霜月 紫季は祈菊に助けられ 天女は着物を縫い合わす
霜月 紫季は祈菊に助けられ
天女は着物を縫い合わす
紫季が甘味へ来てからもうすぐ半年。季節はすっかり冬になり、外は毎日降り積もる雪で銀色に染まっている。城の侍達の朝の日課は城の周りの雪掻きだ。
「起きてください!」
「やだ・・・」
「起きてください!」
「やだ・・・」
紫季と紅季は朝から押し問答を始めていた。あまりの寒さに、布団から出たがらないのだ。紫季がではない。紅季がだ。「起きてください!」と言いながら布団をはがそうとしているのは紫季で、「やだ」と言って布団に包まっているのが紅季だ。
「父上ってば!早く起きないと仕事に遅れます」
“仕事”というのは、もちろん朝の雪掻きのことだ。だからなおのこと紅季は布団に引きこもっているのだ。紫季が力づくで紅季の布団を剥がそうとする。だが、力ならば紅季のほうが何倍も強い。
「今日は休むぅ~」
紫季がはがそうと引っ張った布団を紅季が何倍もの勢いで引き返す。
「いけません!」
「休ませてくれぃ」
紅季は紫季の声がうるさいとばかりに頭まですっぽりと布団にもぐりこんで防衛線を張った。
「他の皆さんが寒い中ちゃんとやっていらっしゃるのに、父上だけ休ませるわけにはいきません!」
「寒ぃ・・・」
「私だって、寒いです。あー、もう、雪掻き始まっちゃいますよ」
障子を開けるとそこから城門が見える。まだ誰もいない。みんな朝食を食べているところなのだろう。
「紫季が代わりに行ってこい」
「父上ってば・・・」
駄々をこねる紅季に困り果てて、紫季は最後の手段を使った。
「紅季様、起きてくださいな」まだ声変わりのしていない紫季は祈菊そっくりの声が出せるのだ。「寒さになんて負けないで」紫季は祈菊の声で話しかけながら布団にしっかりと包まっている紅季を優しく揺り起こす。
「ん・・・祈菊ぅ~・・・愛してる・・・」
寝ぼけた紅季が妙に甘えたような声を出して、祈菊の声で喋る紫季に抱きつこうとする。紫季はそれをうまく避けた。馬鹿力の紅季に抱きつかれるなんて御免だ。はっきり言って身体の骨が砕けてしまう。
「起きてくださらなきゃ、紅季様のこと嫌いになっちゃいます」
祈菊の声で言うと、紅季はがばっと跳ね起きて、驚くほどの速さで寝巻きから着替えて、帯をきっちりと締めて、腰に刀を差して、自分の布団や寝巻きをきちんとたたんで、髪の毛まで縛った。
「祈菊?」
やっとはっきりと目が覚めた紅季が部屋の中を見回す。
「月に帰りました」
紫季は紅季の気が変わらないうちに、紅季を立たせて、井戸に連れて行き、顔を洗わせて、そのまま朝食を食べるために食堂へと連行した。
「まだ霜月も初めだってのに、随分寒いな・・・」
城の中も、廊下はもちろん部屋の中ですら真っ白い息を吐きながら話している。部屋や食堂は多少暖かいが、これだけ広いと暖めきれない。
外の銀世界は、十日も前から続いている。土の地面はもちろん、草も見えない。何もかもが雪に埋もれ、二寸ばかりあった城への入り口の段差は、いまや外のほうが高くなりつつある。
「このような寒さは久しぶりですね」
「北海で過ごした冬以来だな」
ふたりはあちこちを転々としてきたので、変化には適応できるほうだが、これほど急激な温度変化は久しぶりだ。
「甘味の国は毎年こうなのか?」
「そのようですよ。竜胆が、屋根に戸口があるのはそのせいだと」
紫季と紅季は初めてきた日、自分たちの住むあの部屋から見下ろした眼下の景色を思い出した。城下の家々は、どこも天窓のようなものが屋根についているのだ。それはここでの建造物の特徴なのだろうとばかり思っていたが・・・。
「まさか、あの高さまで雪が積もって、屋根から出入りするってのかよ?」
「そのようですね」
「まだ冬の入り口だってのに、先が思いやられるな」
話しながらふたりは食堂でそれぞれ配られた膳を片付ける。今朝は鮭の切り身と麦ご飯、湯豆腐とわかめの味噌汁。
「祈菊の作った朝飯が食いたい・・・祈菊の味噌汁ぅ~」
祈菊に会えなかった紅季はご機嫌斜めだ。だが、味噌汁に文句を言う元気があれば放っておいても大丈夫。
