中編 美しい毎日を貴方と
次で本当に完結です。ようやく完結作品が一つ増えます。地道に書き進めていこう。
「にゃ~はっはっはっはっ!!待ってましたよ、夜月せんぱ~い!!」
玄関の表門をくぐり抜けた直後、少女特有の甲高い大声が鼓膜を貫いた。まだ幼さを過分に残したソプラノの大音声がご近所中に響き渡る。なんて近所迷惑な奴だ。
頭蓋の中をキンキンと反響する声に顔を顰めつつ、目の前で腰に手を当ててふんぞり返る少女に呆れ顔を向ける。
「まーたお前か、天音」
夏空のように爽やかな蒼い髪をツインテールでまとめた美少女、昼賀谷 天音。今年入学したばかりの後輩で、生徒会メンバーの一人でもある。生徒会の力仕事要員になって以来、やけに絡んでくる小さな女の子だ。
「またお前かとはなんですか」と不満そうにふんと鼻を鳴らしたのも束の間、その表情が恐怖に引き攣る。「ひっ!?」と天音を後ずさらせた原因には心当たりがありすぎて、俺は一つ息を吐いて隣でビリビリと殺気を放つ女に視線を流す。
「……ねえ、天音ちゃん。私たち、今からお出かけするんだけど、何の用かな……?」
顔は、笑っている。誰が見てもこれは笑顔だと言うだろう。刃のように薄く細められた凶悪な双眸さえ直視しなければ。
なぜか、楓は天音をもっとも警戒しているようだ。俺と恋仲だと勘違いしたり、天音が意味深な停戦宣言をしたりしたこともあるのだろうが、他にも何か理由があるように見える。ゴゴゴゴと地響きを誘発させそうな気迫で天音を威嚇するその姿は、縄張りに侵入した外敵に対峙する雌獅子のようだ。
だが、対する子猫には何か秘策があるらしい。涙ながらにヒクヒクと表情を引き攣らせながらも、無理やり唇を釣り上げて不敵に笑ってみせる。
「にゃ、にゃは、にゃはははは!いいい、いつもいつもその恐ろしい眼力に負ける天音だと思ったら大間違いですよ、朝香先輩っ!」
「……?」
雌獅子が桜色のたてがみを揺らせて訝しげに首を傾げる。常ならば俺に何かちょっかいを出す度に楓の無言の圧力で蹴散らされる天音だが、今回ばかりは秘密兵器を準備してきたようだ。
「にゅふふふふ~。たしか、夜月先輩は“ワンオフ”の大ファンでしたよね~?」
通称“ワンオフ”―――正式なバンド名はONE OF ROCK。優れたドラムとベースと、何よりボーカルの耳に染み入るようなハスキーボイスが人々の心を魅了して止まない実力派バンドだ。今では全国ライブも行なっており、国内問わず海外でも評価は高い。かくいう俺も大ファンで、いつかはライブにも参加してみたいと思っている。
だけど、そのことを天音に教えた記憶はない。
「ああ。でもなんでお前が知ってるんだ?」
「趣味嗜好から考え方まで、天音は先輩のことをにゃ~んでも知ってるんですよ~」
まるでどこかの誰かみたいなことを言う奴だ。意味有りげな視線で隣の“どこかの誰か”に一瞥を向けると、「私だって何でも知ってるよ」と言わんばかりにこくこくと頷く。こいつらにとって俺の個人情報は知っていて当たり前のことらしい。日本国民にはプライバシー権という法的権利があったはずだが、気のせいだったようだ。
「今日こそは天音といっしょにデートしてもらいますよ!さあ、これをご覧にゃさ~い!」
デニムのポケットに手を突っ込むや否や、二枚の紙切れを突き出してくる。長方形の紙切れは何かのチケットらしい。目を細めて文字を読み取る。
「―――ONE OF ROCKライブチケットォ!?し、しかも限定特別席用のプレミアムチケットじゃねえか!?なんでそんなレアなものをお前が持ってんだ!?」
目を見開いて凝視する。何度見ても見間違いではない。正真正銘本物のプレミアムチケットだ。一回のライブでたった数十枚しか販売されないためネットでは定価の数倍で売り買いされるのも珍しくないそのチケットは、ワンオフファンなら喉から手が出るほど欲するお宝だ。
