長月 紫季は淡く恋を募らせ 美邑、道場にて手合わせを
長月 紫季は淡く恋を募らせ
美邑、道場にて手合わせを
「まだ甘味の国に来て三月も経ってないのに、紫季は手が早いな」
夕餉の席で紅季が言った。
「はい?」今日は紫季が飲みかけた蕎麦のつゆにむせる番だった。「手が早いって、何のことですか?」
「俺は見たぞ」紅季はにやにや笑って蕎麦を啜っているだけだ。
「見たって何を?」
「言わなくたって分かってんだろ?」
紅季はいつも自分ペースだ。紫季は普段は早食いの紅季が、馬鹿にゆっくりとそばを食べ終わってどんぶりを空にするまでじっと待ったが、紅季は食べ終わっても紫季を見て微笑むだけだ。
「何のことですか?」
しばらく焦らされて、紫季は紅季の態度に少しばかりいらいらして、珍しく怒った口調で紅季に詰め寄った。
「早く食わないと、蕎麦がのびるぞ」
どうも紅季は紫季をからかっているらしい。しかも、蕎麦はとっくにのびきっている。
「蕎麦のことは今はどうでもいいんです!」
紫季は椅子から立ち上がって、紅季に噛み付きそうな勢いで言った。
「おいおいおいおい」
「おいおいおいおいじゃありませんよ!」
「すまんすまん」
「父上ってば!」
「落ち着け、落ち着け。俺はただ、お前が可愛い娘と仲良さそうに手を繋いで、彼女に城の前まで送ってもらったのを見てたってだけだ」
紅季が噛み付いてきそうな息子を押しとどめるように両手で紫季の肩を押して椅子に座らせた。
「それにしても、男のお前が彼女を家まで送ってやるのが普通だろう」
「・・・・・・」
紫季は黙って紅季を睨み付けた。
「ほら、早く食え」
紅季に言われて、紫季は黙って蕎麦を啜り、黙ってお茶を飲んで、黙って部屋へ戻って、黙って寝巻きに着替えて、黙って布団を引いて、黙って横になった。
「おい、そんなに怒ることか?」
さすがにこんなに黙りこくられて間が持てなくなった紅季は紫季の布団を引き剥がした。
「なにするんですか」
紫季が布団を取り返そうとするが、紅季のほうが一枚上手だ。
「紫季はあの娘に惚れてるんだな。初恋か?」
「返してくださいよ!」
「俺の問いに答えたら返してやる」
「どうして答えなきゃならないんですか?」
「俺は父親として息子の初恋の行方を知らねばならん」
「意味が分かりませんよ。知らなくていいですよ。どうだっていいじゃありませんか」
二人は押し問答しながら布団の争奪戦を始めて部屋の中を駆け回った。下の部屋から苦情が来ないのが不思議なくらいの暴れようだ。紅季は長い足を障子に突っ込み、障子紙どころか桟まで吹っ飛んだ。襖なんぞとっくに外れて、部屋は廊下から丸見えだ。
「父上!寝させてください。私は明日も約束が・・・」
紫季は隙を見て紅季の腕から逃れ、襖をはめ直し、障子の桟を拾った。できれば破れた障子も張りなおしたいが、さすがにそんな余裕はない。時間的にも体力的にも。
「ほう、逢引の約束か」
紅季は紫季の敷布団の上にどかりと座り込んだ。
「もう、父上の布団で寝るからいいです!」
紫季が紅季の布団にもぐりこむと、紅季も一緒に入ってきた。
「ちょっと、狭いんですけど」
「俺の布団だぞ」
「もう・・・」
紫季はますます機嫌を損ねて布団から這い出そうとしたが、今度は紅季に足を掴まれて出られない。
「なにするんですか!」
「たまには男同士の話でもしながら一緒に寝るのもいいもんだぞ。・・・祈菊が見てるのがちょっと気になるけどな」
今日の空はとても星がきれいで、月も形のいい三日月だ。紅季は紫季が幼い頃に病で亡くなった妻の祈菊が、本当は天女で、今でも月に住んでいると、ずっと信じているのだ。
「障子閉めちまうか」
紅季は障子に手を伸ばしかけたが、届かないのであっさり諦めた。閉めたところで、障子紙には紅季の足型の穴が空いているのだが。
