アントロポファジー・ラブ
俺は創作物の主なジャンルの一つにとても関心を持ったことがある。
『恋愛』
もしくはラブコメでもいい。とにかく俺は恋というのをやってみたかった。手を繋いで彼女の温もりを感じたり、帰りにどこかへ寄り道したり、初々しくも甲斐甲斐しい、そんな気持ちを味わってみたかった。
そもそも恋愛とはなんなのだろう。人間の欲の何に一番近いか。一般常識でそんなことを問われると気まずくはなるが答えは一つしかない。性欲だ。人間が持つあらゆる欲の中の一つ、もし恋愛がカテゴリーされるならそこにしか入らないだろう。
だけど俺は違う。それは一種の病気だった。精神障害かもしれないし、身体の発達に異常を来している可能性もある。
カニバリズムという言葉をご存じだろうか。もともとは宗教儀礼として行われていた人肉嗜食、つまりは共食いというわけだ。俺は生まれてから口にする食べ物、その全てに味というものを感じることが出来なかったのだ。味覚障害というだけならまだ聞こえは良かった。それだけで留まれるのだから。でも俺は生まれて初めて味というものを知った。それは俺が初めて彼女と接吻、キスをしたときに起こった。今まで機能していなかった五感の一つが、湧き上がった衝動のように、甘く、酸っぱく、とても心地がよく、味覚だけで全てが満たされたような、そんな感じた事のない高揚としたものがあった。俺は必要以上に彼女へキスを迫り、唇と唇が重なった時。舌を絡めたときの甘い味と唾液がまじりあった時の酸味を度々味わった。
彼女が俺と別れたいと切り出した時、俺は大切なおもちゃを取り上げられた子どものような焦燥感が襲いかかってきた。手放したくないと思った俺は彼女を力付くで抑え付けた。恐怖のあまり叫び助けを呼ぼうとした彼女の口を俺の口で塞いだ。ああ、甘い。こんな気持ちのいい感覚を失うのは嫌だ。
抵抗の意志が強すぎた彼女はキスをする俺の舌唇を噛んできた。
「いたいな」
怒りが頂点へと達した時、俺はとてつもない空腹に見舞われた。味を感じることが出来てもそれが食堂へ通って消化されなければ、食事ではない。あの感覚を舌先だけじゃなく胃にまで届かせたい。これまで感じた事のない衝動が俺を突き動かした。
俺はもう一度彼女へキスし、彼女の舌先を噛みちぎった。少し固めのグミのような触感だった。こりこりしていていつまでも味わっていたいと、そう思える味だった。だが、あまりの衝撃にすぐ飲み込んでしまった。
「うまい」
生まれて初めて、心からそう思った。舌先が無くなり、口から血を吹き出して痙攣している彼女は白目を剥いていた。そこから俺は激しい性欲に掻き立てられた。この女を犯したい――――――犯したい犯したい犯したい食べたい食べたい食べたい。
俺が今まで彼女に抱いていた気持ちが恋でも愛でもないという事を分かった時、拭いようのない所労が俺の中を渦巻いた。ただただ欲を満たしたいという感情だけだったのだ。食欲という……生物が生きぬくため絶対的に必要とする欲望。
気付けば、俺がかつて愛していたであろう女性は、見るも無残な姿で目の前に転がっていた。身ぐるみは剥がされ、皮と肉は部分ごとに蝕まれ、そこからありったけの鮮血を爛れさせていて、先ほどまで生きていたのがまるで嘘みたいに原型を留めきれていなかった。誰かが来る前に片付けないと。黒ビニールに切断した肉塊と臓器、骨をそれぞれ小分けして包み。血痕は水を使い固まる前に土に染み込ませた。
家に帰った俺は部活などをしていなかったことが不幸中の幸いと言えただろう。家には誰もおらず、持ち帰った彼女だったモノの臭みを消すために水で血を綺麗に洗い流しアルミで包んで冷凍庫に入れた。
部屋に戻った俺は何をするでもなくパソコンを立ち上げ、初めて料理というカテゴリーに目をつけた。調べる項目はもちろん肉料理について、あとは臓器の食べれる部分とそうじゃない部分の主な見分け方、最後は骨の成分。
