前編 美しい毎日を貴方と
あの迷作『美しい変化を貴方に』が、ファンディスクになって帰ってきた!その名も『美しい毎日を貴方と』!メインヒロインとのラブラブな毎日をプレイして思いっきり壁を殴ろう!
初回限定版Aには特典として『ドキドキ☆楓の添い寝ドラマCD ~13時間あなたの耳元で囁き続けちゃう~』がついてくるぞ!ノイローゼになりたい方はぜひお近くのショップへGO!
もう一つの初回限定版Bには『ドキドキ♂フジノリの添い寝ドラマCD ~今夜は俺と相撲大会だ♂~』が付属するぞ!新しい世界に目覚めたい方は迷わず公衆便所へGO!!
両親が死んだという報せを聞いたのは、水泳部の優勝打ち上げの真っ最中だった。所属していた大学は半世紀の歴史を有していたが、日本選手権へ選手を送り込んだ経験は未だなかった。大学初の快挙に水泳部の主将として挑めるという輝かしい栄光と喜びは、電話一本で音を立てて崩れた。
「お兄ちゃんなんだから、弟と妹の面倒はちゃんと見るのよ」。ずっと昔に聞いた母親の言葉が耳元で囁かれた気がした。
それから、俺の人生は目まぐるしく動いた。当時、弟と妹は高校生で、家と車のローンも残されていた。頼れる財産も親類もいない。両親の生命保険の額も、奨学金で得られる援助もたかが知れている。
先輩の助言を受けて、まずは家も車も売っぱらってローンを全て返済した。そのまま大学を中退して、ちょうどよく営業マンを募集していた中小企業に就いた。後輩の伝手で狭いが格安のアパートに三人で住むことができたのは幸いだった。
そうして、毎朝1時間を要する自転車通勤を繰り返して必死に働く毎日を過ごした。弟と妹を食わせるために、しつこいと怒鳴られようが懸命に営業先の会社を訪ねて回った。取引先が呼べば、夜中だろうが遠く県外だろうがすぐに飛んだ。夜も眠らず、苦手だった酒も我慢して、営業先のお偉方に気に入られようと身体にムチを打ち続けた。主将をしていた経験が功を奏したのか、会社では後輩からの受けもよく、上司との関係も良好だった。
大学を中退して5年も経った頃には、弟と妹は無事に社会へと羽ばたいた。二人とも、兄の俺から見てもとても良い人間に育ってくれた。弟はベンチャー企業の若手として多いに活躍し、新聞記事にも載った。妹には将来を誓った婚約者が出来た。女の子と付き合う余裕もなかった俺の代わりに幸せそうに頬を染める妹の笑顔に、俺は苦労が報われた気分だった。目の前が涙で真っ白になり、次の瞬間にはなぜか真っ暗になった。
気付いたら、俺は病院のベッドに寝かされていた。極度の過労と不規則な生活による、悪性腫瘍―――要するにガンだった。しかも内臓の至る所に転移していて、治療には非常に長い年月と血を吐くような苦労と犠牲、何より多額の費用がかかると言われた。このままでは長くて一年だと医者に宣告された。
俺は、治療を拒否した。もう、全てに疲れ果てていた。ただただ、静かな時間が欲しかった。
本やテレビにも飽きてきた頃、弟が持ってきてくれたノートパソコンを通じて、俺はネットの世界と出会った。ネットは広大で、底なしに面白かった。画像サイトや動画サイトには未知の世界が大海原のように広がっていた。今までバカにしていたアニメにどっぷりとハマっていった。
その内、オタクだった後輩が『エロゲー』というゲームを持ってきてくれた。これがまた、足を踏み込めばとても奥の深い世界だった。単純なエロだけではなく、そこには練りに練られたストーリーが存在し、プレイヤーを引きこませる力に満ちていた。もはや自慰をすることも出来なくなった俺でも、十分に楽しめるものだった。
余命数ヶ月だというのにエロゲーに勤しむ病人など俺くらいのものだろうが、後輩はそんな俺を笑いながらお勧めのタイトルを何本も差し入れてくれた。「死ぬまでに全部クリアできねーよ」と笑ったのを今でも覚えている。後輩の悲しそうな笑顔に心が痛んだ。
結果として、全てを楽しむことはやはり出来なかった。
自分の息が段々と細く小さくなっていくのを自覚しながら、霞んだ視界に映る後輩と家族を静かに見渡す。
