。だまされた』
ジローは、桃川の走りを観察した。マシンの動きと体の動きは、無理なところがない。揺れてないし、雑さがない。熟練の力の抜けた走りのように見える。
桃川とジローは、等間隔を保ちながら、10周をクリア。11周目もそのまま、ホームストレートに戻ってきた。
『ラスト、1周か』ツバメがストレートの先でピンクタオルを掲げている。それを左側に感じたそのとき。
『何だ?』
右前方から、淡い光の壁のような得体の知れない圧力を感じた。
それが、あっという間にすれ違って後ろへ。
それに襲い掛かるように、赤い煙の光が追いかけ、過ぎて行く。
太陽の鋭い光の中を、皮のツナギを着てアスファルトの上を駆け回っているジローの体が、縮み上がった。
それは、半周ほど後の、インフィールド。7コーナー過ぎ短いストレート。ホームストレートから見て、右側、対面方向に一瞬見える。トップの北野と、追いかける猛者共達だった。
『何だありゃ。いったいどんな走りをしてるんだ。あんなのに後ろに付かれたんじゃ、あっという間に周回遅れにされちまう。とにかく後一周、ミスしないように逃げなくちゃ。』
ジローは、ブルッと身震いして、北野のことを頭から消した。そして、また桃川の背中に集中した。
『桃川君がひとつミスでもすれば、追い付ける。』
ジローはストレートから、1コーナーに飛び込んでいった。
ジローは、勘違いした。トップは、後半周でゴールする。ジローがコントロールラインを抜けた時点で、もう抜かれることはない。しかし、その勘違いが、ジローの集中力を高めた。
桃川に続いて右2コーナー。そして、右ヘアピンの3コーナー。
『ん?桃川君、ライン、イン寄りだ』
ジローは、通常のライン取りで3コーナーにアプローチ。桃川は、それまでより鋭角的なラインになった。そのため、より強くブレーキングした。ちょっとしたミス。コーナリングスピードが遅くなる。そのとき、桃川が一瞬、後ろを確認した。
『やっと追い付いたよ』
ジローは、ヘルメットのシールド越しに桃川の目を見つめた。
桃川は、コーナーを立ち上がる。その後ろすぐにジローが付く。それまでの差が、一気に無くなった。チャンスが来た。
ゆるい右4コーナーから、すぐに左5コーナー、また左6・7コーナー。マシンを傾け、桃川の後ろにぴったりと張り付いて立ち上がる。
後は、右に大きく回り込む右の9コーナーから最終コーナー。
『桃川君、オレがくっ付いているのを意識して、イン側のラインをあまり開けずにコーナリングするはず。それなら、ラスト、外から仕掛けてゴールラインまでに前に出る』
9コーナーが迫る。
マシンに伏せていた上半身をガバッと起こして、右膝を開き、ステップを踏みしめながらブレーキング。
すばやく腰をシート上から右側にずらし、左足の膝から下をマシンに引っ掛けるようにし、足先でステップを踏みつけるように加重をかける。
右膝を大きく開きマシンを右に傾ける。膝に付いているバンクセンサーが路面をこする。
コーナーの内側、ぎりぎりをマシンがかすめてカーブを曲がっていく。
角度が変わる最終コーナーに備えて、コーナーの内側から徐々に外側に膨らむ。
それに合わせ、マシンを起こしながら、アクセルを開けていく。
ジローが思ったとおり、桃川のマシンが、一台分内側のラインを走る。
桃川のマシンが最終コーナーに入っていく。アクセルを開けてない。パーシャルのままだ。マシンの伸びがない。
『ヨシッ』
ジローのマシンが外側から、桃川のマシンに少しずつかぶさるように並んでゆく。コーナリングスピードが、速い。
クリッピングポイントをクリアする。
『行ける』
ジローは、アクセルをガバッと全開にした。
そのとたん、前輪が、ズルッと滑った。
『ウワッ』
瞬間、アクセルを戻した。タイヤのグリップが回復し、マシンがギクシャクと暴れる。
マシンが、コースを斜めに横切るように外側に突っ走る。
目が飛び出すほど、ひん剥いて、体中に力が入る。コースを飛び出す寸前、マシンを両足で挟み込み、ハンドルを押さえつけた。マシンが、何とか向きを戻す。
『クー、焦った』
顔を前に向きなおした。桃川はすでに20m以上先を行きゴールラインをくぐった。
ジローは、シフトペダルをかき上げ、ギヤを下げてアクセルをひねる。
マシンのスピードが上がる前に、チェッカーフラッグがジローに振られた。
『チッキショー、ミスったー』
マシンの上で体を起こし、アクセルを緩める。
レースが終わった。
ツバメがその日一番、大きな笑顔とともに、大きくピンクタオルを振っている。ジローもツバメに手を振り返した。
夢中で走っているときは、ほとんど気付かなかったコース脇にいたオフィシャルたち。
コーナーの内外で黄色の旗をゆっくりと振っている。ライダーたちの全力の戦いを称えて、『お疲れさま』と両手を上げて振っている。
ライダーたちも、見守ってくれていたオフィシャルたちに、『ありがとう』と手を振って応える。
3・4・5・6と続く厳しいコーナーも、マシンを起こしたままゆっくりと流していく。
ぐるりとゆっくり一周回って、ピットロードにマシンを進ませ、コースの外に出た。