天音が得意満面の笑みでチケットを広げる。席は前部中央のVIP専用席。ライブの開催日時は今日の昼過ぎとなっている。開催地は隣県だが、今から電車に飛び乗ればライブスタートには十分間に合うだろう。
「私の実家がお金持ちなのは知ってますよね?ママの知り合いがイベントプロデュースの会社を経営してまして、その伝手で二枚だけ貰うことができたんです。さあ、どうします?こんな機会は二度とにゃいですよ~?」
「くっ、ブルジョワジーめ……!」
目の前でヒラヒラと揺れるチケットから目が離せない。まるで釣り餌に引き寄せられる魚になった気分だ。正直に言えば、ライブに行きたい。CDやPVといった媒体ではない、生の音を全身で味わいたい。同じワンオフファンたちと感情の融合を果たし、興奮の絶頂に至りたい。
―――だけど、今にも泣き出そうな顔で俺の横顔を見つめるバカ女を放っていくわけにはいかない。
行かないでと言いたげに服の裾をつまんでくる楓の額を軽く小突く。
「そんな顔するな、バカ。男に二言はない。今日はお前と、で、デートをする約束したんだからな」
「……うんっ!」
萎れていたヒマワリが一気に花開いたような笑顔が咲いた。ワンオフのライブを諦めるのは心底惜しいが、幸せそうな顔を見ているとまあいいかと思えてくるあたり、俺もこいつに相当毒され始めているようだ。
俺の一言一言でころころと変化する表情に愛おしさを覚えて胸が締め付けられる。その悩ましげな感情を咳一つで誤魔化し、唇を尖らせて俺たちを見上げる天音に謝罪の手を立てる。
「というわけだ。すまん、天音。せっかく誘ってくれたのに悪いんだが、今日は先約があるんだ。ライブには他の誰かと行ってくれ」
「そ、そんにゃあ」
「俺も行きたいのは山々なんだ。だけど、行けばお前はこれからずっと夜道を一人で歩けなくなるぞ。振り返ったら包丁持った女が目の前にいた、なんて洒落にならんだろ」
「え゛」
俺の意味深な台詞に思い当たるところがあったのか、ギギギと油の切れた機械のように頭を動かす。冷や汗を浮かべる天音と楓の視線がピタリと交差する。対する楓はまだ笑っている。数秒の見つめ合いの後、能面のような表情のない笑顔がニンマリと三日月型に微笑む。
「……ねえ、天音ちゃん。三味線の材料には何が使われてるか、知ってる?」
「ね、猫ですにゃ」
「正確にいうなら、若くて妊娠経験のない雌猫の皮がもっとも適した品質なんだって」
「へ、へぇ~。で、でも、どうしてそれを今私に言うんですか~……?」
「大した意味は無いよ。それより、」
引きつった顔でじりじりと楓から距離をとる天音に、楓がずいと距離を詰める。艶かしい動きで差し出された白い指先が天音のツインテールをさらりと掻き上げ、滑らかなうなじの肌を垣間見せる。
「天音ちゃんの皮―――ううん、お肌ってとっても綺麗だね。きっと誰が触ってもビックリするくらいの品質―――ううん、触り心地だと思うの。
……そう、思わない?」
天音の耳元で囁かれた声音は驚くほどに穏やかだった。激情のままに叫ばれるより、何の感情も篭っていない声音の方が遥かに恐ろしい。それが楓の声ならば、それはもう地獄の呻き声を足蹴にするほどの恐怖に違いない。
自業自得とは言え、あわあわと涙と汗を垂らしながら硬直する天音を見ているとさすがに気の毒になってきたので助け舟を出してやることにする。トラウマを植え付けられて対人恐怖症にでもなられたら困る。
背後にそっと忍び寄り、楓の髪をガシガシと乱暴に掻き撫でる。「きゃっ!?」と女の子らしい短い悲鳴を上げて動転している隙に、天音の退路を作る。
