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千年魔女の弟子になって十年、「夫にしてやる」と先に言われました。それは俺が言う予定だったんですが。

作者: remisterra
掲載日:2026/04/18

 師匠が今日も誰かに(だま)された。


 帰ってきた時の顔でわかる。

 

 眉が少しだけ下がって、口の端が微妙に歪んでいる。


 夕暮れの光の中、千年生きた最強の魔女が塔の扉を開けて入ってきた。

 

 ローブの裾が埃をかぶっていて、靴底にはまだ乾いていない泥がついていた。かなり遠くまで行ってきた証拠だ。


 それでもきれいだった。


 機嫌が悪かろうが、財布が空だろうが、千年変わらない美貌が、夕暮れの橙色を受けてそこにある。


 俺が十年この塔にいて慣れたつもりでも、塔の外の人間はそうじゃない。

 

 エルザが王都を歩けば、振り向かない人間がいない。本人は前を向いたまま、気にした素振りもない。


「素敵な男性だったのに」


 エルザはそう言いながら、いつもの椅子に崩れるように座った。


 机の上に片肘をついて、頬杖をつく。


 ただ遠い目をして、窓の外の夜空を眺めている。


 俺は無言で財布を差し出した。


 エルザは頬杖を外して、それを受け取り、中身を確かめもせずに懐にしまった。


 ありがとうの代わりに、小さなため息が一つ出た。


 それだけだ。


 しばらく沈黙が続いた。

 エルザはまだ窓の外を見ている。


 俺は台所に行ってお茶を淹れた。


 机の上に置いた。エルザは気づいているのかいないのか、黙ったままだ。


「何があったんですか」と俺は聞いた。


「三日前から会っていた。昨日まではよかった」


「どんな男でしたか」


「背が高くて、声がよかった。嘘が上手だった」


 最後の一言を、エルザは呟くように言った。


「嘘が上手だった」


 ()めているのか、(なげ)いているのか、区別がつかない言い方だった。


 俺は何も言わなかった。


 翌朝。


 騙した男の家は跡形もなく消えていた。



 昨日まで確かにそこにあった三階建ての屋敷が、土台ごとなくなっていた。


 あった場所の地面だけが、不自然に黒く焦げていた。


 朝の王都で、野次馬が集まって「何があったんだ」と囁き合っていた。


 消防団が水を運んできたが、もちろん何の意味もなかった。焦げているだけで、燃えているわけじゃない。


 俺は見なかったことにした。


 十年間、ずっとそうしてきた。


 ――――――――――


 十年前のことを、時々思い出す。


 魔女の塔は王都の外れに建っていた。

 

 白い石造りで、窓が少なくて、近づくほど独特の圧が漂ってくる建物だ。


 魔力が濃いのだと、後で知った。

 千年分の術式(じゅつしき)残滓(ざんし)が、石の一つ一つに染み込んでいるらしい。


 その塔の前に、才能ある魔法使いたちの列が続いていた。


 王国魔法学院の優秀な連中だ。

 みんな、弟子入りを志願しに来ていた。


 千年魔女エルザ。


 国宝指定で不老で最強。


 弟子は一人も取ったことがない。

 その弟子になれれば、どれだけのものが得られるか。


 列に並んでいる全員が、同じことを考えていた。


 俺は違うことを考えていた。


 列の先頭から、一人ずつ追い払われていった。

「才能が足りない」「魔力が低い」「顔が気に入らない」。

 