「無理言わないで、さっさと食べてください。私はもう出掛けますから」紫季は自分の膳の物をすべてさっさと食べ終わり、木刀を持って席を立った。「野菜も残さず食べるんですよ」紫季は言って、食堂を出た。
今日は道場へいく日だ。竜胆と城門で待ち合わせて、二人で町外れの“仲沢道場”へと向かう。竜胆と二人きりだ。蓮華は手習いついでに陸と双雲寺へ行っている。
「おはよう」
「おはようございます」
「今日も寒いな」
竜胆はどんよりと曇った空を見上げた。ちらちらと粉雪が舞っている。夕方には牡丹雪になるだろう。
「まったくです。毎朝この寒さでは、私の身体が持ちません」
ここ最近、毎朝紅季を布団から引っ張りだすことに悪戦苦闘している紫季は朝から疲れていた。今朝はついに祈菊の助けまで借りなければならなかったのだ。
「寒いの、嫌いか?」
「そうではなくて、父上が布団から出ようとしないので・・・」
紫季が今朝の話をすると、竜胆は声を上げて笑った。
「笑い事ではありませんよ」
「すまん。でも、あの紅季殿のそんな姿、おかしいじゃないか!それに、紫季が祈菊殿の声で喋るのも考えただけで面白い」竜胆は腹を抱えて笑うので、竹刀を持っていることも出来なくなった。「紫季、祈菊殿の声で俺の名前を呼んでみてくれよ」竹刀を杖にして道端にしゃがみ込んでいる。
「嫌ですよ」
「やってくれよ」
「恥ずかしいじゃないですか」
「じゃあ、今日の稽古で俺が勝ったらやってくれ」
「そうですね・・・」
紫季は考えた。今のところの二人の勝負は、九十七勝九十九敗で竜胆のほうが二勝多い。
「私が勝ったら竜胆は何をしてくれるんですか?」
「何をして欲しい?」
「・・・・・・」
紫季は歩きながら考えた。だが、そんなに急に言われても思いつかない。
「じゃあ、明日一日紫季の言うことを聞くよ」
「きいてほしいお願い事などないですよ」
「それなら・・・蓮華と紫季の分、極上の餡蜜を作る」
竜胆の極上の餡蜜はものすごく美味しい。
「これならいいだろう?」
竜胆は紫季の茶色い瞳を覗き込んだ。紫季は蓮華と餡蜜に負けて、思わず頷いた。
二人が道場へ行くと、道場の前で美邑が雪掻きをしていた。成は中で生徒たちの指導にあたっているらしい。
「手伝いましょうか?」
竜胆と紫季が同時に聞くと、美邑は首を振った。
「いや、結構だ。雪掻きなどをするより、しっかり稽古に励んで、国を守るような立派な男になってもらえると嬉しいんだが」
美邑の言葉に、二人は「はい」と返事をして、道場の中に入った。
バシンっと竹刀の音が響いた。
「竜胆の勝ち!」
すっと手が上がって、さして広くない道場中に凛とした声が響き渡った。
「ありがとうございました!」
向かい合っていた紫季と竜胆は互いに頭を下げた。
「はい、今日はここまで」
「もうですか、先生?昼までにはまだ時間があるんじゃないですか?」
道場に集まった生徒の中の一人が言った。
「すまんな。今日は午後から約束があるんだ。早めに切り上げさせてはくれないか?」
成は子供達に手を合わせて頼んだ。小柄な成が手を合わせる姿はかわいくすらある。
「いいですよ。な、みんな、いいよな?」
子供達の前に立ってそう言ったのは平崎麻だった。麻は甘味の町奉行所の次男でこの昼の生徒の中では一番年長だ。次男とはいえ、麻は双子で、兄は海という名だ。だが、ふたりは正反対の性格で、海はここへ剣術を習いにくることはめったにない。普段は双雲寺へ陸に学問を教えてもらいに行っているのだ。
「はい!」
麻の言葉に子供たちは声をそろえて頷いた。
「すまんな。その代わり、明日は今日の分までやるぞ!」成の号令で、子供たちは帰り支度を始めた。
「俺の勝ちだったな。さあ、やってもらおうか」
稽古が終わった後、二人は川のそばにある東屋に腰を下ろして美邑におごってもらった塩饅頭をほおばっていた。粉雪はやんだが、雪が積もっているので河原には腰を下ろせない。
「約束はちゃんと守りますよ」
饅頭を食べ終わった紫季は、しぶしぶ、祈菊の声で竜胆の名を呼ぶことに・・・。
「やりますよ・・・なんて言って欲しいですか?」
