後編 これからは偽りなく
これで短編SSは一応の終わりです。短編ということで詰め込み過ぎというか荒削りというか、まだまだ改良の余地がありそうですが、今の僕ではこれが限界です。また成長をした時に、じっくり練りなおしてみたいです。
厳密には花ではないですが、植物の楓にも花言葉があるそうです。花言葉は、『自制・大切な思い出・遠慮・美しい変化』。タイトル原案を考えて下さった悦さんの優れたセンスには感服です。ありがとうございました!
「……タッちゃん?」
「ったく。やっぱり俺だって気付いてなかったな」
呆けた楓の声に、はぁと一度深く息をつく。そのまま何度が深呼吸をして呼吸を平常に戻す。急いで追いかけてきたから汗だくになってしまった。楓がこんなに足が速かったなんて知らなかった。生徒会じゃなくて陸上部にでも入れば多いに活躍できるだろうに。
抱きしめた相手が俺だとわかって安心したのか、腕の中の震えが少しずつ収まっていく。よっぽど怖かったんだろう、楓は俺の胸に顔を埋めたままひくひくと喉を詰まらせて泣いている。ブランコの鎖を握り締める手も真っ白に血の気が失せていて痛々しい。こんなに怯えるくらいなら人気のない公園なんかに来なければいいのに、なぜわざわざここを選んだのやら。
ふるふると小動物のように震える楓の背中に手を置き、優しく撫でてやる。
「なあ、お前さ、ついこの間だって気持ち悪い変質者に付きまとわれてもニコニコしながら相手してなかったか?あの時だって、俺が駆けつけなかったらどうなってたかわかんないんだぞ。あれは怖くなかったのかよ?」
「……怖かったよ。変なことされたらどうしようって気が気じゃなかった。でもすぐにタッちゃんが助けに来るってわかってたから頑張って我慢してたの」
「お前なぁ……」
目眩がしそうだ。こいつは俺の心を自身に繋ぎ止めるために、自分が危険に晒されても抵抗も逃げもせずに笑顔を貼り付けてじっと堪えていたらしい。俺が変質者や質の悪いナンパから助けてやったのは10回や20回なんてものじゃない。間一髪のタイミングだったことも数知れない。楓を助ける度に冷や汗をかいていたのは俺だけだと思っていたが、実際は楓の方が何倍も恐怖を感じていたのだ。
そこまでして俺に好かれようとしていた楓の根性にも呆れるが、それに10年以上気が付かなかった自分自身にも呆れて物も言えない。
「……嫌いになった、よね」
「だ、か、ら。どうしてお前はそうやって一人で勝手に思いつめるんだ。誰もそんなこと言ってないだろうが」
「だって、嫌いにならない方がおかしいよ。私、ずっとタッちゃんのこと騙してたんだよ?純粋で天真爛漫な女の子なんかじゃない。本当は、計算高くて独占欲強くて嫉妬深くて、笑顔の裏ではどんな表情を浮かべて何を考えてるか、自分にだってわかってない怖い人間なんだよ」
「そこまで言うか」
「言うよ。だって本当のことだもん。もう、元の自分がどんな人間だったのかも思い出せないの。何日も何週間も何ヶ月も何年も、夜月 龍彦に愛される朝香 楓を休むことなく延々と演じていたら、どんどん前の自分が塗り潰されていったの。怖くてたまらなかった。今まで積み重ねてきた自分が消えて行くのが悲しくて仕方がなかった。でもあなたと離れたら一人で生きていける自信がなかったから、そんなことに構ってられなかった。あなたと一緒にいれば寂しくないから、前の自分なんてどうでもいいって切り捨てた。……そうしたら、いつの間にか上っ面だけの人間になっちゃってた」