「いやですよ、暑苦しい」
「そんなこと言うなよ。お前の初恋について話せよ」
紅季が紫季の足首を掴んだ手に力を入れる。馬鹿力の紅季にこうも強く掴まれては、紫季の細い足首は血が止まってしまう。いや、いっそのこと骨ごと折れてしまいそうだ。
「痛っ!痛いです!」
「初恋の話するまで離さないぞ」
「・・・わかりましたよ。話しますから、父上も離してください」
「はなすって?祈菊との恋愛秘話と甘い生活についてか・・・うん、そうだな」
「違います、私の脚を離してください!」
紅季に足を離してもらって、自分の布団にもぐりこんだ紫季は、すぐに眠ってしまいそうなほど疲れていた。昼間の疲れではない。夕餉の時間から、今までの紅季とのやり取りの疲れだ。
「じゃあ、話してもらおうか。俺と祈菊の息子の初恋について」
紅季は紫季が竜胆から貰ってきた栗の甘露煮をつまみながら、上機嫌で言う。一方の紫季は不機嫌を通り越してぐったりしていた。
「話すほどのことはありません。彼女の名前は常真蓮華で、歳は私より二歳下で、親友の竜胆の妹です」
「甘味屋の看板娘か・・・可愛かったもんな。二歳下か・・・祈菊も俺より二歳下だ・・・それで?」
「ほかに話すことはありません」
紫季は紅季に背中を向けて眠ろうとした。
「ない?おい、ないってどういうことだ?」
「ないってことはないってことです。おやすみなさい」
紫季はそれだけ言うと、その後の紅季の言葉には一切返事をせずに、明日も蓮華に会うために早々と眠った。
「おはようございます」
翌日、紫季が城門で待っていると、蓮華が小走りにやってきた。今日の蓮華は黄色と橙の可愛い格子模様だ。髪の毛をまとめている簪は桃色の牡丹の花だ。
「おはようございます」
蓮華はすぐに紫季の手を握った。だが、はっと何かに気がついて、その手を離して、今度は紫季の着物の裾を少しまくって足首に優しく触った。紫季の足首は昨日の夜紅季に掴まれたせいでほんの少し赤く腫れている。
「大丈夫ですか?」
蓮華がとても心配そうな顔をしている。
「大丈夫です。さあ、行きましょう」
「・・・お店に行ったら、腫れの引くお薬塗ってあげますからね」
二人は仲良く手を繋いで『桜月』へと向かった。紅季は城の屋根の上からそれを見ていた。
「さて、俺もそろそろ働くかな」
紅季は隣の屋根へと飛び移り、そこから地面へ降り立った。
「竜胆、今日は店の手伝いはいいぞ」
竜胆の父がいつものように小豆を茹で始めた竜胆に言った。
「どうして?」
「いつも店の仕事ばっかりで、紫季はまだ城下を見回ってないだろう?ちょっと遅くなっちまったが、蓮華と二人で紫季に町案内をしてやるといい」
「ごめんなさいね、私たち、気がつかなくて」
竜胆の母がすまなそうに言った。
「いえ、お店にいるの、楽しいですから」
甘味の国に来てから毎日店の手伝いばかりしている紫季を気遣ってのことだった。
「じゃあ、そうしようか。久しぶりに仲沢先生のところにも顔を出してくるよ」
竜胆は壁に立てかけてあった竹刀と、いつも持ち歩いている木製の槍とを持って店をでた。紫季も木刀を腰に差して、蓮華に手を引かれて、町へと繰り出した。
「仲沢先生って誰ですか?」
「俺の剣術の師匠だ。仲沢成という名でな。町の外れに道場を構えてる」竜胆の答えで、紫季は竜胆がどうして竹刀を持ったのかがわかった。「小柄で細身。でも、信じられないくらいの腕利きだ」
「そういえば、初めてこの町に来た日、子供がみんな竹刀や木刀を持って家に帰るのをみました」
紫季は紅季と城下を歩いたときのことを思い出した。
「皆仲沢先生の弟子だ。城下に道場は一つしかないから」
「そうなのですか」
「長刀も教えてくださいますよ」蓮華がにこりと笑って言う。
「長刀?長刀も習っているんですか?」