「そうだな・・・俺の名前を呼んでくれ。あと、起きてくださいって言ってもらおうか」
「・・・竜胆様、起きてくださいな」
紫季が本当に女の声で喋ったので、竜胆は驚いて、大きな目をますます大きく引き剥いて言葉もなく紫季を見詰めた。
「これでいいですよね」紫季は真冬だというのに恥ずかしさで顔が火照る。
「・・・ああ・・・うん・・・」
「どうかしましたか?」
「いや、紫季の声があまりにもきれいで、吃驚した―――ん?あ?おい、紫季、あれ!」
竜胆が急に何かを見つけて小声になった。竜胆の長い指が指す先を見ると、そこには成の姿があった・・・しかも、きれいな女と一緒だ。
「約束って、あれかよ」
竜胆が呆れた声で言ったが、目のほうは向こうの東屋にいる二人に釘付けだ。
「竜胆、帰りましょう」
紫季はすくっと立ち上がって蓮華を迎えに双雲寺へ向かおうとしたが、気づけば竜胆がついてきていない。彼はさっきのところにさっきのまま座って、成たちを見ているらしい。
「竜胆っ!」
紫季が小声で呼ぶと、竜胆が紫季を手招きした。
「どうして帰る?」
「どうしてって、こんなところ、見ていてはいけないような気が・・・」
紫季は成だって見られたくないだろうと思った。
「・・・やっぱり、いけないか」
紫季に言われて、竜胆も諦めたように立ち上がった。だが、そのとき成の隣にいた女も立ち上がった。見れば、美邑らしい男が二人の傍に来て、女の手をとって東屋から出て、成に手を振って、二人は橋を渡り川の反対側の生垣を曲がって視界から消えた。そして、あとには成が一人残った。
「おい、どういうことだ?」
「さ、さあ・・・?」
「先生が振られた?しかも、美邑殿に女を・・・」
「竜胆っ・・・声がっ・・・」
“女を奪われた”とか言い出しそうな竜胆の口を紫季が慌ててふさいだ。だが、遅かったようだ。成が二人に気づいて軽く手を上げた。
「先生・・・すみません、逢引現場を見るつもりなんて・・・」紫季が慌てて謝った。
「逢引?私がか?」
成が一瞬妙な顔をし、それからおかしそうに噴出した。
「だって、今、女の人と・・・」
「彼女は私の姉だ」
「お姉さん?・・・じゃあ、どうして美邑殿が?」
竜胆はわけがわからなくて、珍しく混乱しているようだ。紫季だってわからない。
「姉は美邑の妻だ。だから、私は美邑の義弟でもある」
「そうだったんですか。俺たちはてっきり、先生が振られたのかと・・・」
「竜胆っ!」
「ははは・・・私はどうも女性には縁がなくてね」
「女に縁がないだなんて嘘だぞ」
成と別れてから、二人は蓮華を迎えに双雲寺に向かって歩いていた。また少し、粉雪が降り始めた。竜胆も紫季も、頭にほんのり雪をかぶっている。
「えっ?」
「さっき先生が言ってただろ、”私は女性には縁がなくて“って。あれは完全に嘘だ。俺は少なくとも今までに十回は先生が恋文を貰っているのを見たことがある―――返事を出しているのは見たことがないがな」
「もてるんですね」
「もてるなんてもんじゃない。どうして結婚しないのか不思議なくらいだ。今まで恋仲になった女が一人もいないっていうのも不思議だ。先生は女嫌いなのか?」
「もてる人に限ってそんなものですよ」
「そうか?」
「そんな気がします」
「紅季殿もそうか?」
「父上?どうして、父上?」
「紅季殿なんて、あんないい男で、しかも屈指の侍だぞ。もてないわけがないだろう」
竜胆は紅季と美邑とを同じくらい尊敬している。何かと言えば紅季の話を聞きたがるし、紅季と直接話せるとなれば、店番を放り出してきてしまう。
「父上は特に女性にもてているとは思えませんが」
「もててるさ・・・あ、でも、紅季殿は祈菊殿以外の女には興味がなさそうだな」
「そうですね」
そのころ・・・紅季は、平崎奉行所から逃げ出した食い逃げ男を追って、山の中まで入っていた。かれこれ半刻くらい駆け回っている。
「いい加減に観念しろ!・・・この寒ぃのに・・・」
「嫌に・・・決まってんだろ!」
紅季も足が速いが、男のほうもかなり早い。紅季が必死で追っていると、足元で何かが裂ける、いやな音がした。
「いかんっ!」