未だ俺の胸に顔を埋めている楓の表情は読み取れない。だけど、そのくぐもった小さな声は暗く沈みきっていて、表情を容易に想像できる。
「……どうして、そんなに俺を想ってくれるんだ。俺にそこまでする価値なんてない。俺みたいなどこにでもいる平凡な男、見渡せば幾らでも見つかる。お前なら、俺よりもずっとマシな男が向こうから花束持ってやって来る」
クスリと胸元で笑みが溢れる。真っ白に変色した手が鎖を離れ、雪のように冷たい指先で頬をなぞってくる。ここに俺がいることを確かめるような手付きだ。
「タッちゃんが知らないだけだよ。あなたはこの世界の中心。この世界を支える柱。他の誰にも、あなたの代わりは出来ない。だって、タッちゃんはこの世界でたった一人の主人公さんだもの」
「……意味がわからん」
「そう思ってるのは私だけだから。理解しているのも私だけ。あなたを求める理由はそれだけで十分なの。もちろん、愛した理由はそれだけじゃないけど。―――でも、だからこそ、あなたの負担にはなりたくない」
突然強められた語尾と共に、胸板をぐいと押し返される。ようやく目にした楓の顔は、こちらの胸が痛くなるような悲壮な笑顔が貼り付けられていた。楓の言う通りだ。この笑顔の裏には別の顔が潜んでいる。泣き虫の楓が隠れている。
わざわざ走って追いかけてきてやったのに、まだこんな顔を向けてくる楓に苛立ちが湧いて拳を握り締める。
「ほら、何してるの。早く天音ちゃんのところに戻ってあげないと、嫌われちゃうよ?」
「まだそんなこと言ってんのか、このバカ!まだ俺の気持ちも聞いてないくせに勝手に決め付けんな!あの子とはさっきが初対面だし、俺はお前のことを嫌ってなんかない!むしろ好きなんだよ!!」
「うん、ありがとう。でも無理しなくていいんだよ。こんな汚い人間と一緒にいたいなんて思う人、いるわけないもの。
ねえ、天音ちゃんってすっごくイイ娘なんだよ。普段はワガママだけど、仲良くなったら尽くしてくれちゃうタイプなの。なんと、お父さんは大手貿易会社の社長なんだよ。スゴイよね」
なんでそこまで詳しいんだ。まさか、俺に近づく女の子を逐一調査していたとでもいうのだろうか。このバカ女ならやりそうだ。
絶句している俺をぐいぐいと遠のけながら、笑みの形をした仮面を被って続ける。
「来てくれてありがとう。嬉しかったよ。本当に嬉しかった。嘘じゃない。この喜びだけでこれからしばらく生きていけるってくらい。さあ、行って。早く行ってあげて。お願いだから。さもないと、私、またあなたを求めちゃう。今度は包丁持ちだしてあなたを殺して自分も後を追っちゃうよ。これも嘘じゃない。あはは、私ってばどこまでも救いようがないんだから」
「……ああ、ホントにその通りだな。このバカ女」
こいつがここまで分からず屋だったとは思わなかった。「好きだ」と正直に伝えても、自棄になっているこいつの心には届かない。どうすればいい?どうすれば、楓に俺の気持ちを伝えられる?どうすれば、今にも消え入りそうな表情で俺を押しのけてくる楓を、いつもの優しい微笑みに戻せる?
