前編 迷い道
井平遼さんの『攻略なんぞされてたまるか!』という素晴らしいTS小説を読んでいて、ふと思いついたアイディアを形にしてみました。逆に、「さあ、俺を攻略してみろ!」という姿勢のTS主人公がいても面白いんじゃないかな、と。
この物語は前編と後編で終わります。珍しくシリアスですが、それでもよければチラリと読んでみてくださいな。
「ああ、母さん?さっき最後の講義が終わったとこ。今から帰るよ。うん、今日は俺、バイト休みだから。……うん、うん。わかった、途中で寄って買って帰るよ。それじゃ」
通話を切り、ケータイを懐に閉まう。ポケットの隙間に冷たい冬の風が侵入してきてブルリと肌が粟立つ。見渡せば、周りはとっくに冬の夜闇だ。日が暮れるのもすっかり早くなった。電灯がほとんどない裏路地だから余計にそう思える。頼まれた買い物を済ませて早く帰ろう。今日は鍋らしいから、楽しみだ。それに、ここ二ヶ月ほど夢中になっているエロゲも今日でようやく全キャラをクリアできる。今プレイしているエロゲは、9人のヒロインを全て攻略すれば謎の隠しキャラが出てくるというオマケ要素があるのだ。10人目のヒロインがいったいどんな娘なのか、とても気になる。まさか主人公の悪友キャラのフジノリが実は女の子だった、なんてオチだったら液晶に拳を叩きこむしか無いが、そうでないことを祈ろう。
「まあ、なんだかんだ言っても、やっぱり俺は楓ちゃんが一番かなぁ」
マフラーで隠れた口元で小さく呟く。今作のヒロインの中で俺が一番気に入っているのは、幼馴染みキャラの朝香 楓だ。主人公、夜月 龍彦の隣に住んでいて毎朝部屋まで起こしに来てくれる、桜色の長髪をしたメインヒロインだ。テンプレ幼馴染みのようにツンデレというわけではなく、世話焼きだけども脳天気な性格をしていて、主人公のことを「タッちゃん」と呼びながらトテトテと寄り添って付いてくる、まるで子犬のような可愛い女の子なのだ。他のヒロインを攻略するために楓から離れる選択肢を選ぶ際、悲しむ楓を想像して心が激しく痛んだと言えば俺の熱意がわかるだろう。
「でも、もうすぐ資格試験なんだよな。これはエロゲしてる場合じゃないか。はぁ……ん?」
就職希望をしている会社に採用されやすくなるために、特定の資格を幾つか取得しなければならない。就職活動が本格的に始まるのは来年からだが、働きたい業種がすでに決まっているのだから準備は早めにしておいた方がいい。エロゲのために将来を棒に振った、なんて笑えない。
「お楽しみはちょっとお預けかな」とため息を吐くと、一秒も開けずに背後から眩しい白光に照らされた。スポーツカーらしき大きなエンジン音が近づいてくる。
こんな狭い裏路地を通るなんて、危険なことをする奴だ。人を轢いても知らないぞ。ほら、そんな馬鹿みたいにスピードを出すから、急ブレーキを踏まないと間に合わな
気付いたら、俺はあの時のスポーツカーそっくりのミニカーを手にしていた。
「こら、かえで。きょう、公園にいく約束わすれたのかよ」
そう言って俺に手を差し伸べたのは、生まれた時からの幼馴染みだった。
その手を握った瞬間、私は朝香 楓として生きることを決めた。
「なあ、タツヒコ。お前ってエロゲーの主人公みたいだよな」
「えろげぇ?なんだそりゃ?」
私立瑞穂学園の高校生活も二年目に達した頃、俺はこの世に『エロゲー』というゲームジャンルがあることを知った。
例えば現実には存在しない学園とかファンタジックな異世界などの架空世界を舞台にして、主人公と様々な関係にある女の子たちと様々なイベントを経験しながら最適な選択肢を吟味し、攻略したいヒロインとの親交を深めて恋仲になることを目的としたパソコン用のアダルトゲームのことらしい。
高校に進学して初日に意気投合した学友にして悪友のフジノリは、文武両道な美男子なのにそういったオタク知識にやけに詳しかった。黙っていればモテるだろうに、口を開けばオタクな会話が次々と溢れ出すから女子がまるで寄り付かないという残念な奴だ。
そんな残念な男に言わせれば、俺はまるで“エロゲの主人公”そのものなのだという。
「お前な、今の自分の境遇がどんなに素晴らしい幸福に満ち溢れていることか少しは自覚した方がいいぞ?我が学園のアイドルを独り占めに出来るその圧倒的優位な立場を欲しがっている者は数知れないというのに……!」
「学園のアイドルぅ?……ああ、楓のことか」
「それだ!そうやって簡単に呼び捨てにできることがすでに奇跡なんだ!