祈菊が縫ってくれた大事な着物が、切り株の枝に引っかかって勢いよく膝の辺りまで裂けた。みんな雪をかぶっているので、注意しようにも、どうしようもない。だが、立ち止まっている暇はない。そんなことをしたら、男を見失ってしまう。紅季はそのまま駆け続けた。
「あんた・・・まだ追ってくる気かよ・・・」
追う方も追われる方も息が切れてきた。寒くて息が真っ白だ。自分の吐く息で視界が悪くなる。
「貴様・・・許さん!」
祈菊からの愛がこもった大事な着物を裂く羽目になった紅季は、射程距離に入った食い逃げ男を後ろから力任せに蹴り倒した。
「あぐっ・・・」
男は奇妙な叫び声を上げて倒れた。気絶したらしい。
「ったく・・・」
紅季は目を覚ます様子がない男を縄で縛り、仕方なく肩に担いで山を下り、奉行所へと向かった。
「紅季殿!」
食い逃げ男を奉行所に預けた帰り、紅季は竜胆と紫季に会った。
「おう、蓮華はどうした?」
「蓮華は蒼木先生と双雲寺に行っています」
「私たちは道場の帰りです」
「そうか・・・二人とも痣だらけだな」
紫季と竜胆はお互いの顔を見た。二人とも美邑の厳しい稽古のおかげで腕も脚も痣だらけだ。今日はそれぞれ頬にも青痣が出来ている。竜胆など、暴れすぎて頬に切り傷まで作っている始末。
「色男が台無しだぞ」
「そういう紅季殿も傷だらけですが?」
竜胆に言われて、紅季は自分を見下ろした。確かに、山を駆け回っていただけあって、腕も脚も切り傷、擦り傷、刺し傷まである。着物は裂けて、髪の毛もぼさぼさ、頭を含めた体中に雪にまみれた枯れ木や木の葉がまとわりついている。
「ひどい格好をしておいでですよ・・・母上が見たら、一発で振られますよ」
「そんなっ!」
紫季の言葉に、紅季は本気で驚いて、慌てて着物について木の葉や雪や泥を落として、結っていた髪の毛をいったんおろして、懐から、これまた祈菊の形見の櫛を取り出して丁寧に梳かして、またきっちりと結いなおした。
「これでどうだ?」
「よくはなりましたが・・・道端ではこんな自堕落なことはやらないで欲しいです」
それが紫季の感想だった。
「こんなに大きく裂けて・・・せっかく母上が縫ってくださったものだったのに」
紫季は大きく裂けた細い縞模様の着物を丁寧にたたみながら溜め息をついた。だが、紅季はそんなことはまったく気にかけていないようだ。
「大丈夫、俺が寝ている間に祈菊が元通りに縫ってくれるさ」
「そんなこと言って」
紫季は叱ろうとしたが、紅季は自分の枕元の、紫季が畳んだ着物の上にこの間彫ったばかりの可愛らしい狐の根付を置いた。
「そんなところに置いて、どうするんですか?」
「着物を縫ってくれる祈菊へのご褒美だ」紅季は布団にもぐりこんだ。「祈菊には苦労をかけるなぁ」
「そんなこと言って・・・」
紫季はあきれたが、紅季は先に眠ってしまった。
翌朝、紫季が目を覚ますと、紅季はまだ眠っていた。その紅季の枕元に、昨日と同じようにきれいにたたんだ縞模様の着物が置いてあった。紫季がその裾をそっと捲ると、かすかに桜の香りがした。しかも、昨日裂けたはずのところが、きれいに縫い合わせてある。
「父上、自分で縫ったんですか?」
そんなことはあるはずないと思いながら、紫季は紅季を揺り起こした。
「んん・・・」紅季は眠そうに目をこすりながら紫季が握っている縫い目を見た。「まさか。俺がそんなことできるわけがない」紅季は言って、その縫い目を嬉しそうに指でたどり、裏返しにした。
「じゃあ、どうして?」
「だから祈菊が縫ってくれたんだろう」
「まさか」
「だって見ろ」紅季は着物の裏地に縫われた薄紅の菊の刺繍を指差した。そこには小さな字で、“お身体まで傷つけないでくださいね”と縫い取ってあった。それは、紅季が着物を裂いたりしたときに、その綻びを縫いながら祈菊が紅季に言う言葉だ。
「では、母上が夜中に来て、縫ってくださったのですね」
「もちろんだ。ほらな、祈菊はちゃんと俺の妻としての仕事をこなしてるぞ」
紅季は祈菊の桜の香りがする着物を抱いて嬉しそうにすりすりしてる。祈菊の桜の香りは紅季にとって、猫のまたたび並みの効果がある。