予想以上の力で再び胸板を押され、思わず一歩後ずさる。後退した足が砂場に食い込み、足元にあった砂の城を思い切り踏んづけた。いつか作ったことのある、砂の城―――。
『 今日こそ砂場にオレのでっかい城をつくるんだ。完成したらかえでもいっしょに住まわせてやるよ 』
『 ……うん、ごめんね、タッちゃん。私もおてつだいするよ。だから、いっしょに住まわせて。ずっといっしょにいて 』
「―――あの時から、だったのか」
フラッシュバックした記憶の中で、楓が俺の手を握り返す。あの日、落ち込んでいた楓を元気づけてやろうとした俺の手を取った瞬間から、楓は自分を偽ることを始めたんだ。過去の俺も、「いっしょに住もう」だなんて告白まがいのことをよくもまぁ臆面もなく言えたものだ。我ながら恥ずかしい。それを真に受けて自己改造を始めてしまった楓も楓だが。
こいつがどうしてこの公園に逃げ込んだのか、ようやくわかった。ここには、俺と楓の城が建っていたんだ。幼い頃に二人で一緒に住もうと誓った、五階建ての立派な城が。
一度思い出の欠片が蘇れば、芋づる式に他の記憶も引き出されていく。まだ空気の冷たい朝、バケツやスコップをかき集めて下手くそな歌を口ずさみながら公園に出かけた。太陽が天辺に昇った昼、母さんたちの持ってきた差し入れのおにぎりを口に放り込み、まだ食べ終わってない楓の手を強引に引っ張って砂場に戻った。そして、空が夕焼けと藍色のグラデーションに染まった頃、ようやく完成した自分の背丈ほどもある城を二人で前にして、泥だらけになった俺が部屋割りを決めていく。
「……“リビングは一階全部使って、二階はキッチンと客が来たときのための部屋。三階は父さんと母さんの部屋で、四階は楓の部屋にしていい。でも一番上の五階は俺の部屋だ。一人じゃ怖くて眠れない時は、俺の布団で寝てもいい”……」
「……!!」
楓が息を呑んで口を覆った。この様子だと、こいつもしっかり覚えていたらしい。俺が忘れてしまった間もずっと心の中に大切に仕舞い込んで、いつか必ず実現するものだと信じて。その一途さに胸が強く締め付けられる。
「やめてよ。なんで今さら思い出しちゃうの?せっかく頑張って諦めようとしてるのに、そんなイジワルしないでよ」
「勝手に諦めんな、バカ。いいから、さっさと作るぞ。あの時の城はまだ未完成だったんだから」
「……未完成?」
涙に濡れた瞳をキョトンと見開いて呆然とする楓をよそに、近くに放り捨てられてたバケツを拾い上げる。昼夜の温度差で湿った砂をバケツにドサドサと流し込んで上から何度も叩いて固めていく。バケツの形に圧縮された砂の塊を砂場の中心にひっくり返し、基礎を作る。十分な強度を持っていることを確認したら、またバケツに砂を流し込む作業を繰り返す。小さかった頃はこれだけの作業にもたくさんの時間を要していたが、今ならたった数十秒で済む。
学生服が泥と汗で汚れるのも顧みずにひたすら積み重ねていけば、あっという間に腰の高さまでの城が完成した。額に浮かんだ汗を裾で乱暴に拭って一歩引いて俯瞰すれば、突貫工事で造ったわりにはなかなか良い出来の城が砂場にそびえていた。出来栄えに「うむ」と一度大きく頷き、パンパンと手を叩いて砂をはたき落とす。
「こら、なにボサっとしてんだ。早くこっちに来いよ」
「う、うん」
何が何やらわからないといった面持ちの楓を呼び寄せ、城の前に立たせる。肩を並べ立つ様はまるであの日のようだ。
「どうだ、いい出来だろ?これから部屋割りを決めるんだ」
「……でも、これ六階ある。一層多いよ」
楓の言うとおり、今回の城は六階建てだ。これは別に、俺が勢い余って増築してしまったわけじゃない。ちゃんとした理由があるのだ。口に出すのがかなり憚られる、言ってしまえば直ぐ様穴を掘って入りたくなるような理由が。
「これでいいんだ。あの時の俺は将来設計が足りなかったんだ。三階までは前回と同じで、リビングとキッチンと客間と父さん母さんたちの部屋だ。四階からは違う」