学園のアイドルはお隣さんで昔からの幼馴染み!頭が良くて可愛くて世話焼きで家庭的で清楚で優しくて気立てが良くて、なのに男っ気はお前以外に全然見られない!こんな夢のようなシチュエーションがリアルにあるなんて信じられんッ!!」
「そんなに良いものとは思わないけどな。毎朝、枕元まで起こしに来られる身にもなれよ。鬱陶しくて仕方がないぜ?」
「ぶっぎゃああ――――!!何その勝ち組宣言!!全校生徒を代表して訴えてやる―――っ!!」
「本気で泣くなよ、みっともねえな!」
アイツの存在が自慢になるなんてことも、フジノリに言われるまでは気付きもしなかった。
“アイツ”―――朝香 楓は、俺の幼馴染みだ。物心ついた時には一緒に公園を駆けずり回ったりオママゴトをしたりしていた。家が隣同士で、お互いの両親も昔からの友人ということもあり、家族ぐるみの付き合いをしている。学校でもクラスは毎年同じという腐れ縁だったから、楓が隣にいることは当然だと思っていた。
(それを口に出すとホントに訴訟を起こしそうな勢いだし、黙っておくか)
机に突っ伏して嗚咽を漏らす悪友から言わせれば、楓は“遥かに遠く高い断崖絶壁の頂上に咲いている一輪の花”らしい。要は高嶺の花だと言いたいんだろう。
たしかに、楓は常に学年トップの成績を維持するくらい頭がいいし、アイドル事務所やモデルスカウトが自宅に押しかけるほどの美少女だし、生徒会の副生徒会長に選ばれるほどの品行方正な性格をしている。傍から見れば疑いようもなく完璧な美少女に違いない。
先述したエロゲーのヒロインには様々なバリエーションがあるが、一番オーソドックスなものは『幼馴染み』なのだそうだ。美少女の幼馴染みに毎朝起こされたり、昼の弁当を作ってきたり、特に用事もないのに部屋まで遊びに来たり、親が旅行に出かけている時は晩ご飯を作りに来たりするという日常は、なるほど確かにフジノリから聞いたエロゲーの主人公の生活そのもののようである。
(まあ、現実はゲームみたいに甘くないってことだよな)
窓の外で赤く輝く放課後の夕日を眺めながら内心でボソリと愚痴る。周囲からどれほど羨望の眼差しで見られても、当の俺はそうは思えない。なぜなら、俺が楓のことを異性として意識しても、楓は俺のことを異性の男とは認識しないからだ。アイツにとって、俺―――夜月龍彦とは、異性の男というよりは兄か弟に近い存在だ。下手をすれば家族よりも長い時間を過ごしているのだから、そう思われるのは当然といえば当然ではあるが。
とは言え、そのような思春期真っ只中の悶々とした感情を抱いていてもアイツが生徒会の会議を終わらせてくるのをちゃんと待ってやっている俺は、実はかなり律儀な人間に違いない。
「タツヒコ、奥さんがお勤めから帰ってきたぞ。出迎えてやれよ!」
「だから奥さんじゃねえよ!お前らもいい加減慣れろ!」
「あはは、夜月君照れてる~」
ゲラゲラと囃し立ててくるクラスメイトの連中に一喝する。このやりとりも物心ついた時から繰り返されてきたことだが、最近顔ぶれが変わったせいで気恥ずかしさに顔が赤くなってしまう。二年生に進級してクラスメイトが一新したせいだ。こんなことならアイツともクラスが別になればよかったのに、どうして今年も一緒なんだ。
「俺は先に帰る!じゃあな、フジノリ!」
「ま、待てよ!俺にも楓ちゃんとキャッキャウフフな会話をさせろよ!俺にも匂いを嗅がせろよ!俺にもクンカクンカさせろよ!頼むよタツヒコ君、いやタツヒコ様!!」
「俺をヘンタイのように言うな!アイツの匂いなんぞ嗅いどらん!一人で帰りやがれ!」
「りっぐすッ!?」
ゾンビのように足元に縋りついてくるフジノリを蹴り飛ばし、机から鞄を剥ぎとって足早に教室の扉に向かう。アイツが入ってくるとまた俺が野次馬から辱めにあってしまう。そうなる前に合流してさっさと帰路につこう。
扉の取っ手に手を掛けようと急いで腕を伸ばし―――しかし、無情にも扉は向こうから開け放たれた。