「まったく、どいつもこいつも世話が焼けるな。ほら、しっかりしろ天音。伝統和楽器の材料にされる前にさっさと逃げろ」
「ど、どどど、どうもありがとうございます、先輩。こ、今回ばかりはちょっぴり怖かったです。でも次こそは負けませんよ!」
「嘘つけ。気絶する寸前みたいな顔してたぞ。俺は楓一筋だって何回も言ってんのに、なんで諦めないんだ?」
俺の心からの疑問に、まだ血の気の戻らない唇でニヤと凛々しく笑ってみせる。楓もそうだが、こいつも時々「本当に年下なのか?」と疑いたくなるような奥行きと強さを持った表情を浮かべる。恋する女の子というのはこういうものなのだろうか。
「もちろん、トゥルーエンドを目指すためですよ。さいっこうのトゥルーエンドをね!」
「はあ?いったいどういう、」
「天音ちゃん、まだいたの……?」
「にゃわわっ!?そ、それじゃあ先輩方、また明日お会いしましょう!さらばだにゃ~っ!!」
言われなくてもスタコラサッサだぜぇ!とばかりにくるりと踵を返すと、華奢な体躯からは想像もつかない俊敏な動きでその場から立ち去る。靭やかな動きはまさに猫のようだ。
「きっとアイツの前世はネコだな。間違いない」
「もしくは熱心に部活やってた男かもな」
「―――えっ?」
ボソリとした低い呟きが聞こえた気がして振り返る。だけどそこには、せっせと手櫛で乱れた髪型を整える楓しかいない。
「今、何か言ったか?」
「ううん、私は何も言ってないよ?きっと気のせいだよ。変なタッちゃん!」
少しばかり納得がいかない気もするが、にっこりと純真そのものの微笑みを返されてはそれ以上の追求をする気にもなれない。どの道、こいつからは未だに聞いていない秘密も多いのだし、後々に全て聞けばいい。内心でそう結論づけ、歩を進める。
「ほら、行くぞ。昼になったらあのショッピングセンター混むんだからな」
「うん!」
今日は楓のショッピングに付き合うことになった。郊外にあるショッピングセンターは県内ではもっとも大規模で、食品からブランド品、果ては大型家具家電まで何でも揃うと評判だ。
「で、何を買うんだ?バスで行くんだから、あんまりでかいのはさすがに持てないぞ」
「大丈夫だよ、タッちゃんには選んでもらうだけだから」
「選ぶ?俺が何を選ぶんだ?」
「ふふ。それはね、」
相変わらず満面の笑みを浮かべる楓が俺の腕に寄り添ってくる。その動きに合わせて薄手のワンピースがふわりと空気を孕み、胸元を覗かせる。楓の身長は俺より拳一つ分低いから、上から見下ろすと華奢な鎖骨や胸元までバッチリ見えてしまう。マシュマロのような豊かな双丘と薄桃色の下着がチラリと見えて、我知らずゴクリと大きく喉が鳴る。朝のこともあって、普段よりも楓の“女”を意識してしまう。
唾を飲み込む音が聞こえたのかは定かではないが、抜け目の無いこいつのことだからきっとしっかり捉えたんだろう。ぎゅうっと胸を押し付けてくる扇情的な仕草がその証拠だ。
「今度、生徒会の夏合宿があるの。夕緋生徒会長が別荘を持ってて、そこで合宿をするんだよ。それでね、近くには海水浴場もあるから、お昼にはそこで遊ぼうって話があるの。でも、去年買った水着はもうサイズが合わないから着られないの」
温かい柔肉に腕が埋まる。水着のサイズが合わなくなった原因はこの豊満な胸のせいに違いない。ふかふかと柔らかくて、だけど押した力の分だけ押し返してくる絶妙な張りの肉を擦り付けられ、全神経が腕に集まったような錯覚を覚える。柔肉の奥の奥にある小さな心臓がトクトクと跳ねる律動すら伝わってくる。
ここに来てようやく、楓が俺に何を選ばせようとしているのか察しがついた。
「ま、まさか」
「そのまさかだよ。私の水着、タッちゃんに選んでほしいの」