「ただいまー」
玄関を開けて甲高い声が俺の部屋まで届いてきた。だがさして驚くこともない。帰ってきたのは弟だった。俺は弟と二人暮らしだった。
「あれ? お兄ちゃん今日は早いんだね」
俺の部屋をノックも無しに開けてきた。俺はゆっくりとパソコンを閉じて弟の方を見やる。男とは思えないほどのぱっちりとした目、サラサラの髪、穢れを知らない肌に華奢な体。女性ホルモンの異常発達と言ってもいいくらいに美少女の相貌を誇っている弟は実際『男の娘』としてネットで活動していたりもするらしい。別段興味もないが。
「靴を見れば分かるだろう。あと、ノックくらいしろ」
「なになに? なんか怪しい事でもしてたの?」
弟のこの態度にはどこか小悪魔めいた雰囲気もあり、正直同性としていや家族として何かを言ってやらなければならないのだが、あまりにも似合っていてなんとも苦虫を噛み潰したような気分になってしまう。何故、美男子としてじゃなく女装のほうをチョイスしてしまったのだろうか。
「一般常識として俺は言っているんだ。あ、そうだ……晴陽」
晴陽とは弟の名前だ。ネットでは『春姫』という名前で活動しているらしい。だからといって調べたりはしない。家族のそんな裏の顔を見るのは、どことなく気が引ける。
「俺の晩飯だけ冷凍室に入っている肉で作ってくれないか?」
「ん……いいけど、なんか特別な物なの?」
「ああ、医者から味覚調査の為に用意された肉なんだ。何が入ってるかわかったもんじゃないから間違っても食べるんじゃないぞ」
何かとポーカーフェイスが得意な俺は晴陽の不意な質問に動じることもなく単調に、且つ不審がられず取り繕うことができた。一先ずは晴陽の腕を信じて彼女の肉の味がどのように変化するのか、見極めることにした。
「なんか、集中できないんだけど……」
どうして晴陽が俺のことを邪険にしているかというと、普段はさして興味を示さない料理というものを隣で様を見ているからだろう。どんなに趣向を凝らした調理を施したところで俺にとって何の変化も見られなかった料理。味覚障害と一括りされ、その要因が分からないまま、ただただ空腹を満たす為だけに食してきたものだ。
だけど今は違う。俺は味というものを知った、そして覚えた。表現のしようがない、あの衝撃。
「いや、最近料理というものに興味があってな。軽く観察させてもらっている」
「へえ。こりゃ、明日は雨だね」
なんて言っている晴陽だが、表情はどこか嬉しそうにしている。それもそうだろう、食に関して何もかもを投げ出していた俺が、こともあろうかキッチンに立って調理する様を観察しているだけでも珍しい光景だったろう。そのうえ興味を持ったなんて言えば、回復の兆しが見えて来たと誰だって歓喜してくれる。現実は少し違うがな。
「はい、おまたせ」
注文通り、俺の分だけは違う料理を施してくれた。俺が愛した女、愛した肉。生とは違った味になるのか……。俺にとって美味いのか不味いのか。
「すまない。手間を掛けさせたな」
「いや、お兄ちゃんがご飯に興味を示してくれるのは家族として嬉しいからいいケドさ、その肉っていったいなんだろうね。牛肉に近い見た目だけど、少し違う感じがするし」
「さあな。何せ医者が薦めてきた肉だ、何かあればそこを訴えるだけだ」
これが人の肉だとはさすがに考えつきはしないだろう晴陽も、少し変わった食材に興味を持ったようだ。俺は少し困った顔を作り、そんな嘘を吐いてみる。
そして待ち侘びた実食。俺は少し緊張が走った。バレていないとは言え、晴陽の前で人間の肉を食べようとしているのだ。早く食べたいのに、一瞬の恐怖心で躊躇してしまう。
意を決してなんとかそれを口に運んでみる。
「……うまい」