「お待たせ、タッちゃん!一緒に帰ろっ!」
目と鼻の先―――それこそほんの少し顎を突き出せば唇が触れてしまいそうなほど近くで、楓の満面の笑みが花咲く。
「――ぁ、――」
……綺麗になった、と思う。
以前から可愛い容貌ではあったけど、そこにはまだ子供っぽさが残っていた。身体のシルエットも同年代の男子と大して変わらなかったし、そもそも赤ん坊だった頃から隣にいたのだから成長したのかしていないのかも気付かなかった。かくいう俺も、つい最近までは楓のことを明確に女と意識してはいなかった。
でも、高校生になってから、楓は急に大人びた。輪郭や目鼻立ちからはあどけなさが消えて、身体つきも女性特有のふくよかでメリハリのきいた描線を描くようになった。いつの間に覚えたのか化粧もするようになって、唇には薄いルージュまで引いている。
色気づく、という言葉は適切じゃない。そう、本当に……綺麗になったんだ。
何より、これはいつも一番近くにいる俺にしか気付くことが出来ない変化だろうが―――
「タッちゃん?ボーっとしちゃって、どうしたの?」
「わ、こらっ」
きょとんと小鳥のように首を傾げた楓が歩を進める。野次馬から好奇の悲鳴が上がるのも気にせず、息がかかるほど近くまで一気に距離が詰められる。楓の動きに合わせて艶やかな桜色の長髪がふわりと風を孕んで靡く。
「……っ」
途端、甘やかな空気が鼻腔を吹き抜けて、頭の中をいっぱいに満たした。春花のような甘美な香気が思考をとろけさせ、我知らずクラリと立ち眩みを引き起こす。
そう、匂いだ。何か特別な香水でもつけるようになったのか、それとも楓自身が纏っていたものが変わったのかは定かではない。だけど確実に、楓の匂いは変わった。たちの悪いことに、とても良い方に。フジノリが嗅ぎたいと言うのもわかる気がする。
「ぅぅぅ……見せつけやがって、見せつけやがってぇ……。吐き気を催す邪悪とはまさにお前のことだタツヒコぉ!ウヒャヒャヒャヒャ!」
「ええい、四足歩行でワシャワシャ近づくな!キモいんだよ!」
「ぎぶそんッ!?」
関節があと10個くらい増えないと出来ないような人間離れした動作で床を這ってくるフジノリに後ろ蹴りを見舞ってやる。この学園のスカートは膝上までしかない。下から見上げればすぐに中が見えてしまう。だというのに楓がちっとも警戒感を抱かないせいで、俺が余計な気を回さなければならない。
「へ、へへ……いい蹴りだったぜ……お前なら、世界を狙え……ガハッ!」
「あはは。フジノリ君、相変わらずタッちゃんと仲いいね」
「これが仲がいいように見えるお前の神経を疑うよ」
容貌は日に日に綺麗になっていくのに、中身は相変わらずおっとりしていて無防備だ。いつも嫋やかな微笑みを浮かべていて、誰に対しても優しく接する。子供の頃から少しも変わらない。三つ子の魂百まで、とは昔の人間も的を射たことを言うものだ。
「ったく。ほら、帰るぞ」
「うんっ!」
普通、女ってのは美人になればなるほど恥じらいとか周囲への警戒心とかも高まると思うのだが、コイツには当てはまらない。だから今も、平気で自分の手を俺の手に絡めたり出来るのだ。
「楓ちゃん、今日も夜月君と手を繋ぐの?」
「えへへ。だって私、タッちゃんのこと好きだもん」
「んなっ!?ば、バカ!いいから早く帰るぞ!!」
誤解を招く発言を引き金にして女子たちの黄色い声と男子たちの怨嗟の声に火がつく寸前、俺は楓の手を引っ張って廊下に飛び出す。直後、キャアキャアという甲高い声と「うぉのれタツヒコぉおお」という血を吐くような怒号が後方で爆発した。後者はほとんどフジノリの声だった。
「バカ!いつもいつも、なんで誤解されるようなこと人前で言うんだよお前は!」
「ふえ?でも、私がタッちゃんのことを好きなのはホントだよ?」
「あのなぁ。お前の“好き”ってのは、つまりその、特別な“好き”じゃないだろ!」