 理由はその都度変わった。


 全員が、二言三言で塔の外に追い出された。


 学院で最も才能があると言われたクレイグが塔から出てきた時、列がざわめいた。


 あの男が三十秒で追い返されたなら、残りに勝ち目はない。


 半分が帰った。


 俺の番になった。


 扉が開いた。


 正直に言う。


 心臓が一度、余計に跳ねた。


 前世で物語を読んでいたから顔は知っていた。挿絵(さしえ)があった。


 でも知っていることと、目の前に立つことは別だった。


 白いローブ。


 黒い長髪。


 息を呑むほど整った顔が、扉枠の中に収まっていた。


「国宝」という言葉の重さを、初めて理解した気がした。


 エルザは俺を一瞥した。

 その目に何かが宿るより前に、口が開いた。


「才能なし。帰れ」


 測るまでもなかったのだろう。


 俺の魔法適性はゼロだ。

 学院の入学試験で、測定石が一ミリも反応しなかった。


 後ろで笑いが上がった。


「三日前、王都の宝石商に騙されましたよね」


 エルザが動きを止めた。


「ダロフ商会の主人です。婚約詐欺の常習犯で、先代から同じ手口を使っています。証拠の書類があります。取り戻せます。他にも、お役に立てることがあります」


「……なぜ知っている」


 エルザの目が、今度はまっすぐ俺を見た。

 国宝指定の魔女の目だ。底が見えない。


 千年の重さがある。


 普通の人間なら足がすくむ。

 竦まなかったのは、こうなることを知っていたからだ。


「縁があったので」


 長い沈黙だった。


 エルザは俺の顔を、値踏みするように眺め続けた。

 

 才能を測り直しているわけではないだろう。才能なら最初の一秒で見切っている。


 では何を見ていたのか。

 今でもわからない。


「塔に入れ」


 エルザが(きびす)を返しながら、背中越しに言った。


「名は」


「リオンです」


 後ろで声が上がった。


「なぜあいつだけ」「才能もないのに」「ふざけるな」


 俺は振り返らなかった。


 ――――――――――


 最初の一年で、俺はエルザの生活のすべてを把握した。


 魔法は完璧だった。

 術式の精度、発動速度、応用の幅、どれも規格外で、俺には比べる基準すらない。

 

 魔法に関しては、俺の出番が一切ない。


 問題は、それ以外のすべてだった。


 財布の中身は常に空だった。


 国宝指定には国からの援助金が出るが、エルザはそれを「もらった端から消える」と言った。


 消えた先はだいたい想像がついた。


 食事は不規則で、寝る時間も決まっていない。


 塔の中に必要なものが何もなく、必要でないものが山積みになっていた。

 どこかで貰ったらしい花瓶が十七個あった。


 俺は黙って整理した。


 食料の補充サイクルを作った。


 援助金の管理を引き受けた。


 エルザは何も言わなかった。


 ただ飯が出ると食べたし、財布に金が入っていると使った。


 三ヶ月後、エルザが恋をした。

 

 相手は王都の商人だった。口がうまくて、身なりがよくて、エルザへの賛辞が絶え間なかった。


 千年生きた魔女が嘘を見抜けないはずがない。


 でも見抜いても、信じようとする。それがエルザだった。


 俺は何も言わなかった。


「なぜわかる」と聞かれたら、答えられない。


 二ヶ月後、エルザは財布を空にして塔に戻ってきた。


 俺は財布を渡した。


 翌日、商人の店は消えていた。


 そういうことが、何度も繰り返された。


 ある秋の夜、深夜に起きると、塔の一階でエルザが泣いていた。


 静かな泣き方だった。声も出していない。ただ肩が小さく動いていた。


 俺は台所でお茶を淹れて、そっと机の上に置いた。


 エルザは気づいているのかいないのか、何も言わなかった。


 翌朝、器は空だった。


「お前は便利だな」とエルザが言うようになったのは、二年目の頃だ。


「ありがとうございます」と俺は答えた。


 ――――――――――


 ある冬、エルザが「次こそ本物だ」と言って出かけた。


 いつもより上機嫌だった。わかっていて、それでも信じに行く。


 俺は何も言わなかった。


 帰ってきた時の顔は、今まで見た中で一番ひどかった。


 財布だけでなく、エルザが大事にしていた指輪まで自分から渡していた。

 金の台に赤い石が入った指輪で、エルザが唯一「大切なものだ」と言ったことのある品だった。


 盗まれたのではない。


 渡したのだ。


 その夜はお茶を二杯作った。


 エルザは両方飲んだ。


 何も言わなかった。


 翌日、俺は王都の質屋を十二軒回って指輪を見つけた。

 

 売り値で買い戻して、塔に帰った。


 エルザの机の上に、何も言わずに置いた。


 エルザは指輪を見て、それから俺を見た。


「……お前は便利だな」


 いつもと同じ言葉だった。

 でも声の温度が、少し違った気がした。


 俺は「ありがとうございます」と答えた。


 それ以上は何も言わなかった。


 俺は地下室で毎夜研究を続けていた。


 才能ゼロが魔法を習得できる唯一の方法は、習得する魔法を数種類に限定して磨き続けることだ。

 