一口、たったひとくちを口に入れただけで舌先を刺激するこの感覚。これも新しかった、塩コショウの味が肉の旨味を引き立てていた。肉とは、こんなに美味しかったのか……。
「味が分かるの!? 良かったじゃん!! 今の時代ってそんなに医学が進歩していたんだね、知らなかったよ」
晴陽は俺の症状が回復したと思い喜んでくれた。家族として当然の反応が俺は素直に嬉しかった、それと同時にこの肉が無くなれば、また味気ない日々が舞い戻ってくるのではないかという不安が脳裏を過っていた。そんなことはさせない。残りの血肉を消費しきる前に策を講じなければ。
しばらくは彼女の肉を喰らうことで、数日は我慢できた。さらに俺の生活に支障を来すことは起きなかった。俺の腹の中に納まった彼女は違う高校だから、幸いこの地域まで騒ぎになっていたりとはしなかった。さて、俺が考えていたのはあの味はどの人間からも同じ様に感じられるのか、という疑念だった。教室にいる生徒を一通り見回しながらどうにか味を試す方法はないかと思索に耽っていた。
「咲良さん」
俺は手頃な女子生徒に声を掛けた。すごく美人というわけではないが、クラスでは上位を誇ると噂の咲良さん。その名前が苗字なのか名前の部分なのかは分からないが。
「あ、榊くん。何か用?」
話しかけられたことに戸惑いを隠せない様子の咲良さん、文学系という見た目を裏切らない彼女なら、断ったりあらぬ誤解を生じさせることがないだろうと思ったからだ。
「突然ですまない。実は放課後、図書委員の仕事が入ったらしいんだ。時間は掛からないと思うけど図書室に行かなきゃいけないらしいから」
「あ、そうなの? ありがとうね、わざわざ」
「いや、これくらいなんでもないさ」
ああ、そうさ。何もないんだ。
俺は放課後になるのが楽しみで仕方が無かった。さすがに行動が早すぎるのではないかと、考えたがここまで来たら今さら後には引きづらいだろう。授業のことなど頭に入ってくるわけでもなく俺は早く新たな味を知りたいと、クリスマスプレゼントが待てない子供の様な歓喜に憂いていた。
HRも終わり気怠そうな生徒たちが集束するかのように下足箱へと向かっている最中、咲良さんは机に鞄を置きっぱなしでこちらへと歩み寄ってきた。
「図書室……だったよね? じゃ、行こっか」
「ああ、わかった」
普段から人と話すことをあまり得意としない咲良さんは俺の後ろを黙って着いてきている。このまま話をしないというのもつまらないので質問などを投げかけてみるか。
「咲良さんって、彼氏とかいるのか?」
「ふぇ!?」
俺の質問に戸惑いを隠せず、素っ頓狂な声を上げた咲良さん。微かに頬が赤く火照っており俺はその隙を逃さなかった。
「個人的すぎる質問だったな、すまない忘れてくれ」
「い、いないよ。そんな人は、今のところ」
俺は彼女がどうして戸惑いながらも、恥ずかしながらも応答してくれたのか心当たりがあった。以前から咲良さんは俺に好意を寄せているんじゃないかと思ってはいた。ただし、その時は彼女が既に居たから目もくれる暇が無かったのだ。
職員室から借りてきた図書室の鍵を使って扉を開ける。いつもは放課後まで解放しているのだが、今日は図書室の先生が出張しているため、あえなく閉館しているというわけだ。俺達は中に入り、俺は咲良さんに気付かれぬよう細心の注意を払ってこっそりと鍵を閉めた。これで誰も入ってくることは無い。
「ねえ、委員の仕事って具体的に……きゃっ」
俺は咲良さんを本棚に押し付け、暴れられないように体を密着させた。何が起こったのか分からず咲良さんは怯えながらも抵抗をしようとはしない。抵抗しても勝ち目が無いと、逆に何をされるか分からないと彼女は割り切っていたのだ。頭がそこそこいい女は扱いに困らなくて助かる。
「咲良さん……前から随分と俺の事を見ていたよね。その理由聞いてもいい?」