「“好き”は“好き”だよ。私はタッちゃんが好きだよ!お父さんやお母さんやタッちゃんのおじさんとおばさんくらい好きだよ!」
「だから―――いや、いい。もういい。わかったから連呼しないでくれ。恥ずかしいから。それと、他の奴らには好きだなんて軽々しく言うなよ。心配だから」
「うん、わかった。タッちゃんだけにしか言わないよ」
「………」
ほら、これだ。こんな奴だから俺が護ってやらなければいけなくなるんだ。
物心がついた時には、楓はすでにこんな性格をしていた。表裏がなくて自分の感情に真っ直ぐで、勉強は出来るくせに脳天気で、おまけに超がつくほどのお人好し。誰彼からも可愛いと持て囃され、近所の爺さん婆さんたちは聖女だの神童だのと崇め出す始末だ。
そんな絶滅危惧種のような奴だから、当然邪な考えを抱いて近づいてくる奴らもいる。だから俺も、物心がついた頃にはいつも楓の手を握っていた。幼い頃の思い出といえば、楓が危なっかしいことをする度に大慌てで火消しをして回った苦い記憶しかない。
チラと隣に横目を流す。俺より拳一つほど低い位置にある頭を楽しそうに左右に揺すりながら鼻歌を歌う楓は、俺の悩みなどこれっっっっぽっっっっちも慮りもしないに違いない。どうしてこんな“温室育ちのお嬢様”に育ってしまったのだろう。
……もしかして、俺がずっと手を繋いで護ってやっていたから、本人に警戒心が芽生えなかったのだろうか。だとすると、こんな世間知らずな性格になってしまったのは俺の責任ということになるのか?
「ふぇ?なぁに、タッちゃん。私の顔に何かついてるの?」
「い、いや、別に。相変わらずのアホ面だなと思ってただけだ」
「ひどーい!」
ぷぅ、とハムスターのように両頬を膨らませる。陶器みたいな純白の頬はふっくらとしていて、まるで出来立ての大福のようだ。そこらの女子が同じことをしても計算された芝居にしか映らないが、楓がすれば愛嬌たっぷりの仕草になる。媚を含まない自然体を平気で他人に晒すのはコイツの悪い癖だ。いつも見慣れている俺でさえドキリと胸を高鳴らせてしまうのに、初めて見た人間なら一瞬で恋に落ちてしまう。こうして俺が傍にいてやらないと一分一回の告白ラッシュが始まるに違いない。
「……でも、何時までもこのままってわけにもいかないよな」
如何に危なっかしいからと言って、死ぬまで楓の傍にいるわけにもいかない。お姫様と騎士じゃあるまいし、何時かはそれぞれ別の人生を歩まないといけなくなる。
こいつと、け、け、結婚をするというのなら話は別だが―――果たして楓がそこまで考えているかと言えば、とても怪しいと言わざるをえない。ある日突然、「タッちゃん、私カレシができたの!一番最初にタッちゃんに紹介してあげるね!」「はっはっは、よろしくタツヒコ君!今日からボクが楓さんを護るから君はもうお払い箱だよ!」などと平気な顔で男を連れてきても何らおかしくはない。
そうなるのは寂しいし、楓が他の男に持っていかれると思うと歯痒さも覚える。でも、何時かはそういう日が来る。それは仕方のないことだ。楓が俺に向ける“好き”は、血の繋がった家族に向ける“好き”と同じだ。きっと近い将来、もっと大きくて熱い“好き”を別の男に差し出す日が来るだろう。そうして心も身体も信頼する男に預けて、一緒になって、結婚して、身篭って、母親になるんだ。
「……そのためには、俺は邪魔かもしれないな」
「タッちゃん?さっきから独り言呟いて、どうしたの?」
不思議そうに眉根を潜めた楓が視界にひょいと飛び込んでくる。その可愛らしい仕草も、俺が傍から離れなかったせいで子供っぽさが抜けなかったのだと思うと心苦しくなる。
そろそろ潮時なのかもしれない。親離れならぬ、幼馴染み離れだ。お互いあと数年も経てば成人として認められるのだし、楓に至ってはとっくに結婚ができる年齢に達している。せっかく日々を重ねるごとに綺麗になっていくのに、近くに男がいては何時まで経っても良い男と巡り合えない。それは楓の将来の可能性を狭めることだ。もう、お隣さんの男友だちが未練たらしくお節介を焼き続けるべきではない。