 それでも十年かけて、ようやく一つの術式を完成させられるかどうかという話だ。


 俺は最初から何を選ぶか決めていた。

 誰にも言わなかった。

 エルザにも、学院の連中にも。


 三年間は、進んでいるのかどうかもわからなかった。


 術式の骨格を組もうとするたびに、どこかが崩れた。


 才能がない、ということは、魔力の流れを感じる感覚そのものが鈍いということだ。普通の魔法使いなら一秒でわかることが、俺には一時間かかる。


 それでも続けた。


 他に方法がなかった。


 やめようと思ったことはない、と言えば嘘になる。


 四年目の冬、地下室の床に座って、自分が何をしているのかわからなくなった夜があった。


 才能がゼロで、十年後にこの術式が完成する保証はない。

 

 そもそも、転生前に読んでいたのが本当にこの世界の話なのかも、証明できない。俺が全部思い違いをしていて、ただの家政夫として過ごすだけかもしれない。


 でも翌朝、エルザが「お前の淹れたお茶は少し苦い」と言いながら全部飲んでいた。


 それで十分だった。


 続けた。


 八年目の冬、骨格が完成した。


 地下室の床に倒れて、天井を見上げた。


 指先が震えていた。


 あと二年あれば、実戦で使えるものになる。


 間に合う。


 同期のクレイグが宮廷魔法士(きゅうていまほうし)になったのは三年目だった。


「まだやってるのか」と笑われた。


 五年目も、七年目も、同じことを言われた。


 俺も同じように笑い返した。


 ――――――――――


 ある夜、エルザが弱音を吐いた。


 珍しいことだった。


 男に騙された後、エルザは翌朝には何事もなかった顔をして起きてくる。

 

 それがこの十年の通例だった。


 ところがその夜は違った。


 お茶を置いた俺が部屋を出ようとした時、背後から、ためらうような声がした。


「千年生きて、なぜ毎回同じ失敗をするんだろうな」


 俺は足を止めた。

 振り返ると、エルザは窓の外を見ていた。


 窓の外に、白くて静かな月があった。


 その光の中で、永遠に二十代の顔が、やけに疲れて見えた。

 千年分の疲れが、今夜だけ表に滲み出ていた。


「師匠は騙されやすいんじゃなくて、信じたいんだと思います」


 エルザが黙った。


「千年たっても、信じることをやめられない。それは弱さじゃないと思います」


「……生意気なことを言うな」


「すみません」


 長い沈黙が続いた。


 月がゆっくりと動いた。


 蝋燭の火が一度揺れた。


 エルザがまだ窓の外を見たまま言った。


「お前は騙さないな」


 俺は答えなかった。

 答えられなかった、と言う方が正しい。


 俺はエルザに嘘をついたことはない。


「縁があったので」は嘘ではない。

「お役に立てることがあります」も嘘ではない。

 