「……俺が貝がらの水着選んだらどうするんだよ」
「あなたが選んでくれる水着なら、どんなに恥ずかしいものでも着てあげるよ」
濁りのない真っ直ぐな瞳からして、この言葉に嘘偽りはないに違いない。こいつはきっと俺がどんなに布地が少ない水着を選ぼうと喜んで着てみせるだろう。つまり、楓という最高の素材をキャンパスにして、俺の審美眼が試されるというわけだ。楓の魅力を引き出しつつ、他の男の目を惹き付け過ぎない程度の色気を保持する絶妙なバランスの水着を選ぶ審美眼が。
「ねえ、バスが来ちゃうよ。早く行こうよ」
「へいへい……」
楓に引きずられながらバス停へ歩を進める。その間もチラチラと楓の肢体を観察しながらどんな水着が似合うかをシミュレーションしていく。脳内の司令室では軍服を着込んだ小さなタツヒコたちが懸命に話し合いを重ねる。
「無難にワンピースタイプというのはどうであろうか」
「否、子供っぽくて浮いてしまうかもしれぬ。やはりビキニタイプが最善だと私は進言したい」
「ならぬ、それだと肌が露出しすぎるではないか。男が寄ってくる可能性大だ。ワンピースよりも布地が少なく、かつ肌の多くを隠すスイムウェアが相応しいと小官は愚考する」
「だがスク水そっくりのデザインは如何なものか」
「だからいいのではないか」
「「「衛兵、こいつをつまみ出せ!!」」」
スパイが紛れ込んでいたことによって話し合いは混迷に陥る一方で、答えに辿り着く気配は見られない。俺の苦悩をよそに、楓は相変わらず幸せそうに頬を緩ませている。
「どうしたの、タッちゃん。私の顔に何かついてる?」
「いや……スク水でもいいか?」
「タッちゃんが着て欲しいのなら、喜んで」
見事に衛兵を返り討ちにして司令室を占拠したスパイが頭上にガッツポーズが掲げる様子を幻視しつつ、俺はこれから襲い掛かるであろう心労の重みに肺の空気を絞り出した。
「ったく、世話が焼けるのはどっちだよ」
タツヒコと楓が寄り添いながらバス停へ歩いて行くのを物陰からこっそりと確認する。さっきは危なかった。本当に三味線の皮にされるかと思ったくらいに怖かった。楓は俺のことを完全にライバルだと思ってくれているようだ。思惑通りなのだが、面と向かっていると本能が警鐘を鳴らすくらい怖い。
「うう、思い出すと鳥肌が……。憎まれ役を買うってのも楽じゃないな。
つーか、早く電話に出ろよアイツら!」
苛立たしげに手元のスマフォを振り回す。
原作ゲームの楓攻略シナリオ通り、二人は郊外のショッピングセンターに向かうようだ。原作の流れから大きく逸れ始めているとはいえ、イベント発生時期や場所はそれほど変わっていないらしい。その一つであるデートイベントを実行することでタツヒコとの関係をより強くしようというのが楓の狙いだろう。ということで、そのイベントに乱入するべくすでに薫子とリンジーを先回りさせている。……先回りさせているはずなのだが、なぜか電話に出ない。
しばらくしてからかけ直そうと仕方なく発信中断ボタンに指を伸ばす。その瞬間に通話が繋がって、慌ててスマフォを耳に当てる。
『―――あ、センパイ。すんません、ちょっとナンパを回避してたら到着が遅くなっちゃったッス。もうすぐショッピングセンターに着くッスよ』
「なにやってんだよ。変装解いたのか?」
『俺は解いてないんスけど、リンジーが変装してなかったから……』
肌を思い切り露出させたパツ金美少女が男も連れずに歩いていたら、そりゃあ目をつけられるわな。こういうことがあるから気をつけろと教えたんだが、あのいなかっぺ大将にはいまいち通じていなかったらしい。
「……後でじっくり言い聞かせとくよ。楓たちがそっちに向かったぞ。適度に刺激してやってくれ。俺も遅れてそっちに行くから」