「あの、さ。ちょっと、話があるんだけど、」
「ふぇ?」
意を決して、口を開く。廊下のど真ん中だけど、こういうのは勢いが大事だ。何時までも引きずり続けるのは俺にとっても楓にとっても良くない。
ハッキリと告げよう。「これから少し距離をおこう。その方がお互いの将来のためだ。お前も俺から離れて、自意識を持った方がいい」、と。でも、どういう風に言ってやるのが一番いいだろうか。とりあえず、大事なことから告げていくべきか。
「もう、やめにしないか。俺たちの、こういう関係」
「――――――え?」
途端、楓の瞳から色が消え失せ、愕然と口を開く。言い方を間違えただろうか。いや、これでいい。ちょっと強めに言った方がいいこともある。コイツの場合はかなり鈍いんだし、明確に言わないと「またまた、タッちゃんったら冗談言っちゃってぇ」と受け流されてしまうのがオチだ。
中途半端な笑顔のまま固まった楓にしっかりと向き合い、双眸をじっと見つめる。
「そろそろハッキリさせておこう。俺は、お前とこれからもずっとこうやってベタベタするつもりはない」
「―――そだ」
「もう高2になったんだし、そのうち進路も考え始めないといけない。お前も俺から独り立ちするべきだと思う。これからは、お互いの将来をそれぞれ考えてだな、」
「そんなの、嘘だ」
「……楓?」
低く呻くようなその声が楓の口から発せられたものだと、最初はわからなかった。普段のおっとりとした口調とはかけ離れた切羽詰まった呟きにギョッと驚く俺の目の前で、楓の肌から血の気がみるみる引いていく。細い手から滑り落ちた鞄が足元でドサリと音を立て、周囲の視線を集める。
「嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ。わ、私、何か悪いことした?もしかして、フラグを見落とした?選択肢を間違えた?どうして、そんな、こんなのゲームになかった。それじゃあ、それじゃあワタシは、オレは―――」
ワナワナと震える唇から苦しげな呟きが零れ、頬を伝った涙と一緒に床に落ちる。自分自身の存在を確かめるように、そうしなければ自分自身があやふやになってしまうかのように、己の両肩を強く掻き抱く。
「か、楓?大丈夫か?」
不安気に声をかけるが、反応はない。間近に近づいて顔を覗き込んでも、開ききった瞳孔の闇に俺が映ることはない。過呼吸のように荒い息を吐いて身を震わせる様子は明らかに尋常じゃない。生命の維持すら危ういと言わんばかりに背中を痙攣させるその様に、俺はようやく、自分が取り返しの付かないことをしたのだと漠然と理解した。
自分が何をしでかしたのかわからず狼狽する俺の前で、楓はただただ孤独に震えて泣き続けている。
昔、トラウマを刻みつけられた漫画がある。
未来から来たロボットの秘密道具で絵本の世界に入ったはいいものの、出入りするための道具を落としてしまって絵本の中に閉じ込められる、という話だ。子どもながらに恐ろしさを覚えて、その晩は寝付けなかった。
それが現実になって降りかかるとわかっていれば、その日は寝ずに神様仏様にお祈りを捧げていたのに。
今の俺の状況に比べれば、その漫画の方が何倍もマシだ。主人公には助けに来てくれる頼もしいロボットの友人がいたし、何より、その主人公はちゃんと生き帰る世界があるのだから。そう、助けの手を差し伸べる救世主もおらず、すでに自分が死んでいることを理解している俺とは天と地ほどの差だ。
前世、と呼べるものかは定かではないが、俺にはもう一つの人生の記憶があった。男として生まれて、平凡に生きて、いつの間にかオタク趣味に傾倒して、普通の容姿と普通の成績でダラダラと大学まで進学して、普段通りに帰り道を歩いていたら後方から車に突っ込まれて死んだ、一人の男の記憶だ。真っ白なヘッドライトと恐竜が巨大な黒板をひっかいたようなブレーキ音が眼と耳にこびり付いている。