「いや、俺じゃなくて、蓮華が教えてもらってるよ」
「蓮ちゃんが?」
紫季は小さな、しかもこんなに可愛らしい蓮華が長刀なんか使うところは想像できなかった・・・あまり想像したくもなかった。
「紫季さまの剣術のお師匠様は、紅季さまですよね?」
「ええ、父上の修行は厳しくて・・・少し参ってしまいますね」紫季は苦笑いを浮かべた。
城下の表通りをざっと見回ったあと、三人は町外れの“仲沢道場”へと足を向けた。道場の中からは打ち合う声が聞こえてきた。
「お願いにあがりました」
竜胆が道場の入り口できっちりと頭を下げて、中に入った。蓮華もそうしたので、紫季もそれに倣った。
「お、竜胆が来た!」
「竜胆だ」
「竜胆と蓮華が来た!」
道場の中で練習していた子供たちが口々に叫んだ。そして、道場の一番奥で竹刀を握っていた小柄な男が竜胆を見てにこりと笑って手を上げた。
「久しぶりだな」
「先生、ご無沙汰しておりました」
男はここの道場主、仲沢成だ。歳は二十二。細身で色白、女のように小柄な男だが、腕のほうはかなりのものだ。そこら辺の侍では太刀打ちできないほど強い。
「しばらく来なかったから、どうしたのかと思っていたよ」
「すみません、店が少し忙しくて・・・あ、この間の!」
挨拶をしかけた竜胆が道場の隅にどかりと座り込んでいた、飛白の着物の男を見て叫んだ。栗を拾いにいったとき、山で賊に囲まれていた、くずきり城の東條美邑だ。
「竜胆と蓮華、それに、秋村紫季。あんみつ城の紅季殿のご子息だな」
東條美邑が三人を見てゆっくりと立ち上がり、三人のところへ向かってきた。
「この間の三人にもう一度会いたいと思っていたんだ。まさか、成の弟子だったとはな」
成が傍へ来た美邑を振り返った。
「紅季殿のご子息とは私も初対面だが」
「はじめまして」
紫季が挨拶すると、成も丁寧に頭を下げた。確かに小柄で細身だ。隣に並んだ美邑とでは、頭一つ分以上の身長差がある。
「よし、一つ挨拶代わりに手合わせしようか」
美邑が道場の壁に立て掛けてあった練習用の竹刀を握って道場の真ん中に立った。他の生徒達はさっと場所を開けた。
「さあ、来い!」
長い手ぬぐいをたすき代わりにした美邑は威勢良く声を張り上げて楽しげに笑っている。
「相手をしてやってくれ・・・最初は誰がいいかな?」成も笑う。
三人は顔を見合わせた。
「決まらないのなら、歳の順にしたらいい」成が蓮華に竹刀を手渡した。「竜胆は長月生まれだったな。紫季殿は何月生まれかな?」成が紫季にも竹刀を渡してくれた。竜胆は自前の竹刀をちゃんと持っている。
「私は師走生まれです」
「では、二番手は紫季殿ということで・・・どうした?始めていいぞ」
美邑は蓮華と向き合ったまま、何か困った顔をしている。
「女の子と手合わせだなんて、初めてだ・・・手加減は必要かな?」
「美邑様にお任せしますわ」蓮華がにこりと微笑んだ。
こうして三人はくずきり城の侍、東條美邑と手合わせした。勝負はもちろん、美邑の全勝だ。
「負けなくてよかった!」
三本連続で試合をした美邑がその場にばたりと大の字になった。もうすぐ冬だというのに、ずいぶん汗だくになった。子供相手とはいえ、さすがに息も吐かない三連戦は疲れたのだろう。
「負けたら、侍を辞めなければならないところだったな」
「まったく、まったく・・・でも、一番危なかったのはお嬢ちゃんとやったときだな」
「私ですか?」
蓮華がびっくりして青っぽい瞳を大きく見開いた。
「だって、長刀の構えでかかってくるから、かわすのに苦労したよ・・・竹刀、握ったことあるかい?」
「いいえ、初めてです」
三人が道場から出たのは、もう空が緋色に染まり始めた頃だった。
「素敵なお侍さんでしたね」
「ああ、俺もいつかあんなふうになれたらいいと思うような方だった」