「だ、ダメだよ。榊くん、こんなところ誰かに見られたら」
俺の意図が分かったのか、怯えていてもほのかに体温が高い彼女の肌を感じながら、擦れる制服の布地と顔先で感じることが出来る息遣いに俺は手ごたえを覚えた。今しかない。
「え……ちょ、待って! まっ……んっ……」
これもまた味わったことのない感覚だった。初キスの時味わったものと別格の旨味が溢れ出てきた。咲良さんは体をビクつかせながらも抵抗の意志が無くなった事を示すように手をだらりと下げている。目は虚ろに、息はさらに荒く、俺の舌先と彼女の舌先を絡め合わせまるで互いを知ろうとしているかのように。
それから幾何の時間が過ぎただろうか。外を見ると日は消え入る寸前だった。
「知らなかった、意外とえっちなんだな。咲良さん」
「……ばか。でも、榊くんって彼女居たんじゃなかったの?」
シャツのボタンを閉めながら咲良さんは訝しんだ顔で俺の方を見る。さて、どう答えたものか。
「……もう随分前に別れた。一方的に別れを告げられたんだ」
「そう、なんだ」
俺の言っている事の半分は事実なのでどう顔を作ったがいいか分からず、ぎこちのない顔になってしまったが、それが逆に好感をもたれたように思えた。
日に日に俺の生活は音を立てることなど無かったが、しかし確かに崩れていくこととなった。彼女と接触したことが間違いだったと、そう思った。
数日たったある日、忘れかけていた恐るべきことが俺へと差し迫っていたのだ。
「朝早くにすみません。刑事の井各務という者です、少々お話させていただいても?」
格好を見ればおのずと理解はしていたが、いざ職柄を口に出して言われると、どうしても拭いきれない嫌悪感を外周に放ってしまう。これがドラマとかだった場合、勘で「こいつは怪しい、嘘を吐いている」などと言われてしまいそうなほど俺は、刑事と名乗った女性、井各務を凝視してしまう。
「……あの、何か?」
「いえ……朝早くから警察の方が来るなんて、何かあったのかと……」
さすがに刑事の勘とまではいかずとも、不審がられるに至らないようにするのが俺にとって精一杯の行為だった。それから刑事の井各務はタブレットと専用のペンを鞄から取り出して、俺に画面を見せてきた。
「彩翔ですね」
彼女が誰かと問う前に先に答えた。あくまでシラをきるつもりはないし、自然体で誤魔化すしかない。因みに彩翔は俺の彼女の名前で、俺の身体の一部となっている。
「……はい、そうです。数日ほど前から行方が分からなくなり、我々が現在調査しているところです」
とうとう警察が動き出したか。彼女の後ろにはもう一人、男の刑事が付いておりこちらはペンとメモ帳を握っていた。動きが拙い。新人なのだろうか。
「彩翔に何かあったんですか?」
そう尋ねた俺に、井各務は怪訝そうな表情を魅せて、だが虎視眈々とした口調で再度俺に向き直る。
「彩翔さんについて、ご存じではないのですか?」
彼女たちが言いたいことは尤もだろう。なにせ俺までたどり着いた、という事は俺が彼女の彼氏だった、という線で今目の前にいるのだろうから。俺の中での設定では既に別れていることになっているのだけど。
「俺が彼女と会ったのは恐らくそれよりも結構前だったですし、その時俺は彼女に別れを告げられたので」
「これは失礼しました。……すみませんが話を続けさせてもらいます。その後に彼女にあったりなんてのは……」
少しバツが悪そうにしながらもタブレットで俺が喋った内容を打ち込みながら質問をさらにしてくる。
「いえ。お互い通っている学校が違うので、会おうという意思が互いに無ければ会ったりなんて早々ないです」
これに至っては事実だ。確かに俺と彩翔が通っている高校は県内にはあるが、電車でも四駅分ほど乗り継ぎしないと会いに行けないほどの距離なのだ。頻繁に会ったりはそう簡単にできない。