先輩や後輩たちが何かを叫んでいる。みんな自分の仕事の都合があっただろうに、駆けつけてくれたらしい。嬉しくて涙が出そうだ。
枕元には、走ったせいでスーツをシワだらけにした弟が見える。最近、会社が軌道に乗って上場も視野に入れだしたらしい。兄として誇らしい。
妹は婚約者を連れてきていた。誠実そうな青年に肩を抱かれている。妹が結婚式に来て欲しいと泣いているのが遠くに聞こえる。情けない兄貴ですまない。幸せになってくれ。
ピッピッという小刻みな電子音が、ゆっくりと間隔を開いていく。これはきっと俺の心拍だ。鼓動が低くなっていく。意識が朦朧として、思考が鈍くなっていく。
はぁ、と人生最後の息を吐き出す。
最期の最後で俺の脳裏に浮かんだのは、天国から手を降ってくる両親―――
―――ではなく、つい昨日までプレイしていたエロゲーのヒロイン、昼賀谷 天音だった。
「きっとアレが悪かったんだな。死ぬ間際にエロゲのことなんて考えるもんじゃねえってことだ。いい経験になった」
「死に際にそういうこと考えるのはセンパイだけッスよ」
うるせえ、と唇を尖らせて目の前の生徒会長―――夕緋 薫子を睨め上げる。背の高さも身体の起伏もこいつの方が遥かに優れているから常に俺は見上げる方になる。中身の残念具合は別だが。
「でも、センパイがどうして楓ちゃんを陰ながら応援したがるのか、理由がよくわかったッス。センパイは後輩が困っているのを見過ごせないんスよね。ホント、素直じゃないんスから」
「……うるせえ」
「あ、センパイ顔真っ赤になってるッスよ!可愛いっスねぇ。思わず撫で撫でしたくなっちゃうッス」
「うるせえうるせえ!抱っこすんなコラ!こんなことするためにここに来たんじゃねえだろうが!感づかれたらどうするんだ!」
「おっと、そうでした」
抱っこから解放されてひょいと地面に降り立つ。薫子も俺も、お互いに目深に被った帽子とサングラスで変装してはいるが、容姿が一際優れているからどんなに隠しても目立つことには変わりがない。騒げばすぐに人目についてしまう。それであいつらに気付かれでもしたら、作戦は水の泡だ。
二人が家から出てくるまでの暇潰しとして俺の前世の話をしてやったのだが、ニヨニヨと気持ちの悪い微笑みを向けてくる薫子を見ていると、しない方が良かったかもしれないと思えてくる。相変わらず変な笑顔のままの薫子から視線を外して路地角からそっと目標の家を監視する。『夜月家』のプレートが掲げられた家には、つい先ほど桃色の髪の少女が入っていったばかりだ。
「いいか。この日曜は生徒会の活動がないからタツヒコも楓もフリーだ。楓としては、二人きりになれる今日を使ってタツヒコともっと近づきたいと考えるに違いない。原作にもあったデートイベントの発生だ。だから俺たち三人はそれを妨害するフリをしつつ、互いの絆をより強くしてやるというわけだ。オーケー?」
「作戦はわかりましたけど、“三人”ってどういうことッスか?二人しかいませんよ?」
「心配すんな。もう一人呼んである。頼りになるかはわからん助っ人だがな。……ほら、噂をすれば来たぞ」
俺に促された薫子と共に遠くの坂に目を向ける。地平線のように見える坂の稜線から、ゆっくりとその少女が登ってくる。金色の髪はまさに朝焼けの太陽のようだ。黄金に輝く太陽は、俺たちに気づくと大きく手を振って駆けてくる。満面の笑顔までもまるで太陽のように眩しい。タンクトップとショートパンツという軽装は、彼女の健康的な肢体をこれでもかと見せつけている。貧相な身体の俺が殺意を覚えるほどに抜群のプロポーションを誇る肉付きは、薫子とはまた違った白人特有のスラリとした魅力を備えていた。今からハリウッドに殴りこんでも十分に活躍できる、白人のスーパー美少女だ。
リンジー・レッドスカイ。アメリカからの留学生で、この世界におけるヒロインの一人。そして当然のことながら―――
「いんや゛ぁ、遅くね゛って申しわげねぇ。ちいっと故郷のおがんと電話しでだら遅くなっちまっただぁ。オラっでばいづもこんなんでな。許してけろ!」