半日の稽古で、紫季も竜胆もすっかり美邑の虜になってしまった。何しろ立ち振る舞いから恰好いいのだ。いつも紅季ばかり見ている紫季にとってはなおさら憧れの存在となったのだ。
「三日に一度は道場に行こうな」
美邑が三日に一度の割合で道場へやってくるということを聞いたのだ。美邑は成の幼馴染で、弟子の増えた道場を手伝いに来ているということだった。
「そんなにしょっちゅうですか・・・」紫季の手を握ったままの蓮華が不満げに言った。蓮華は別に美邑に憧れているわけでもなんでもない。「六日に一度にしましょうよ、ね、紫季さま」
「・・・そうですね」
紫季は今まで友達などいなかったので、こんなふうに二人から同時に言われると、なんと答えてよいのか困ってしまう。竜胆にも蓮華にもあわせたいが、それは無理だ・・・それなら・・・。
「じゃあ、二人はそうするといい。俺は三日に一度行くことにするから」
紫季のどっちつかずな態度に竜胆は少しいらいらしたのだろうか。なんでも即断即決の竜胆にとって、優柔不断なものの気持ちは分からない。紫季は二人の板ばさみになって、どうしたものかと思ったが、やはり女の子で、可愛い蓮華の味方をしてしまう。
「先に帰るぞ。蓮華、紫季をちゃんと送ってやれ」
竜胆はひとりで『桜月』への近道をすたすた歩いていってしまった。その後姿が紅季に似ていて、紫季は思わず噴出した。
「いきましょ」
蓮華と紫季は仲良く手を繋いで城門まで歩いた。
それから、紫季と竜胆は四日に一度くらいの割合で仲沢道場へと通うようになった。これなら、毎回ではないが、いい確率で美邑に会うことができる。それに、成は確かに腕利きで、教え方もうまい。
「お願いにあがりました」
蓮華を店番に残して、竜胆とふたり、竹刀片手にいつものように道場の門をくぐった。
「おう!せっかく来たのに悪いが、今日は午前中で終わりだぞ」
道場のなかでに数人の子供たちが輪になって座っていて、その中心で美邑と平崎奉行所の次男坊、麻が打ち合いをしているところだった。
「どういうことですか?」
とりあえず一礼して、二人も輪に加わった。
「成が寝込んじまってて・・・俺も午後は城に帰らないといかんし」
「仲沢先生が?」
「ああ、成はめったに身体壊さないし、風邪だって、五年に一度ひけば多いほうだと言うのに・・・何か悪いものでも食ったかな?」
結局、成が不在なので、それから半刻ほど皆で片付けや掃除をして、道場の鍵を閉めて帰ることになった。
「先生、大丈夫でしょうか?」
「帰りにちょっと、先生の家に寄ってみようか?」
「はい」
ふたりは道場からの大きな通りを真っ直ぐ歩いている。もう冬がそこまで来ているのか、吹いてくる風がだいぶ冷たくなった。ここに三日の急な冷え込みで、成は風邪でもひいたのかもしれない。成は一人暮らしだといっていたから、きっと食事にも不自由しているのかも・・・。
紫季はぼんやりとそんなことを考えながら歩いていたが、ふと、通りの店の前に並べられているものが目にはいった。
「竜胆、料理、してもらえますか?」
紫季は道ばたで足を止めて、店先に並んでいた卵と米を見ながら言う。
「構わないが、俺、金ないぞ」
竜胆も言いながら、店の前に屈んで一緒に並んでいる野菜の鮮度を確かめた。毎日店に立っている竜胆は料理人顔負けの腕と目の持ち主だ。
「お金なら・・・」
「ほらよ!」
紫季が袂から財布を出す前に、店の板の上に四角い金貨が二枚放られた。米と野菜と卵を買うには充分。むしろ、結構なお釣りがくる。
「紅季殿!」
「父上!」
ふたりが見上げると、紅季がきゅっと唇を吊り上げて笑っていた。
「もう晩飯の相談か?」
「あ、いえ、仲沢先生が寝込まれてるのでお見舞いに」
「成る程な」