「あの、それで彩翔に何かあったんですか?」
「失礼しました。先ほどの質問にまだ答えていませんでしたね、我々も現在調査中ですが全くと言っていいほど情報が少ないです。恐らくなんらかの事件性があると見て県庁では検討をするでしょう」
「そう、ですか」
「……。すみません、お時間をとらせてしまいました。今回は、これで失礼させていただきます」
そう言って井各務と後ろのお付が軽く一礼して振り向きざま、井各務が俺の方を一瞬、チラと窺ったので俺はそれに礼を返す。その際、彼女の髪の匂いなのかは分かりはしなかったが微かに覚えのある香りが俺の鼻孔へと伝ってきた。
「あの榊とかいう青年は、何も知らない様でしたね」
「そうですね。彼には辛い事実を伝えてしまったのかもしれません」
恐らくだが、あの井各務という女性はまた尋ねてくるだろう。もし彼女がベテランだった場合の話だが……いや、そうじゃなくても彼女が言った『今回は』という部分が既に次があるという明確な意思表示だったのかもしれない。
「お兄ちゃん、誰か来てたの?」
「いや、なんでもないよ」
俺は奇異そうな晴陽の背中を押してリビングへと踵を返した。薄々と感じてはいた現実が崩れ去る瞬間が差し迫っているのだと感じながらもどこか嬉々としている自分が居た事もまた事実だった。
「こんにちは、榊さん」
あれから何度か訪ねてきた井各務さんは、すっかり俺の演技に騙されて疑いの眼を向けることは無かった。なのにどうして今日もこうして訪ねてくるのか。
「余所余所しくしないで、名前で呼んでくれると嬉しいんですけど」
「い、一応です。いつ周りからどう見られているのか分かりませんので」
軽く微笑しながらも俺は井各務さんを家の中に上げる。彼女が一人でここへ通いだしてもう三度くらいあった。すっかり砕けた仲になりつつあり最早、刑事と容疑者という考えはお互いに喪失したのではないだろうか。
「今回もそうだけど、虹雨くんっていつも一人ですよね。ご家族は?」
リビングのソファーで腰かけた井各務さんは、俺から熱めの(彼女の好みだそうだ)緑茶を受け取りズズ、と一口飲むと心地の良さそうな顔をする。
「俺の事なら県庁のデータベースみたいので調べが付いているんじゃないんですか?」
「そんな頻繁にアクセスできるものなら、いちいち聞き込み調査で時間をとらなくて済むでしょうが。そうもいかないんですよ。職権乱用なんて出来るわけないじゃないですか」
はぁ、ため息を吐きながらも、机に置いたお茶をまた飲みだす。俺はキッチンから顔を覗かせながら、井各務さんに軽いつまみを作っている。
ネットで様々な知識を得て、晴陽にノウハウを教わり、ようやく人前に出しても恥ずかしくないくらいの味付けにはすることが出来た。ただ相変わらず味見をしてみても何も感じはしないが。
「今だって充分職権乱用しているじゃないですか」
「虹雨くんは、ときどき意地悪ですよね」
「冗談ですよ。因みに俺は弟と二人暮らしで、今日は何かのイベントとか言ってましたね」
唇を尖らせながらソファーに置いてあったクッションを膝の上に置いてそこに顔を埋めていた井各務さん。だが、俺がつまみ用に持ってきたバジル入りチーズスコーンに目を爛々と輝かせながら顔を上げる。
「ああ、もうっ! こんなの出されたらビールが欲しくなっちゃうじゃないですかぁ」
目の前につまみに目を輝かせながらも、ぐぬぅと悶えている井各務さんからは、もう刑事という印象が消えかかっていた。
「ビールなら冷蔵庫に冷えてますよ」
「そういえばぁ、どうしてビールなんて持ってるんれすかぁ? 未成年でしたよねぇ? 虹雨くん」
すっかり酔いどれ気分に浸っている彼女に俺は向かいの席でスコーンをつまみながら苦笑していた。どうやら酒癖はあまりいい方ではないらしい、まあそのほうが都合はいいんだが。