「ッ。や、やっぱり、そうだよね」
「早とちりすんな。そういうことじゃない」
自分の部屋だったはずの四階がなくなったことに狼狽して蹌踉めく楓の頭を軽く小突き、一つ咳払いをして喉の調子を整える。声が緊張で裏返るのを防ぐために「あーあー」と発声をしておくのも忘れてはいけない。声帯の準備が終われば、後は覚悟を決めるだけだ。いや、本当なら「一緒に住もう」と言ったあの日に、すでに覚悟を決めておかなければならなかったんだ。事実、楓は覚悟を決めていたのだから。
「いいか、よく聞けよ。一回しか言わないからな。絶対に一回しか言わないぞ。聞き漏らしたって知らないからな。心して聞けよ。俺だって覚悟決めたんだからな」
「は、はい」
真正面から楓に向き合い、不安に揺れる瞳をじっと見つめる。
男に二言はない。例えどんなに小さかった頃の何気ない一言だったとしても、必ず護るのが本当の男というものだ。ましてや―――それが求婚の言葉だったのなら、なおさらだ。
大きく息を吸い込み、腹底に溜めた気合に着火させる。爆発の勢いに乗せて決意を叫ぶ。
「よ、四階は、こ、こココこ、子どもべ、ビャ、こじょもべや、だ!チクショウ!噛んだじゃねぇか!!」
「……あの、よく聞こえなかったんだけど……」
「わぁってるよ!俺たちの子どものための部屋だって言いたかったんだよ!もう一回だけ言ってやるから耳かっぽじって―――……あっ、」
ああ、なんて締まりのない告白なんだ。よりにもよって、今この時に言葉を支えてしまうなんて格好が付かないにもほどがある。しかも言い直す前に口を滑らせてしまうとは、これはもう末代までの恥だ。
恐る恐る楓の表情を覗えば、ポカンと放心して硬直している。おかしい、感動のあまり抱きついてくる想定をしていたのに。ダサすぎる失敗に幻滅したのかもしれない。百年の恋も冷めるとはこのことだ。そうだ、穴を掘ろう。穴を掘ってそこに住むんだ。もうそれしかない。
「五階と六階は?」
「へ?」
俺が地面に穴を掘ろうとしゃがみこむ寸前、囁くような問いかけがされた。爽やかな風のように澄んだ、いつもの楓の声だ。その心地よい声音にハッとして振り返れば、口元を緩ませた美少女が砂の城を愛おしげに眺めていた。
「だから、五階と六階の部屋のこと。私、まだ聞いてないよ?」
「……五階がお前で、六階が俺だ」
「一人で寝るのが怖くなったら?」
「俺の布団で寝てもいい」
飴細工のように繊細な指先が、宝物を愛でるように六階部分をそっとなぞる。月光に照らされた女神のような横顔は、最高の幸せに満ちているように見えた。
「ねえ、私の案も聞いてもらっていいかな?」
「……まあ、聞いてやらんでもない」
微笑む頬をほんのりと紅く染めて、楓が四階と五階を指差す。
「四階と五階が子ども部屋で、六階が私とタッちゃんの部屋なんて、どうかな?」
「……何人産む気だ、お前」
「えーっと、サッカーチームを作られるくらい?」
「作りすぎだバカ!」
「大丈夫だよ。私、けっこう丈夫だもん」
「俺の身がもたないって言ってんだよ!!」
「あはは、タッちゃんったら甲斐性がないんだから!」
俺の激しい抗議にケラケラと大笑する。まるで少年のように、腹の底から笑い声を吐き出して身体をくの字に曲げる。眦から涙が浮かんでは零れて、月光を吸い込んだ雫が砂の城を彩ってゆく。白銀に煌めく涙にはたくさんの感情が込められている気がして、俺は憮然としながらも腹を抱えて笑う楓を見守ってやることにした。
「……ん?」
不意に、視界の隅に見慣れない何かが映り込んだ。公園の入口付近に、抜けるような蒼色の何かが覗いたように見えたのだ。俺がそちらに目を向けた瞬間、蒼い何かはさっと影に消えた。見間違えだろうか?そういえば、蒼い色と言えば、何か大事な話があった気がする。蒼色―――蒼い髪―――蒼い髪の女の子―――。
「ああ、忘れてた。天音って女の子からお前に言伝があったんだ。これを伝えればきっと落ち着くってな」