幼稚園に上がる前の物心がついたある日、俺は突然その記憶を取り戻した。幼馴染みが置いていったミニカーの玩具を何気なく手に取った瞬間、カサブタのような薄い皮膜を一気に剥がしたみたいに、中に詰まっていた思い出したくないモノが溢れだして頭の中で爆発した。
こんな記憶はいらなかった。出来れば一生思い出したくなかった。なぜなら、その記憶によれば、俺が二度目の生を受けたこの世界は作り物のハリボテだったからだ。この街の名前も、両親の名前も、自分の名前も、幼馴染みとの関係も、何度も目にしたことのある設定だった。前の人生で俺が夢中になったアダルトゲームそのままの世界だった。
前世と同じ世界で二度目の人生を授かったのなら、好意的に捉えることもできただろう。「自分にはこの世で成し遂げなければならない宿命があるから再び生を得たのだ」と天から授けられた運命を信じ、何らかの理想や目的を掲げてガムシャラに突き進むこともできただろう。だけど、最初からニセモノにしか過ぎないとわかっている世界で、どうして本気で生きることができるだろうか?
己が主人公だったならまだ幾ばくかの救いはあった。例え虚構の世界であっても、主役として立ち回れるのならば少しは楽しみようがある。何せ、俺は主 人 公の視点で何度もこの世界を堪能したのだから。全てのフラグやキャラクターの設定を知り尽くしていれば、まさしく神の視点を得たに等しい。
だけど―――よりにもよって俺が新しく授かった人生は、朝香楓という女の子だった。
この世界は、不遇の最期を遂げた俺に神様が用意してくれた第二の人生などではなかった。然るべき主役は別に存在していて、俺はただ主役に攻略されるために用意された脇役の一人に過ぎなかった。観客のいない虚しい舞台に突然放り込まれた添え物に過ぎなかった。
これから一生、まがい物の世界で虚しい人生を過ごさなければならない。その事実に気付いた時、俺は絶望に打ちのめされて家の中に塞ぎ込んだ。生きる目的を見出だせず、かといって自殺する勇気もなく、部屋の隅で生ける屍のように沈み込んだ。心配する両親がたくさんの言葉をかけてきたが、彼らもニセモノに過ぎないと知ってしまえばどんなに温かい言葉も心に届かなかった。
そんな俺を引き上げてくれたのは、よりにもよってこの世界の主役だった。
「こら、かえで。きょう、公園にいく約束わすれたのかよ」
「……夜月、龍彦……?」
「なによびすてにしてんだよ、かえでのくせに。ほら、ボケっとしてないでさっさといくぞ。今日こそ砂場にオレのでっかい城をつくるんだ。完成したらかえでもいっしょに住まわせてやるよ」
その時、ぐいと目の前に差し出された手は、とても大きかった。このニセモノだらけの世界の中で、その手だけは本物であるかのように思えた。当然だ。この世界は全て、コイツのために創られた。タツヒコという柱を中心にして創られた、タツヒコのための世界だ。
そうだ、常に世界の中心の傍にいれば、道を見失わずに済む―――。
「……うん、ごめんね、タッちゃん。私もおてつだいするよ。だから、いっしょに住まわせて。ずっといっしょにいて」
目の前の手を握って、俺は空虚な笑みを貼りつけた。
この瞬間から、俺の朝香 楓を演じる日々が始まった。
幸いにも、朝香 楓はメインヒロインであり、ゲームにおいてはもっとも攻略しやすいキャラクターに位置づけられていた。プレイヤーが他のヒロインに靡くような選択を複数回選べば攻略対象は変化するが、特に何もしなければ自動的に朝香 楓のトゥルーエンドルートに入るようになっていた。トゥルーエンドになれば、主人公は朝香 楓と結ばれ、結婚し、幸せな家庭を築いてエンディングロールとなる。つまり、タツヒコの意識を俺に向け続けてさえいれば、タツヒコのそれからの人生に乗っかることが出来る。恋をして、家族を作って、子どもを産んで、立派に育てるという人並みの幸福と確固たる将来が約束されている。