「井各務さんしか飲まないので問題はありませんよ」
「そうですかぁ? 他になにか問題がありそうですけどぉ、虹雨くんがぁ飲まないなら問題はありませんね~えへへ」
すっかり自分の成すべき職務を放棄して昼間から学生の家でビールを飲んでいる井各務さんだが、俺の狙いは別にあった。
「眠たくなってきましたぁ~。いけ、ません……まだ業務が残っ……て」
「いいですよ。お疲れでしょうから、少しくらい休んでも誰も咎めたりしませんよ」
俺は彼女の隣に座り、俺に身を預けるように頭を膝の上に乗せたかと思うと程なくして寝息が聞こえてきた。
「おやすみなさい。ひと時の幸せに酔いしれていて下さいね」
食糧捕獲っと。
「う……頭いた……。ここは?」
「目覚めるのが早かったですね。こんなに血生臭いとやっぱり眠りも浅くなるんですかね」
俺は解体包丁を片手に携えて長テーブルに置かれたハンマーや鋸の耐久を見ながら彼女に向き直った。
「虹雨くん……!? これは一体どういうことですか!!」
目の前に信じられない光景に流石の彼女も酔いが醒めたらしい、自分が拘束されていることに気付いた彼女はそれを解こうと揺さぶっている。
「初めて訪ねてきた時質問した本当の答えを言いましょう。彩翔を殺したのは俺です、証拠も死体もありません。全て俺の中に納まりました」
「あ」と、思い出したように俺は部屋を見回しながら言葉を続ける。
「補足ですがこの部屋、ビニールシートを張り巡らせていて分かりにくいでしょうが防音璧なので、叫んでも外に届くなんてことはありません」
この部屋はネットで歌い手もやっているらしい、晴陽が使っているレコーディングルームだ。ビニールシートの理由は血油で部屋が汚れないようにと充分に考慮してのことだ。
「殺しただけじゃなくて……食べた……? 人を? 嘘……で、しょう?」
信じられないモノを見る目をしている。だけど、俺にとってはそのすべてが愛おしくて仕方が無かった。
「俺は生まれつき味覚障害って言われてるんです。その症状のとおり、どんな食べ物からも味は感じない。あるのは触感と満腹感だけ。それだけならまだ我慢できた、出来た筈なんだ。あなたには一生分からないだろう、俺が作った料理を美味しそうに食べていたあなたの表情は実に羨ましかった。ビールなんてただただ気持ち悪くなるだけだ。それなのにあなたは満足そうにそれを飲んでいた! その味はいったいどんなものかっ!! 俺には知る術がない。知ることが出来ないんだよ」
これまでの人生、堪っていた鬱憤をさらけ出すように俺は言葉を続けた。その姿を決して理解できないであろう井各務さんはそれを真面目な顔をして聞いている。
「初めて味というものを知った。あの感覚を知ってしまったらもう戻れないんだ、失いたくない。五感が揃ったときのあの感動を消させない」
「人の肉を食べて……味を知ったというの?」
黙っていた彼女がそっと口を開いた。刺激しないように、刑事という培ってきた経験を振りまくように。その行為が俺は面白くて仕方が無かった。
「勘が良くて助かる。あと、そんなに怯えなくても大丈夫だ。……いや、無責任だったな。撤回しよう、大丈夫じゃない。俺はあなたが好きだ、だからあなたの味を知りたい」
好きになった人だからこそ、その味を知りたい。俺の生きる理由が正にそれだった。俺は恋愛という感情が濁り腐ってしまっていたのだ。
「そういう理由だったのですね……。愉快犯だったのならまだ同情しなくて助かったのですが、あなたみたいな不幸な人を私は深く胸に刻み込みます」
何を言っている?
そう思った瞬間、拘束されていた筈の井各務さんが立ち上がり腰に携えていたホルスターから拳銃を取り出し、銃口をこちらへ向けてきた。
「動かないでください」
何故?