「え?私に?昼賀谷 天音から?」
心底意外だったのか、笑いをピタリと止めて目を点にする。この二人がどういう関係なのかいまいちよくわからないが、互いに何か思うところがあるらしい。
「あー、たしかこんなだったな。『ヒロインが全員集まるまでは停戦にしてあげます』とかなんとか。わけのわからん言付けをさせたり、いきなり男みたいな口調になるかと思えば間延びした可愛い口調になったり、変な女の子だった」
「――――――――ふぅん」
一瞬だけ自失を終えた後、「そういうことか」と針先のような声で呟く。途端、すぅっと楓からあらゆる興奮の気配が消え失せた。代わりに湧き上がってきたのは、白炎のような静かな闘志だ。口端をニヤと釣り上げた薄い笑みはまったく楓らしくなくて、なぜかとてもよく似合っている。歴戦の兵士を目前にしているような錯覚さえしてくる。
唖然と口を開ける俺の視線に気付いた楓が照れくさそうに苦笑を返す。目元の涙を拭えば、いつもの人懐っこい表情がそこにあった。
「ありがとう。おかげですっかり落ち着けたよ」
「あ、ああ。それはよかった」
たしかに落ち着いたようだが、落ち着き払った老兵のようになるのは如何なものか。
「それはいいとしよう。で、さっきの言付けはどういう意味なんだ?」
“ヒロイン”などと可愛らしい言葉が出てくるかと思えば、“停戦”などという物騒な単語も添えられている。俺に理解できたのは、楓のライバルとなる女の子はあの天音という後輩だけではないということ―――要するに、厄介事はまだまだ続きそうだということだ。
片眉を上げて首を傾げた俺に、楓は再び苦笑を浮かべてはぐらかす。
「女の子同士の秘密ってことで、許してもらえないかな?」
「……まあ、いい。嫌な予感がして怖いから深くは聞かないことにするさ。ヒロインだか何だかは知らんが、極力俺に火の粉が降りかからないようにしてくれりゃ、それでいい」
「ううん。火の粉どころか火炎放射器に四方八方から狙われちゃうことになるんだよ」
「おいっ」
「ふふ。大丈夫だよ、安心して」
クスリと一つ忍び笑いを零し、艶然と頬を綻ばせる。そのまま白魚のような繊手がふわりと両頬を包んでくる。しっとりとした柔肌は今まで触れてきたあらゆる物質に勝る心地良さだった。思わずとろんと顔を緩ませた俺を見て、楓の目が艶っぽく細められる。同い年のくせに、その微笑みは年上の威厳と余裕を感じさせる奥行きを秘めているように見えた。
「安心して。他の奴らに焼かれちゃう前に、私があなたを黒焦げにしてあげる。どんなに可愛い女の子が来たって、そっちを見る余裕を与えないくらいに燃やし続けてあげる」
「……ぜんっぜん安心できねーよ」
「あはは、ごめんね。でも、この一年間だけ我慢して。私はきっと勝ち抜いてみせる。絶対に、命をかけて、タッちゃんを私のものにしてみせる。このお城でタツヒコと一緒に住むに相応しいヒロインになってみせる」
「一年間、ね。その期間で、俺を巡る戦争が起こるってことか。自分がそんなに人気者だったとは知らなかったよ。つーか、いったい何時からそんな迷惑千万な戦いを繰り広げてるんだ、お前らは」
「生まれる前から」
「はあ!?」
「あはは、冗談だよ。それも秘密にさせて」
「……秘密ばっかりだな」
「女の子には秘密が多いんだよ。もっと知りたいなら、私を選んで。そうしてくれたら、少しずつ教えてあげるから」
息が絡まるほどの距離で、本物の花が華開く。月の光を受けて艶やかに咲く百合の花が、聖母のようにふわりと頬を緩ませる。まやかしの派手な造花より、今の神秘的な微笑みの方がよっぽど楓に似合っている。
年齢不相応の包容力を湛えた瞳が目前まで近づく。この真珠に見詰められていると理性を吸い取られるような感覚を覚える。男の理性を絞りとる魔性の眼だ。だから、俺が思わず本心を囁いてしまうのも許されて然るべきだ。
「―――綺麗だ」
百合の花弁のような頬に赤みが差す。薄桃色の唇がゆっくりと薄く開かれる。