「「………」」
前世は俺たちと同じ、男だ。
「ねえ、タッちゃん。もう9時だよ。起きようよ」
「……今日は日曜だろ。祝福されるべき自由の日だ。いつまで寝ようが俺の勝手だ」
ゆさゆさと肩を揺すってくる楓から逃れるように布団を頭の上まで引っ張り上げる。すっぽりと頭を覆い隠せば、外界との繋がりは俺のフトンシールドによって完全に絶たれた。最近は女子ばかりの生徒会の力仕事要員として早朝やら放課後やらもこき使われて忙しいのだ。ようやく予定のない休日を得られたのだし、初夏のポカポカとした陽気は睡眠に打って付けだ。一日中惰眠を貪ってもバチは当たるまい。
「そんなのもったいないよ。今日は風が涼しくていいお天気だよ。私と一緒にどこかに遊びに行こう」
「俺とばっかりじゃなくて、たまには友だちと行けばいいじゃないか」
「ダメだよ。その間にタッちゃんが盗られちゃったらどうするの?」
「盗られねーよ……」
あの日に楓が言った通り、この数ヶ月で俺の周囲にはやけに女の子が増えた。しかも、とびっきりの美少女や美女たちが。転校や留学をしてきたばかりの女の子までなぜか積極的に迫ってくる始末だ。おそらく、彼女たちが天音の言っていた“ヒロイン”たちなんだろう。フジノリ曰く「友人でなければ殺してる」くらいに羨ましがられる状況となっている。過去の俺でも妬ましく思ったに違いない。だが、今現在の俺にしてみれば迷惑極まりない話だ。俺にはすでに将来を誓い合ったバカ女がいるからだ。ご覧のとおり、極度の心配性のバカ女が。
「タッちゃんを信用してないわけじゃないよ。でもね、他の奴らは私より可愛いかったり、頭も良かったり、スタイルも良かったり、性格も良かったり、お金持ちだったり、お上品だったり、経験豊富だったりするの。悔しいけど、マトモに戦ってもとても勝てない。だから、いつもタッちゃんの手を握ってないと不安なの。盗られちゃったらどうしようって怖くて仕方ないの」
楓が他の女の子よりも劣っているとは微塵も思わない。楓を含めた女の子たちはそれぞれ違った魅力を持っていて、印象はまるで違う。例えば、天音には天音の、楓には楓だけの可愛らしさがあるのだ。だから「負けてしまう」という楓の心配は杞憂に過ぎないのだが、当人は心配で心配でたまらないらしい。
「……そんなに不安ならいっそのこと俺に首輪でもつけたらどうだ」
「一応、人間用のは買ってあるよ。押入れの中に隠してるの。タッちゃんにつけてもいいって許してくれるならすぐ持ってくるけど」
「うわー、なんだか凄く眠いぞぉ。眠気のせいで俺には何も聞こえなかったぜ残念だなー」
とてつもなく恐ろしい台詞が聞こえた気がしたが、頭から被った布団が俺の心身を護ってくれた。ありがとうフトンシールド。今日一日よろしく頼む。
「首輪はイヤ?」
「嫌がらないと思った理由を教えて欲しいくらいだよバカ。心配しなくても、俺は約束を破る男じゃない。他の女の子にはなびかない」
「でも……」
「俺には思いつかないが、何か証拠が欲しいのなら何でもくれてやるよ。だからもう寝かせてくれ。頼むから」
安らかな眠りを妨害されたことで少し苛立ってきた。く、唇を重ねた間柄だというのに未だに他の女の子に心移りすることに怯える楓にも苛立ちが募って、つい乱暴な言葉を返してしまう。繰り返すようだが、俺は楓以外の女の子に心変わりする気は毛頭ないのだ。誓約書を書いて欲しいと言われれば血判を押して突き返してやる。
「―――何でも?本当に?本当に何でもくれるの?」
「……うん?」
なぜだか、布団の外で楓の気配がじわりと変化した気がする。羊だと思って油断していたら突然皮を脱ぎ捨てて中から狼が出てきた感覚というべきか。困惑する前に本能が殺気を感じ、肌をゾワリと泡立たせて全身の筋肉を緊張させる。
「あの日からずっと考えてたんだけど、」
「あ、ああ」
“あの日”というのは、俺たちが公園で互いの気持ちを伝え合った日のことだろう。それから何ヶ月も考えるようなこととは一体なんだ?