紅季は成に会ったことはない。さして広くない城下町なので、どこかお互いに気づかぬうちにすれ違ったりはしているのだろうが、成の顔は知らない。一方の紅季の似顔絵は連日のように城下の瓦版所に張り出され、町中にばら撒かれているので知らぬ人などいないほどだ。中にはまったく似ていないものもあるが。
成も、みんなが見習うようにと道場の壁に紅季の似顔絵入りの最新の瓦版を貼り付けている。それを見ると、紫季はなんとも複雑な気持ちになるのだが・・・。
「卵を買うなら、ここから二軒先の店で扱ってる“烏骨鶏”の卵を買うといい。これよりも値は張るが、病人にはいい」
「でも・・・」
竜胆は紅季が放った金貨を拾う。
「いいって。おまえ達がいつも世話になってる先生なんだから。俺は料理は出来ないから、そこは竜胆に任せるぞ」
紅季がぽんと竜胆の肩を叩き、竜胆はにこりと頷いた。
「はい」
二人は新鮮な野菜と米と、それに紅季に教えられた店で卵を買った。そしてさらに道の途中でお見舞いに果物と日持ちのしそうな風邪によい食材を少し買って、成の住む長屋へと足を運んだ。
「この角を左だ」
「よく覚えられますね、こんな複雑な道」
確かに、一本はいった裏通りはたくさんの道が網の目状に入り組んでいて複雑だ。あちこちに似たような長屋が並んでいて、紫季ならば絶対に迷子になる。竜胆がいてくれなければ、通いなれた桜月から仲沢道場への道さえも迷いそうなのだから。
「そこここに目印があるから」
竜胆は言いながら、左に曲がり、並んだ長屋の手前から三軒目の戸を叩かずに開けた。
「ごめんください。竜胆ですが、勝手に上がりますよ」
竜胆は玄関で一声掛けて、下駄を脱いであがりこんだ。
「ちょっと竜胆!」
「え?」
「だめですよ!」
紫季は慌てて竜胆の着物の袖を引いた。
「病気で寝てるんだから、先生をここまで来させるほうが悪いだろう?」
「それは・・・」
結局、紫季も竜胆に続いてあがりこんだ。物がないことも手伝って、きれいに片付いている。床にもちゃんと雑巾がかけてあるらしく、埃も落ちていない。どことなく、道場と似ている。
「先生・・・?」
襖をそうっと開けると、部屋の真ん中に成が布団を敷いて眠っていた。
「ぐっすり寝てるみたいだな」
特に苦しそうでもなく、すぅすぅと寝息を立てている。ただ、いつもよりも色が白く見える。
「帰りましょうか?」
「う~ん・・・でも、先生、何も食べてないんじゃないか?」
竜胆があまりにきれいに片付きすぎた流しを見た。部屋の隅に寄せられた、いつも食事をするらしい小さな卓の上には、美邑か誰かが持ってきたらしい野菜の煮つけと握り飯が置かれていた。持ってきてから一度も目を覚ましていないのか、まったく手をつけていないようだ。
「そうですね・・・それに、この部屋寒すぎませんか?」
「ああ、どうもな・・・煮炊きしてないからだろ」
土間の炬口には今朝美邑が焚いたのであろう火の残りが消えかけるところだった。
「これじゃ、よくなりませんよ」
ふたりしてとりあえずは部屋を温めることにした。
「竜胆、炭が足りませんよ」
「家から持ってくるか」
「それでは時間がかかりすぎます。お隣から借りましょう」
紫季は火吹き竹を竜胆に手渡して、静かに土間の戸を開けた。
「迷うなよ」
「迷う余地ないでしょう」
火の番を竜胆に託して、紫季は迷う余地のない、歩いて三秒の隣家・・・長屋の隣室へと尋ねていった。
「ごめんください」
紫季がそう言って戸を開けると、家の中から何枚もの半紙がひらひらと風に舞って外へ出て行こうとした。
「ああっ!」
紫季は慌てて引き戸を閉めて、戸の間からはみ出た紙を捕まえた。
「どちらさんだい?」
家の中から真っ黒い着流しに真紅の帯を締めた男が出てきて、紫季から半紙を受け取った。男の着物の裾には白抜きの髑髏が浮き出ていて、紫季は一瞬首をかしげた。
「捕まえてくれてありがとさん」