「一年後は、もっと綺麗になってるよ」
そして、唇が重なる。
一年後が、楽しみだ。
「かー、ペッ!ぺっぺっぺっ!心配して追いかけてきた結果がこれだよ!リア充どもめ!停戦だっつったのになにチューしてんだよ!ファックファックファック!」
「センパイ、天音ちゃんは“ファック”なんて下品なこと言ったりしないッスよ。誰が見てるかわんないッスから、気をつけましょうよ」
「……生徒会長だって、野球部員みたいな言葉遣いはしないと思うがな。つーか、いい加減俺のこと“センパイ”って呼ぶのやめろよ!今はお前の方が二歳も年上なんだぞ!」
リア充状態となった楓とタツヒコを隠れ見ながら、ボソボソと小声で会話する。公園の物陰に美少女二人が隠れ潜んでいる光景は非常に怪しい。しかも、明らかに年上の美少女が「イイじゃないっスか!」とフランクな口調で話していれば、これはもう奇妙奇天烈ここに極まれりだ。
「だって、前世で俺が死んだのは18の時ッスよ?んで、センパイは享年27歳だったんでしょ?だったらセンパイはセンパイじゃないッスか!おかしくないっスよ!」
「薫子の外面でそういうこと言われると激しく違和感が……」
「天音ちゃんが道路にツバ吐き捨てるのを見せられた俺の気持ちもわかって欲しいッス」
「……悪かったよ。ま、ひとまずその話は置いといて、だ。他のヒロインはどうだった?全員にあたってみたんだろ?やっぱり俺たちと同じだったのか?」
「もちろんッスよ。これでも瑞穂学園を牛耳る生徒会長なんスからね!結果はセンパイの言った通りッスよ!」
ニカッと白い歯を見せて胸元から瑞穂学園の学生帳を取り出す。取り出した反動で脂肪の塊がブルンと跳ねる。黒皮に金の刺繍が施された学生帳には、夕緋 薫子の名前が刻まれている。
この見た目が清楚な黒髪巨乳美人の生徒会長―――夕緋 薫子も、俺と同じように前世の記憶がある人間だ。前世ではあるエロゲーに夢中になっていて、今自分が成りきっているキャラクターはそのエロゲーでそれぞれが一番お気に入りだったヒロインである、というところまで同じだ。瑞穂学園に入学する前、ふとバッティングセンターで見かけたから試しにカマをかけてみたら、「ええーっ!?アンタもなんスか!?」と大声で叫ばれたのは記憶に新しい。
「同級生、先輩、新任女教師、保健室の先生にアタックしてみたら、なんと全員当たりでした。前世の性別も状況も同じッス。学校側に電話番号を調べてもらって予定されてる転校生と留学生に電話してみたら、この二人もでした。みんな驚いてたッスよ」
「まあ、当然だろうな。つーか、お前がメインヒロインの正体をさっさと見抜けばもっと早くに気付けたんだがな。生徒会長なんだから、副生徒会長をすぐ近くで見てただろ」
「あ、言わせて頂きますけどね、センパイ。今日みたいに自分からボロ出してくれない限り、楓ちゃんの正体にはセンパイだって気がつけませんでしたよ。俺たちとは気合いの入りようが違うんスから」
むうと唇を噛むが、それ以上の抗弁は出来ない。反論しようのない事実だからだ。それくらい、楓が原作に忠実―――いや、原作以上に忠実だったのだ。
あの朝香 楓は、きっと俺たちのように気楽に生きることが出来なかったんだろう。「これエロゲの世界じゃん。まあいいや、第二の人生をエンジョイするか」と腹をくくって楽しむという選択肢は考えられず、必死に主人公に依存して生きてきたんだろう。その内、自分の裏表がゴチャゴチャになって、どれが本当の自分なのかもわからなくなって、気が狂いそうなのを懸命に抑えつけながら、それでもタツヒコに愛されようと歯を食いしばって努力してきたのだ。
どこまでも不器用な奴だ。そういう人間は、まあ、嫌いじゃない。
「ところで、センパイ。センパイはタツヒコのこと好きなんスか?」
「はあ?なんでそうなるんだよ?」
「だって、“停戦”ってそういう意味なんスよね?ヒロインが全員揃ったら、タツヒコの取り合いを始めるぞってことでしょ?」
