ジローの初レース
29.ジローの初レース
茨城県、下妻サーキット。二輪、四輪の全日本クラス選手権レースを、毎年開催し、日本のレース界を牽引する歴史あるコースだ。
そのすぐ東側に、一周約1,000mのショートサーキットがある。そこが、サザンコースだ。当初は、サウザンコースだったのだが、呼びやすさ覚えやすさからサザンコースになった。
ジローは、その下妻サーキット、サザンコースのスターティング・グリッド上で、バイクに跨っている。
何日も前からの興奮が、今日、ピークを迎えた。全身の神経が、ピリピリと、皮膚の表面を這い回る。「待ってなよ、もう少しだ。」体の中から、その先へ突き出ようと、うずうずしている。こみ上げてくるものを押さえつけている。
ST100クラスの決勝レース。ジローは、5列目の一番左側。20番グリッドだ。
ほんの少し見える眼差しが、複雑な心情を表している。
ポールポジション、一番前に並んでいるのは、去年のグランドチャンピオン、北野晴夫だ。
こうして、スターティング・グリッドに並んでいると、北野は、写真のように、静かに立っている。まるでその存在を感じない。それなのに、周りにいるライダーたちが、北野に勝つために、ビリビリした闘気を発している。その不自然な感じが、北野を変に目立たせている。
いったい、北野は、どんなレースをするのか?ジローは、北野を見つめていた。
ふたりの間に、19台のライダーがいる。しかし、少しでも長く、北野の走りを見たいとジローは考えていた。
北野のテクニックを少しでも知るチャンスだ。
「まあ、無理だな。自分の目の前のことだけで精いっぱいだよな」
エンジンの掛かっているマシンに跨り、腕を組み、両足で路面を踏んでいる。
決勝の出走台数は、23台。もう一列後があるが、ジローは左端だから、後には誰もいない。スカスカして、風通しがいい。
ジローの斜め右前、15番手には、このレースに俺を誘ってくれた、バイクショップマルヤの桃川が並んでいる
レース前、決勝のレースを走る順番を決める予選走行があった。走り始めて、エンジンやタイヤが暖まりだした4周目。前を走っていたマシンとぶつかりそうになった。それをかわしたら、コースアウトして、転倒。まともにタイムアタックが出来なかった。
ジローが、ピットロードからトイレ前の水場にマシンを押して行った。マシンについた泥を洗浄するためだ。そこにツバメが来た。今日は、いつものピンクの作業ツナギではなかった。それでも、いこいサーキットのピンクの半袖ポロシャツと黒のパンツ姿だった。
「ビビった?でもまあ、厄落としだよ」ジローに、ツバメがそう言った。コケるな失敗するなと言われていたのに、予選からコケて、てっきり怒られると思っていた。思いがけず前向きな言葉に、ツバメが気を使ってくれたのがわかった。しっかり見ていたのだ。
「ツバメコーチ、上手く走れなくてすいません」教えてもらったことさえできていれば、予選順位ももっと上だったはずだ。しかし、そうはいかなかった。
「ケガもないし、マシンも汚れただけだから、ヨシとしようよ。レーシングアクシデントとしては、全然問題ないでしょ」予選順位20番手。ビリから4番目。「競う相手がいると、向こうも必死だから少しでも後ろの見えてるほうが、回避しないと接触事故になってダメージもデカくなるから、いい判断だったんじゃないの」ツバメは、そう言いながら、ピンクのタオルとスポーツドリンクをジローに手渡した。
「それでもビリじゃなかったんだから、後は抜いていくだけ。決勝は、これからだよ。走るんでしょ」
「もちろんだよ。」
「じゃあ、せっかくだから、これも貼って」そう言ってツバメが出したのは、いこいサーキットのピンクのステッカーだった。
「こんなの貼ったら、恥ずかしい走りじゃマズイでしょ」
「大丈夫、誰でも買えるやつだから。少しくらいは宣伝効果もあるでしょ。でも、いい走りすれば、いい宣伝になるんだから頑張ってもらわないと」
「それって、プレッシャーでしょ」
スタートが迫る。ライダーたちの前に立っていたオフィシャルが、赤い旗を頭の上に掲げる。
ジローは、胸の前で組んでいた腕を解き、ハンドルに手を伸ばし、左足をステップに乗せた。
マシンに手と足が触れたその瞬間、血管の中を血が音を立てて流れ出した。手のひら、指先、足の裏から、神経が飛び出した。触覚をつかさどる神経が、マシンの隅々まで網の目のように張り巡らされた。心臓が、力強く血を送り出す。振動が、全身に響く。
「準備、オッケー!」
ジローの目が、鋭い光を放ち、笑っている。
左手でクラッチを握り、逆チェンジのギヤをひとつ、左足つま先でペダルをかき上げる。そして、静かに左足も下ろす。右手で、アクセルを煽って、空吹かしをする。足の裏と、タイヤの表面まで延びた神経が、路面をつかむ。