心の中の霧
凜子とシエルの奇妙な生活が一週間ほど過ぎた。
凜子以外にシエルが見える人間はいないらしく、また、家以外の場所ではシエルは指輪の中でおとなしくしていることが多かった。
シエルは本当によく働いてくれる。小さな体で食器を洗ったり、洗濯物を取り込んだり、やっていることはハウスキーパーそのままなのだが…。
「僕はもっと姫の役に立つことがしたいです」
シエルは凜子に毎日のようにそう言うが、凜子は十分役立ってもらっていると返すだけだった。
実際、凜子にたいした願いはない。毎日をただ何となく過ごしているのだから。
「姫、今日の晩御飯は何にします?」
仕事帰りに、シエルはそっと凜子に問いかける。
「そうだねぇ、シエルは何が食べたい?」
「僕は姫の食べたいものなら何でもいいですよ」
「なんでもいいが一番困るのよ。あ、私のお願聞いてくれるなら、今日の献立を考えて」
「そんなことで良いんですか?姫は本当に欲のない方ですね」
「そう?じゃあシエルのこと困らせてみようかな」
「そ、それはちょっと…」
そんななんでもない会話をしながら歩く道は、一日会社で気を張っている凜子にとっては何よりも癒しになっている。
「仲良くやっているようですね」
突然、声が聞こえて凜子とシエルは辺りを見回した。
いつの間にかあの路地に入ってしまっていたようだ。目の前に聖堂がある。そして店の前に店主が立っていた。
「こんばんは」
相変わらず、古い街並みに溶け込んでしまいそうな雰囲気と和服がよく似合う。店主は優しい笑顔を浮かべて凜子たちを見つめていた。
「こんばんは…」
全く気配もなかったことに凜子は驚きながらも頭を下げた。
「シエルは、迷惑をかけてはいませんか?」
「はい、最初はびっくりしましたが、今は楽しくやってます」
凜子がにっこり笑うと、店主は目を細めて楽しそうに笑った。
「良い顔をなさってますね」
「え?」
「いえ、なんでもありません。ところでシエル」
「はい」
店主に名前を呼ばれて、シエルはピッと姿勢を正した。
「主人の言うことをよく聞くのですよ。でないと、私がお前を引き取りに行かないといけなくなります。その後は…………分かりますね?」
店主の表情が深い闇と陰惨さを纏い、微笑んだ。その姿にシエルは真っ青になって震えあがった。
「だ、大丈夫ですよ」
凜子は慌てて二人の間に入ろうとすると、再び優しい笑顔になった店主は、
「ふふふ。少し脅かしすぎましたね、すみません。出来の悪い子ほどかわいいと言うじゃありませんか。私はシエルが可愛くて仕方ないんです。では、お気をつけてお帰り下さい」
そう言って店の中に入ってしまった。
「なんか…不思議な人だね」
まぁ、シエルのいたお店なんだし、不思議なことこの上ないのは当然か。
「僕も、主人のことはよく分からないです」
シエルはまだ青ざめている。無理もない、凜子すらも怖いと感じたのだから。
「大丈夫だよ、シエルは私と一緒にいるんだから」
「姫…ありがとうございます」
シエルの体がピンク色に輝く。どうやら嬉しかったりするとシエルはピンク色に光るらしい。本人には自覚がないようだけど。
「さ、スーパー行って帰ろう。もうお腹が限界」
凜子は明るい声で言うと足早に路地を歩きだした。
買い物を済ませ、アパートに帰ると、ポストに封書が入っていた。
「姫、お手紙です」
シエルがそれを持って飛んでくる。凜子はそれを受け取り封書を開け目を通した。
しかし、それを見た凜子の表情が曇った。そのままバッグの中に封書をしまって鍵を開けて家に入る。
「誰からのお手紙だったんですか?」
「ん…高校の同窓会の案内」
「どうそうかい?」
「昔の友達に会う集まりのことだよ」
「へぇ、良いですねぇ。僕達にはそんな集まりはないから羨ましいです」
無邪気なシエルの言葉に、凜子はあいまいに笑ってそれ以上の会話を避けた。
「今日は野菜炒めだよね?シエル手伝ってね」
無理に笑って凜子は材料を袋から出す、シエルも張り切って手伝いますと笑った。
「あんたのせいよ」
「お前が悪い」
凜子は責められる。友人に、親に、先輩に、後輩に。
冷たい目が凜子を睨み、突き刺さる言葉がいくつも傷をつけていく。
凜子はただ黙ってそれらを受け入れた。もう何も言いたくない。
言っても誰も信じてくれない。それなら無駄な体力を失うだけだ。黙ってやり過ごして、この人たちの前から自分が消えればいい。
凜子は高校の卒業式を待たずに一人故郷を離れた。
煙突から上る煙だけが、凜子が見た故郷の最後の景色だった。
それから、一度も帰っていない。親は今も同じ家に住んでいる。でも連絡すらしない。
迷惑をかけた。でも、本当は凜子は悪くない。親なら我が子の言うことを信じてほしかった。そんな淡い期待すら裏切られ、凜子は親に対して何も求めていない。
それどころか、人に対して、何も求めていない。
二度ほど、引っ越しをして今のこの部屋にいる。二十歳を過ぎて年齢的にはもう一人でも十分生きていける。しかし音信不通になってしまうのは世間体が悪いと言った親に住所だけ教えてある。
それで封書が届いたのだろう。
きっと、同級生たちも凜子が来ないことは分かっているけれど、出さない訳にもいかなくてわざわざハガキ代を捨てたように思ったはずだ。
凜子はバスタブの中で大きくため息をついて、お湯に潜り込んだ。
忘れていたわけではない。でも、この数日楽しかった。
それが、いけなかった。
自分以外の誰も、何も、信じてはいけない。そう思って目立たないように生きてきた。
髪も染めず、お化粧もせず、服もありきたりのものを着て、流行りは追わず。
目が悪いわけではないのに、眼鏡もかけている。
凜子はただ生きているだけの人生を選んだのだから。
耳に残る、自分を罵る声はいつまでも凜子を苦しめている。