想像も及ばないことを言われて混乱する俺の背中を、触れるか触れないかという絶妙な手付きで楓の手の平が流れていく。こそばゆさと気持ちよさの間を行ったり来たりするサワサワとした奇妙な感覚に、腰の辺りがゾクゾクと痙攣する。
「女の子には、出産適齢期っていうのがあるの。それが何歳までか、タッちゃんは知ってる?」
「い、いえ。存じ上げませんが……」
いつものおっとりとした楓の口調とはかけ離れた蠱惑的な問いかけに言いようのない圧力を覚え、我知らず敬語で応えてしまう。とても17歳の少女のものとは思えないそれは、男心を熟知した“女の声”そのものだ。
「普通はね、30歳までって言われてるの。30代に近づくに連れて、妊娠もしにくくなるし、病気になる確率もぐっと上がるし、流産しちゃう可能性も高くなっちゃうんだよ。何の心配もせずに赤ちゃんを産めるのは23歳までなんだって」
喉を鳴らす猫のような艶っぽい声音と共に、布団の中に楓の手が侵入してくる。ひやりとした指先に首筋をつぅっとなぞられ、思わず「うっ」と小さな呻き声が漏れる。
「11人」
いつの間に迫ったのか、薄いタオルケットを介してすぐ耳元で楓が囁く。熱っぽい息吹に心臓が激しく跳ね上がる。
「か、楓、さん?」
「ねえ、タッちゃん。私、せっかく授かったあなたとの子どもを流産しちゃうなんて絶対に嫌なの。だったら、安全な時期から作り始めるべきだと思わない?」
しゅるり、と微かな衣擦れの音が鼓膜に滑りこむ。そんな音を立てられたせいで、フトンシールドの外で楓が何をしているのかを想像してしまった。鳴り止まない“何かを脱ぐような音”に、ドクドクと心臓が高鳴り、肺が大きく収縮する。手の平もじっとりと汗ばんでいる。当然のように眠気は吹っ飛び、ドロドロのマグマのような本能が下腹部でのたうち回っている。
「今日ね、オジサンもオバサンも朝からお買い物に出かけてるんだよ。夕方まで帰らないんだって」
「へ、へえ。ぼく初耳だなぁ」
「私がお買い物券をプレゼントしてあげたの。偶然手に入れた、県外の大型デパートのお買い物券。有効期限は今日までだったんだけど、そのことをすっかり忘れちゃってたの。でも、タイミングの悪いことに今日はそのお店の近くで地元のお祭があって、きっと物凄く混雑すると思う。渋滞に巻き込まれちゃうかもしれない。そうなったら、二人が帰ってくるのは夜中になるかも」
内堀も外堀も埋められた大阪城の主はまさに今のような心境だったのかもしれない。絶望的な籠城戦を強いられているこの状況はまさに『タツヒコ夏の陣』だ。あれほど頼もしく思えていたフトンシールドのなんと薄っぺらいことか。
衣擦れの音がピタリと止まった。それはつまり、もう脱ぐものがないということなのか。瞼の裏に一糸まとわぬ楓の姿が想像され、眼球が血走るのを知覚する。長い年月と細心の注意を払って俺のために整えられた、未だ誰にも許したことのない美少女の裸体―――。
「待て、落ち着け。いいから落ち着け。そうだ、二人で素数を数えよう。な?」
「1と自分の数でしか割れない孤独な数字なんて数えなくても、私はもう勇気いっぱいだよ。ほら、タッちゃんこそ勇気を出して。布団から出て、私を見て」
そっと布団をめくられる。い、いかん。このままでは俺の理性がもたない。たしかに将来的には、その、まあ、したいとは思ってはいるが、まだ早い。互いにもう少し成熟してからすべきだし、俺も責任をとれるようにいっぱしの男になってからの方がいいと思うし、だから、だから―――!!
「わかった!ギブ!ギブアップだ!今日一日付き合う!一緒に遊びに行ってやる!だから服を着て―――――………おい」
チラと指の隙間から楓を覗き見て、愕然と口を開く。そこに広がっているはずの純白の肌はなく、布団を被る前と少しも変わらないワンピース姿の楓が俺に覆いかぶさっていた。
俺が眉をひそめて楓を射抜くと、人懐っこい微笑みをほんの少し紅く染めて握ったハンカチを擦り合わせる。しゅるりと衣擦れの音がして、俺は全てを悟る。
「……謀りやがったな、アメノウズメめ」
「えへへ。期待してくれた?」
「男心を弄んだこの代償はいつかきっちり払ってもらうからな」
「うん、楽しみにしてるよ。天照大神さん」
にっこりと満面の花を咲かせる楓に一つため息を吐き、俺はフトンシールドを解除した。今日もまた、忙しい日になりそうだ。
なぜか初回限定版Bが大量に売れ残っています。食わず嫌いはよくないね♂