『イエッサー! あ、こら、リンジー!そっちは違うッス!フラフラしちゃダメッスよ!』
『お、オラこげなとごろ初めてで、き、緊張すんでな。都会はすんげぇとこだべ』
『だからそっちは道が―――』
ブツンと音を立ててそれきり通話が切れる。どいつもこいつも、本当に世話が焼ける奴らだ。やれやれと後ろ頭を掻きながらライブチケットのコピーをクシャクシャに丸める。タツヒコが楓よりライブを選ぶなんてありえないから最初から本物なんて用意する必要はない。もしも選んだら俺がぶん殴る。
道路脇のゴミ箱に向かって投げる。スコーンと小気味よい音が鳴った頃には俺は帽子とサングラスの変装を終えていた。うん、完璧な変装だ。
ゴミ箱を逸れて壁にあたったゴミを何気ない仕草で片づけ、俺はその場をそそくさと後にした。
「―――どこ―――いるの――タッちゃん―――」
「……楓?」
耳元でボソボソと呟かれる寝言は何だかとても切羽詰まっているように聞こえて、俺は隣でうたた寝を決め込むバカ女の肩を揺らす。
バスに乗り込んでから10分ほどした頃、コテンと肩に桜色の頭が乗っかってきた。そのままスヤスヤと穏やかな寝息を立て始める。どうやら初夏の暖かな日差しにノックアウトされたらしい。そういえば、俺が楓の前で眠ったことは多々あるが、楓が俺の前で寝顔を晒した記憶はあまりない。いつも俺が寝付くまで待っていたし、俺が起きる頃にはすでに目を覚ましていた。というか、俺の目を覚ましてくれていたのはいつもコイツだった。てっきり見られるのが嫌なくらいひどい寝顔なのかと邪推していたが、すうすうと胸を上下させる様子は“眠り姫”そのもので、その可憐さと新鮮さについ見蕩れてしまっていた。
その眠り姫は今、眉根を寄せて苦しげに俺の名を呼んでいる。強張った指先が何かを求めるように空を掻く。
「一人にしない、で―――はや、く―――手を―――」
「……ったく、」
美少女が苦しげに呻く様子に、他の乗客の視線がチラホラと集まってくる。痴漢とでも誤解されては大変だ。夢の中でくらい俺がいなくてもいいだろうに、こいつにはたまらなく不服らしい。これ以上疑念の視線が集中するのは恥ずかしいので、渋々手を握ってやることにする。
汗ばんだ手に手を重ねればピクリと瞼が震える。寝息は少し穏やかになったが、心許なさそうな眉根が元に戻る気配は見られない。こんなことをするのは非常に恥ずかしいのだが、仕方がない。
耳元に口を近づけると、押し殺した声でそっと囁く。
「俺はいつも隣にいるだろ、バカ女」
――――やめて
『ああ、よかった!目を覚ましたのね、■■■!本当によかった……!』
『心配したぞ、■■■!ここは病院だ。お前は車に撥ねられてから長い間意識不明だったんだ』
その名で呼ばないで
『ほら、しっかりしろ。眠っている間にユメでも見ていたのか?そんなものはもう見なくていい。目を覚ますんだ、■■■!』
今さら引き戻さないで。必死に忘れようとしてきたのに、もう放っておいて
『あなた、“俺には将来の目標があるんだ!”って頑張ってたでしょう?今からでも間に合うわよ。さあ、目を覚まして』
そんな夢、とっくの昔に諦めた。あの人と一緒になるには邪魔だから切り捨てた。今になって思い出させないで。お願いだから、私にはもう構わないで
『起きなさい、■■■。そっちの世界はニセモノだ。現実に戻りなさい』
『起きなさい、■■■。こっちの世界がホンモノよ。現実に戻るのよ』
イヤだ、やめて。イヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてややめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめて!!!