脳裏を埋め尽くすほどの疑念が浮かび上がり、頭痛が走った。そうか、そういうことか。
「最初からずっと、俺を疑っていたのか。でも分からない、何故分かった?」
「咲良亜子という名前に聞き覚えがあるでしょう?」
何故その名前が出てくる!? わからない。何故、どうして。
「そういうことか……。どうりで同じ匂いなわけだ」
初めて会った時の帰り際、髪の匂いがどこかで嗅いだことのあるものだと思っていたがそういうことか。シャンプーが同じなんだ。
「咲良さんの……お姉さんだったとはな」
姓名が違うのは離婚か何かをしているからだろうか。いや、今はそんなことどうでもいいんだ。
「亜子を、返しなさい」
恐らくは咲良さんから俺の話を聞いていたのだろう。それで今回の容疑者である俺と名前が一致し、挙句妹までもが行方不明になっていれば自ずと正解までたどり着くのは妥当か。こんなこと、計算にすら入れられなかったな。
俺は井各務さんからは机が死角になって見えなかった図大袋からご要望のモノを取り出して机の上に置いた。
「っ!?」
それを見た途端、井各務さんの全身が凍りついたように動きが止まった。精神的にもきついだろうな、こんな姿を見てしまったら。
「咲良亜子。あなたが寝ている間に解体を終わらせたんだ」
そこに置いたのはかつて咲良亜子として生きていたであろう人物の頭部だった。再び頭部を持ち上げると、机と密接していた部分からミチャリ、と凝固しかけた血液が粘りを見せている。
「あ……亜子、いや、そんな。こんなことって…………」
構えていた銃をカタカタと震わせながら、妹の荒れ果てた姿に放心状態に陥りそうになる井各務さんだった。だが、すぐに目尻に涙を溜めながらもキッと俺を睨み付け銃を構え直した。
「好きになれば好きになるほど、その人の味を知りたくてしょうがなくなる……、その人の感覚を刻みたくてしょうがなくなる、その人を食べたくなる」
カチャリ……と僅かに引き金に指を掛けられたことがわかった。
「俺は呪われている」
その瞬間、左肩から全身に強烈な痛みが駆け巡った。反動で後方へ吹き飛び、血が飛散する。
「好きになりかけていた……。いえ、もう好きと言っても過言じゃないくらいに、あなたと居て私は楽しかった。ひと一人殺めていたとしても、私は好きになろうって思ってた。変わり果てた亜子を目にするまでは!!!」
一度引き金を引いた彼女は吹っ切れたのか本音を口にし出した。俺は肩を抑えながら痛みでショック死をしないように必死に歯を食いしばりながら立ち上がる。
「俺は今も好きだ。この気持ちは、どうすれば変えられるんだ……?」
俺は言い終わると同時に走り出した。咄嗟の事に素早く反応できなかった彼女は引き金を一発俺の膝に無駄撃ちしたのち、俺に押し倒される。
「死ぬ前に……、あなたの味を知りたい……好きな人になら、殺されても文句は言えない事を俺はたくさんやった……だから」
俺は彼女の唇に自分の口を重ねた。ああ、最期に相応しい……。
唇どうしが触れながら、井各務さんは一時だけ目を閉じて新たに涙を浮かべた。それが妹を失ったことによる悲しみだったのかはもう俺には分からない。ただ彼女の味を知ることで、俺の全身から力が抜け落ちていくとともに瞼も重く、視界が暗くなる。
「す……き……」
彼女が俺の耳元でそんな囁きをしてくれたことが俺にとって最高の人生だったかもしれない。
この事件は瞬く間に世に広がり、カニバリズムという言葉に専門家がニュースで討論したりなど、とにかく話題になったものだ。
事件の後、ネットで人気を誇っていた男の娘アイドル『春姫』がここ最近全く活動をしていなかったという件について騒がれていたが、榊家の冷凍庫に包まれていた肉が彼のDNAと一致したとのことだった。
そして一番世の謎に残ったのが、この惨劇を引き起こした殺人犯、榊が行方知れずになっていたことだった。捕まる寸前で逃亡したとのことだったが、飛散していた血の量を考えると生きているはずがないとの専門家による判断だったため警察は遺体探しの方向で捜索した。
いったい彼はどこへ消えたのか、未だ原因不明である。
家の玄関を開ける。
「ふぅ、今日も散々だったな~」
靴を脱ぎ、廊下を軽い足取りで歩き、灯りも付けず、リビングに鞄を置いたかと思うと徐にキッチンへと歩き出す。
暗闇の中、冷凍庫を開け、その動作に冷蔵庫自体からブーーンという音が場の静寂を支配する。
「ただいま、榊くん」
井各務はそう言って冷凍庫を閉めたのだった。