そろっているのか、いないのかわからないような前髪で、伸ばしっぱなしにしているような髪の毛を後ろで無造作に縛っている。だが、にこりと微笑む笑顔を見る限り、いい人そうだ。
「いえ、私のほうこそすみません。いきなり開けてしまって」
紫季はかしげた首を戻して今度は頭を下げる。
「いや、あちこちに散らばってるもんだから」
男の顔にも腕にも墨で擦った跡がついている。
「あの、隣の者ですが、炭か薪を拝借できないかと思いまして」
「隣?成の隠し子にしちゃあ成長しすぎだな?」
男は首をかしげて紫季を見た。
「私は先生の弟子で、秋村紫季と言います。諸事情により炭がきれていまして・・・できたらお借りしたいのですが」
男はしきりに頷いた。
「成る程な、えっと、炭すみ・・・薪でもいいか?・・・ちょっと待ってな・・・あ、寒いからあがれ。そこ開けとくとまた紙どもが旅立っちまうし」
「おじゃまします」
紫季が土間へ上がると、床が見えないほどに本当にそこらじゅうに半紙が散らばっていた。開けっ放しの部屋の中も同様らしい。
「すごい半紙の量ですね。書道の先生なのですか?」
「いや、オレは絵師だ。浮世絵から瓦版の人相書きまで何でも描くぞ・・・あったあった!」
紙に埋め尽くされそうな土間の一角から、男が薪を一抱え持ち上げた。
「重いからオレが運んで行こう・・・あ、ちょっと、こっち向きな」
「はい」
紫季が男に顔を向けると、男はぱちりと目を開いて紫季を見た。
「似てんなー」
「誰にですか?」
「この間の瓦版に書いたお侍。何でも、流れの侍だけど、かなりの腕利きだって噂の。おっもしろい人だったぞ・・・蕎麦をおごってくれて銭湯まで一緒に入ったんだ。美人の奥さんの自慢話してて、奥さんは天女だって言い張ってた。秋村紅季って言ったな、確か」
「あ、それは私の父です」
「やっぱりそうか!名字も同じだったから、もしかしたらと思ったんだ」
ふたりは紙が外へ旅立たないようにすばやく外へ出て戸を閉め、歩いて三秒の成の部屋へ。
「ただいま」
「おう、お帰り。借りれたか?」
竜胆が火を絶やさないように風を送り、鍋を火にかけ、何か料理をしているようだ。
「ええ、こちらの方に」
紫季が竜胆に男を紹介した。
「ありがとうございます」
竜胆も立ち上がって丁寧に頭を下げた。
「いやいや、困ったときはお互い様だ。それにしても成のやつ、調子悪ぃなら言ってくれりゃあ、オレだって何かはできた!・・・何が出来たかはあえて言わないけどな」
そう言って竜胆に薪を手渡す男は、見た目からして病人の面倒を見ることなど不可能そうな感じだ。あの部屋の様子からすれば、自分の面倒だって見きれていないのに。
「ありがとうございます。明日、必ず返しますから」
「いつでもいいって、あんま使わないから。ところで、お前さんは“桜月”の子息と見た」
男はさっき紫季を見たのと同じように竜胆をぱちりと目を開いてみて言った。
「ご名答。竜胆です。常真竜胆・・・貴方は?」
「そういやあ、言ってなかったな!オレは蒼木陸」
「ああ!いつも見てますよ、瓦版の物語も、絵も」
竜胆は勉強もかねて、毎回の瓦版の写しを取っている。
「ありがとさん。ところで、何か手伝えることあるか?」
男が部屋を見回す。部屋は何もする必要がないほど・・・むしろ何もしないほうがよいほど整っており、その部屋の真ん中には、さして面倒を見なければならないほどではない成が気持ちよさそうに眠っている。
「特にはないですね・・・俺たちも、部屋が暖まったら帰ろうかと・・・」
「火の番ならオレがやっとくが?」
「ありがとうございます。半刻おきくらいで見にきていただけるとありがたいのですが」
竜胆は言いながら鍋の蓋を開けた。暖かい湯気がふわりと舞い、食欲をそそるいい匂いが部屋中に立ち込めた。腹が減っていなくても食べたくなる匂いだ。