どこにいるの、タッちゃん!助けて!一人にしないで!早く私の手を掴んで!じゃないと、ワタシ――――
『俺はいつも隣にいるだろ、バカ女』
「……おはよう、タッちゃん」
「おはよう、じゃねえよ。自分から誘ったくせに居眠りするな。もうすぐ停留所に着くぞ。って、なんで泣くんだよ!?」
「えへへ。寝起きに見てもタッちゃんはカッコイイなって感動しちゃったの」
「~~~っ!ほ、ほら、さっさと涙拭け!」
そっぽを向いて、ハンカチを乱暴に突き出してくる。一見するとムッとした顰めっ面だけど、その頬は真っ赤に火照ってヒクヒクと引き攣っている。その下手くそな照れ隠しが心から愛おしくて、私はまた一筋の涙を落とす。
あなたは知らない。あなたが毎日、私を悪夢から助けてくれていることを。
毎朝、悪夢から目を覚ます度に飛び起きて、鏡を睨んで自分が朝香 楓であることを確認して、そしてあなたが存在することを確認しに走る。毎朝部屋まで起こしに行くのは、あなたのためじゃない。私が自分を保つために欠かせない儀式だから。
あなたは何時だって安らかな寝顔で私を待ってくれていて、起きたら真っ先に私の名前を呼んでくれる。子どものような寝ぼけ眼で「かえで」と呼んでくれる。私を安心させてくれる。だから私は、朝香 楓でいられるの。
「タッちゃんはいつだって私を助けてくれるヒーローなんだよ。だから好きなの」
「……わかったから、それ以上公衆の面前で惚気るのはやめてくれ。恥ずかしさで死にそうだ……」
周囲の乗客からクスクスと忍び笑いが聴こえるけど、私はまったく気にならない。この世界で本物はこの人だけ。私のとって何よりも大事なのはタツヒコだけ。他の取るに足らないモノがどうしようと興味は無い。
羞恥のあまり目元を覆って俯くタツヒコにぎゅっと抱きつく。胸が潰れて少し息苦しいけど、タツヒコの体温と息遣いを直に感じられるのだから気にはならない。この人が存在することを五感で実感できる喜びに比べれば、どんな痛みも苦しみも我慢できる。
首元に頬を押し付けてすうっと息を吸えば、嗅ぎ慣れた匂いが私の心に平穏をもたらす。
「ずっと一緒にいてね、タッちゃん」
「……さっきも言っただろ。俺はいつも隣にいる、このバカ女」
「うん、ありがとう」
人前で女の子に抱きつかれているからか、それとも私の胸が当たっているからか、タツヒコの顔は耳たぶまで真っ赤に燃えている。でも、どんなに恥ずかしくても私を無理やり引き剥がそうとはしない。私のしたいようにさせてくれる。その優しさが、私をさらに夢中にさせる。あなたと一緒になるためなら、前世で抱いていた夢なんて小さな小さな些事に過ぎないと思えるほどに。
「……ねえ、やっぱり首輪はダメ?」
「ダメだ」
「うん、わかった」
首輪はダメらしい。けっこう高かったんだけど、タッちゃんに常につけてもらうのは諦めるしかないみたい。今までどおり、眠ってる時にこっそりつけるだけで我慢しよう。
「まさか、眠ってる時にこっそりつけてたりしないよな?」
「―――――してない、よ?」
「……それもダメだぞ」
「……はい」
ざんねん。眠ってる時に出来るイタズラが一つ減っちゃった。
TS、幼馴染み、ヤンデレ、etc……。うわぁ、なんだか大変なキャラになっちゃったぞ。