男と結ばれることに最初は嫌悪感を感じた。だけど、生きる目的を見出だせず、けれども自殺する勇気もない俺に贅沢は言えなかった。この世界がニセモノで、自分も周りの人間も全てが用意された脇役だと知っている俺には、唯一本物のタツヒコの近くにいることが精神の平穏を保つ術だった。
そのために、俺は影で懸命に努力をした。タツヒコの心を俺に繋ぎ止めておくために、必死で演技をした。常に寄り添って、時には世話を焼き、時には保護欲を掻き立て、「朝香 楓には夜月 龍彦が必要不可欠なのだ」と植え付け続けた。当初は甘え方の加減がわからずに苦慮していたが、演技をしていく内に段々と自然体で振る舞えるようになり、それが楽しくなってエスカレートしていった。
それから瞬く間に十数年が過ぎて、ゲームの舞台となる私立瑞穂学園に入学した。高校二年生として過ごす一年間で、タツヒコの周囲には俺という幼馴染み、違うクラスの同級生、後輩、先輩、生徒会長、転校生、留学生、新任女教師、保健室の先生といった総勢9人と隠しキャラの一人、合計10人ものヒロインが参集することになる。タツヒコが彼女たちに靡くことを防げば、俺はこの世界で支えを失わなくて済む。
そしてついに一ヶ月前、もっとも重要となる二年生に進学した。今までの十数年は全てこの一年間のために費やされてきた。タツヒコの意識を向けるために、死に物狂いで自分を磨き続けた。一度もしたことのない化粧を必死に勉強した。夜も眠らずにファッション雑誌を読んで、もっとも自分の魅力を引き出す身繕いの仕方を研究した。美容にも細心の注意を払ってタツヒコが好むスタイルに整えたし、香水だって何百種も調べて一番タツヒコが好きそうなものを見つけ出した。試しに間合いを詰めて香りを嗅がせれば、タツヒコもまんざらではないようにうっとりと表情を蕩かせた。
これでもう心配をしなくていい。できることは全てやった。両親や友人に影の努力を悟られないように隠し通すのはかなり神経を使ったし罪の意識も覚えたが、そのおかげでタツヒコに与えている印象も完璧だ。この一年間を今の状態で乗り切れば、あとはトゥルーエンドが待っている。これからずっと、タツヒコに頼って生きていける。
「もう、やめにしないか。俺たちの、こういう関係」
―――そのはず、だったのに。
「そろそろハッキリさせておこう。俺は、お前とこれからもずっとこうやってベタベタするつもりはない」
―――なんで、そんなこと言うんだ。あんなに頑張ったのに。努力したのに。尽くしたのに。どうして。
「もう高2になったんだし、そのうち進路も考え始めないといけない。お前も俺から独り立ちするべきだと思う」
「そんなの、嘘だ」
「……楓?」
まだ二年生は始まったばかりじゃないか。どのヒロインを選ぶかは二年生の最後のイベントで決まる。それは何ヶ月も先の話だ。他のヒロインもまだタツヒコに近づいてないはずだ。だから、この時点で俺がタツヒコから拒絶されるなんてありえない。
まさか、俺が演じた“朝香 楓”に間違いがあったのか?何か見落としがあった?不足していた?それとも―――俺の知らないところで、すでに他のヒロインに心奪われていた?
「嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ。わ、私、何か悪いことした?もしかして、フラグを見落とした?選択肢を間違えた?どうして、そんな、こんなのゲームになかった。それじゃあ、それじゃあワタシは、オレは―――」
我知らず身体が激しく震え出す。肌が泡立ち、怖気が絶え間なく襲ってくる。
今まで必死に積み上げてきた努力が全て消える。
またニセモノの舞台に一人で放り出される。
自分を支えていた大地が崩れていく。
心の拠り所が離れていく。
生きていくことが、出来なくなる―――。
後編もすぐに更新する予定です。