「たまご雑炊ですが、蒼木先生もよかったら召し上がってください」
「ではお言葉に甘えて」
こうして三人は、寝ている成の隣で遅い昼食。
「美味い!甘味屋の息子は料理も上手なんだな!」
「本当に竜胆は料理上手ですね・・・手際もいいし」
紫季はいつもながらの竜胆の手際のよさと料理の美味しさに感心した。そういえば、桜月で毎日竜胆の料理を食べているが、飽きたと思ったことはない。
「これはさぞかし良い嫁に・・・おっと残念、男だったか」
陸が冗談めかして言った。
「勘弁してくださいよ」
「いや~、こんなに料理が上手いのに。女だったら惚れるぞ」
「お断りします」
料理の上手さでは竜胆が女ではないことがとても残念ではあるが、この外見を見る限りでは、女にするには惜しい気がする。がっしりとした骨格も、きりりとした目鼻立ちも、竜胆がかなりいい男に成長するだろうと思わせた。
「・・・ううん・・・この匂いは、竜胆の料理だな」
三人が食事を終えて台所を片付け終わった頃、小さく伸びをして、成が目を覚ました。
「あ、先生、すみません・・・起こしてしまいましたか?」
最初は小声だったのが、だんだん声が大きくなっていた。
「いや、少し寝すぎたから・・・」
「熱はどうです?食欲はありますか?」
紫季は成の額にそっと手を当てた。熱はあっても微熱程度だ。
「先生も、卵雑炊いかがですか?」
竜胆はほどよく温まった雑炊を器にすくって成のそばへ持っていった。
「ありがとう。少しもらおうか・・・陸にまで心配をかけたか?」
成は自分の家でのんびりと勝手に料理をし、昼食を取っている三人を見てにこりと微笑んだ。
「いや、雑炊の匂いに誘われてな」
「竜胆の料理は美味いだろう」
「絶品だぜ。あ、そうだ!」
話しながら咳をする成を見て、陸は何かを思い出し、急ぎ足で隣の自分の部屋へと戻っていった。
「陸!いらない!」
成が慌てて言ったが、陸はもう部屋から消えていた。
「???」
紫季と竜胆は顔を見合わせたが、言葉を交わす間もなく陸が戻ってきた。その手には、徳利のようなものを握っている。
「さあ、これを飲めばすぐに元気が出る!」
陸は徳利の中身を湯飲みに注いで、成に差し出した。
「陸・・・いや、大丈夫だから・・・」
成は湯飲みの中身を苦虫を噛み潰したような渋い顔で覗き込んだ。竜胆と紫季も一緒になって覗いたが、特になんということはない。どこからどう見てもただの緑茶だ。
「いいから飲めって!」
「いや、本当に大丈夫だから・・・あとで飲むから、置いておいてくれ」
陸が満面の笑みで勧めるそのお茶を、成はどうしても口にしようとはしない。よほど不味いのだろうか?
「そうか?じゃあ、ここ置いとくぞ」
陸はお茶を徳利と湯飲みのまま成の傍のお盆の上に置くと、明日の瓦版の続きがあるからと、部屋へ帰っていった。
「先生、確かに少し水分をお取りになった方が」
紫季が湯飲みを持ち上げていうと、成はぶんぶんと首を振った。
「緑茶、お嫌いでしたっけ?」
道場にも小さな炊事場があるが、成はよく緑茶を飲んでいたような・・・。
「いや、これはただのお茶ではない・・・」
「は?」
「これは“もぉいお茶”と陸が名づけた、陸が育てている茶葉から淹れているよく分からんお茶で・・・飲むと・・・」
「飲むと?」
「“猛威を振るい始める”っていう・・・」
いつになく真剣な成の一言で、二人は笑い転げた。
「そんな馬鹿な!」
「どんなお茶ですか!」
竜胆は笑いが止まらなくて、床の上を転げまわっている。紫季に至っては声も出ない。
「本当だって!」
成が訴えたが、二人は笑いを抑えるのに精一杯だ。
「誰か飲まれたんですか?」
「いや、いつも陸が飲んでる」
「蒼木殿、全然猛威振るってないではないですか」
「実は振るってるんだって!影で・・・」