「そのようですね」
紫季はいいながら、紅季が寝る前に枕元に置いた狐の根付がなくなっていることに気がついた。
紫季は紅季の着物の綻びを祈菊が縫ったらしいことを竜胆と蓮華に話した。信じてもらえないだろうという気持ちと、信じてもらって、自分でもそう思いたいという気持ちが入り混じっていた。
「そうか、やはり祈菊殿は月に住んでおられるのだな」
しょっぱいだけのしょうゆ味の団子をほおばりながら、竜胆が当たり前の事のように言った。紫季と蓮華の団子には砂糖がかかっていて甘じょっぱい。
「竜胆?」
「だって天女なのだろう?月に住んでいてもおかしくなんかないさ。祈菊殿はちゃんと紅季殿の着物も縫うし、紫季の頭だって撫でてくださってるって」
「そうですかね・・・」
「根付もちゃんと持っていっていたのでしょう?」
「ええ」
「それなら、やっぱり祈菊さまがいらしたのですよ。ね、兄上?」
「もちろんだ」
竜胆と蓮華は自信満々に言った。
「そうですね・・・あ、いらっしゃいませ」
店に二人連れのお客が入ってきた。奉行所の双子の跡取り平崎兄弟だ。
「何になさいますか?」
紫季はすっかり『桜月』の店員になって何をすればいいのかもしっかりわかっている。早速注文をとった。
「俺は餡蜜を」兄の海が言った。
「俺も餡蜜を」弟の麻も同じものを注文した。
「かしこまりました」
紫季は店の奥の厨房で竜胆と二人して餡蜜を硝子の器に盛り付けた。蓮華はお茶を出している。餡蜜の一番上に栗の甘露煮を飾って、海と麻へ持っていった。
「ありがとう・・・そういえば、三人とも聞いたか?」
海が餡蜜を食べようとした手を止めて言った。
「聞いたって、なにを?」
「成先生がくずきり城の侍になるらしい」
「先生が?」
「ああ、昨日父上たちが話していた。どうも前々から侍にならないかっていう誘いは方々から来てたらしい」
「先生のお姉さんは美邑殿の奥方だし、美邑殿とも幼馴染で親友で兄弟だから」
兄の言葉を麻が引き取った。
「じゃあ、道場はどうなるんだ?」
「さあな・・・でも、今美邑殿が手伝いに来てるみたいに、三日に一度とかになるのかも知れんな」
平崎兄弟が帰った後、店が空いてきた時刻を見計らって紫季たち三人はそろって“仲沢道場”へと足を向けた。もちろん、事の真相を成から聞きだすためだ。
「先生!」
竜胆は道場につくなり、“お願いします”というのも、礼をするのも忘れて中へ駆け込んだ。今日は生徒が誰もいない。成がひとりで道場の真ん中に座り込んで刀の手入れをしていた。
「竜胆?どうした、そんなに慌てて」
成がその独特な優しげな声で訊いた。
「どうもこうもありません!」
「先生、侍になるって本当ですか?」
「道場はどうなるのですか?」
竜胆、紫季、蓮華は矢継ぎ早に質問した。
「侍になる?私がか?」成が目をぱちぱちした。「誰がそんなことを?」
「海兄さんと麻兄さんがお奉行様から聞いたって・・・」
「侍にならないかとは言われたが、私はそのつもりはない」成が三人を傍に座らせた。
「どうして・・・?」
竜胆は眉根を寄せた。自分は侍になりたくて、一生懸命稽古に励んでいるのに、どうして成は子供相手の道場などやっているのだ。どうして侍にならないのだ?侍になったほうが、今よりよほどいい給料がもらえて、いい生活ができるはずなのに・・・そう、あの長屋に住むよりももっと。
「私は自分が侍となって国の役に立つのではなく、私が教えた子供たちが国の役に立ってくれる方が嬉しい。私はこの町の子供達とこの道場が好きなんだよ」
「先生・・・」
三人の頭には、一瞬、自分たちが成の足を引っ張っているのでは?という考えがかすめた。だが、それを見透かしたように成は言葉を続けた。
「そんな神妙な顔をしなくていい。私は今のままが自分にとって一番幸せだと確信しているから」
成がにこりと微笑んだ。
「先生は欲のない方ですね」
「欲がない?私は自分が一番幸せでいられることを選んでいるのだ。これで充分欲張りだと思うよ」
紫季の言葉に成は自分を隠さず話した。裏表がない。それが仲沢成という男なのだ、と紫季は思った。