「バーカ。あんな幸せそうな光景を見せられて、なんで彼氏を寝取ってやろうなんて考えるんだよ。見てみろあれ。今からエンディングロール流れだしたって不思議じゃないくらいのトゥルーエンドじゃねえか。俺は他人の彼女や妻を寝とるような鬼畜ゲームは苦手なんだよ。純愛ゲーこそ神だっつの」
「俺は鬼畜ゲーも好きでしたけどね。それはどうでもいいとして、それじゃなんでまた“停戦”だなんて?」
「はぁ。バッカだなあ、お前。んなこたぁ決まってんだろうがよ」
月下の公園で抱き合う主人公とメインヒロインに視線を流し、ニヤリと口端を釣り上げる。
「恋ってのはライバルがいた方がより強く燃え上がるもんなんだよ。周りからどんどん薪をくべて、今より遥かにお熱い関係にしてやろうじゃねえか。ああ、今からイベントが楽しみだぜ。けけけけけ!」
「……センパイも素直じゃないんスから」
「何か言いましたか、夕緋生徒会長?」
「いえいえ。 私 は何も言っていませんわ、昼賀谷さん?」
「タツヒコ、今日も奥さんがお勤めから帰ってきたぞ!出迎えてやれよ!」
「ああ、わかった。サンキュ」
「え゛?」
親切な報告に短く礼を告げると、今まで馬鹿話を交わしていたフジノリに別れの挨拶をして立ち上がる。俺が席を立てば、それと同時に教室のドアが豪快に開かれる。
「お待たせ、タッちゃん!一緒に帰ろっ!」
「待たせすぎだ、バカ」
「えへへ、ごめん。生徒会長とちょっとお話してたの」
放課後、生徒会を終えた楓が教室に戻ってくる。ここ数日は、学校の廊下で痴話喧嘩をしたことを多いに騒がれたが、最近は急激に落ち着いてきた。俺たちの関係が大きく変化したことを察したからだろう。
「今日はね、たくさん面白いことがわかったんだよ。夕緋生徒会長ってね、実は野球が大好きだったの。こっそりバッティングセンターに行ってるんだって。新しく生徒会に入ってくれた天音ちゃんはけっこうな腹黒さんで、そのギャップが可愛いんだよ!」
「ギャップでいえば、お前も他人のことは言えないけどな」
俺たちの間からは今までのようなぎこちなさはなくなり、互いに偽りのない本心で向きあえるようになった。楓も、人前では相変わらず脳天気で純粋な女の子の振る舞いをしてはいるが、それも少しずつ変わってきている。事実、俺の手に絡んできた細い手には今までより遥かに巨大で重い意思が込められている。
「楓ちゃん、今日も夜月君と手を繋ぐの?羨ましいなあ、私も夜月君と手を繋ぎたい!」
「……えへへ。だって私―――」
スッと、魔性の目が細められる。楓の気配が激変したことで教室の温度が一気に凍りつく。突如張り詰めた空気に自分が口を滑らせたことを察した女子が顔面を引き攣らせるが、すでに遅い。刃のように鋭い眼差しがしゅらりと流れ、墓穴を掘ってしまった哀れな女子の喉首にピタリと当てられる。
「タッちゃんのこと、大好きだもん。……手を出したら、ダメだよ?」
「……ハイ、ワカッテマス……」
楓のことを未だに天真爛漫な聖女だと信じている人間はいない。いるとすれば、そいつはきっとエロゲにありがちだという鈍感な主人公くらいだ。
「同級生を脅すな。怖がってんだろうが。ほら、さっさと行くぞ」
「うんっ!」
愛が強すぎるというのも考えものだ。……とはいえ、11人分の養育費は幾らになるのだろうかと真剣になって考え始めている俺も、楓と同じくらい重症に違いない。
楓の握力に負けないくらい握る力を強めて、俺は小さくため息をついた。
TSFの輪はもっと広がっていいと思うんだ。物凄くニッチでマニアックな嗜好だけど、奥は深いから。何より、読んでいてニヤニヤできるのがいい。
<追記>
ナコトさんに挿絵を描いて頂いたぜイヤッホォオオオオオウ!!!
ちなみに後ろに登場している二人は僕のもう一つのTS小説『エルフになって勇者と一緒に魔王を倒しに行くお話』の登場人物であるカークとトゥです。この二人も描いて頂けるとは、本当に嬉しいです。僕は幸せ者です。