 全部本当のことだ。

 でも本当のことを全部言ったわけでもない。


「騙さない」と「全部話す」は、別のことだ。

 俺は、その言葉の重さを知っていた。


「千年生きても、騙された傷は消えないんですか」


 気づいたら、そう言っていた。


 エルザがわずかに動いた。


「消えない」


 短く、それだけ言った。


「消えるとも思っていない。ただ、また信じたくなる。千年たっても、毎回そうだ」


 目が、濡れていた。


 俺は返事ができなかった。


 月光がエルザの横顔に落ちていた。


 黒い長髪が肩に垂れて、若々しい輪郭が夜の中に浮かんでいた。


 濡れた目が月を映して、かすかに光っていた。


 見惚(みと)れていた、と気づいたのは少し後だ。


 俺はずっと動けなかった。


「……バカだろう、私は」


 自分に言うように、エルザは(つぶや)いた。


「いいえ」と俺は言った。


 エルザが俺を見た。


「バカじゃないと思います」


 それ以上は言わなかった。


 ――――――――――


 魔王が現れたのは、それから半年後だった。


 王都の中央広場。


 整った顔立ちで物腰の落ち着いた男が、広場を歩くエルザの前にひざまずいて、こう言った。


「エルザ様。かねてよりお慕い申し上げておりました」


 千年かけて準備してきた登場に見えた。


 エルザの眉の角度が、わずかに緩んだ。唇が少し開く。


 かれた時の、顔だった。


 胃の底が冷えた。


 今日だ。



 ―――指先が、冷たかった。



 前世で読んだ物語では、エルザはこの日に死んだ。



 俺は前に出た。


「この男は魔王です」


 エルザが横目で俺を見た。


「なぜわかる」という目だ。


「縁があったので」


 男が笑った。俺を見る目に、一ミリの警戒もなかった。


「才能なしの小僧が何をする」


 広場の周囲に人垣ができていた。


 野次馬の中に、宮廷魔法士の金色の徽章(きしょう)をつけたクレイグがいた。


 目が合った。冷たい目だった。


 それが一番堪こたえた。


 俺は構わなかった。


 魔王が、笑うのをやめた。整った顔の下から黒い何かがずるずると這い出し、音を立てて膨れ上がった。


 一瞬で背丈が建物の屋根を越え、広場の端から端まで影になった。


 黒い霧が口から溢れて広がった。触れた石畳が腐り落ちていった。


 悲鳴が上がって、野次馬が一斉に逃げ出した。


「小僧」


 地の底から響くような声に変わっていた。


「面白い。千年ぶりに、見抜かれたか」


 黒い霧が俺に向かって押し寄せた。


 その時、エルザが前に出た。


 白いローブが(ひるがえ)った。


 右手が空中に向かって開いた。


 指先に、黒い光が灯った。


 根源魔法(こんげんまほう)——前世の物語で見た。一度放てば、山脈ごと消える。


「——消えろ」


 エルザの声が、変わっていた。感情が、なかった。


 黒い光が魔王に向かって撃ち出された。


 魔王の巨体が信じられない速さで身をよじった。根源魔法の直撃を、紙一重で躱した。


 それだけで広場の建物がすべて消し飛んだ。


 地平線が見えた。


「千年待った甲斐があった。その術式さえ手に入れれば——世界など、指一本だ」


 巨体が縮んだ。一瞬で人間の形に戻った。


 (かわ)しながら、もう動いていた。


 エルザの背後に回っていた。手が伸びた。


「師匠——っ」


 俺が叫ぶより早かった。


 魔王の指先がエルザの肩に触れた。


 エルザの首筋から鎖骨にかけて、黒い紋様が刻まれていった。


 強制婚姻魔法きょうせいこんいんまほうだ。


 エルザが動きを止めた。


 魔王が人間の顔に戻って、微笑んだ。


「エルザ。我のことが、好きだろう」


 エルザの目の焦点が定まっていなかった。


「……ええ」


 声が、違った。まるで夢の中にいる人間のような、どこか遠い声だった。

 

 そしてエルザが、俺を見た。


 腕が上がった。


 指先に黒い光が灯った。


 さっき魔王に向けたのと同じ、根源魔法の光だ。


「邪魔をするな」


 エルザの声で、エルザじゃない何かが言った。



 十年、この一瞬だけを考えてきた。



 師匠を傷つけるためじゃない。師匠を、死なせないためだ。



「すみません、師匠」



 反射術式を、展開した。


 エルザの黒い光が撃ち出された。術式の面に触れた瞬間、反転した。


 根源魔法が、真っすぐ跳ね返った。


 エルザが、反応したが間に合わなかった。


 爆音。

 白煙。


 エルザの体が宙を舞った。


 俺は咄嗟に防御術式を展開した。

 着地を、和らげた。


 エルザは地面に倒れていた。ぐったりとしていた。


 魔王が笑い声を上げた。


「人間が師匠に謝っている。滑稽(こっけい)だな」


 魔王を見た。


 物語では、エルザはここで死んだ。



 ―――絶対に死なせない。



 才能がない分、深さで勝つ。魔力がない分、精度で勝つ。


 術式を展開した。


 光が生まれた。


 眩しいなんてものじゃない。真昼の太陽を広場に叩き落としたような光だった。


 黒い霧が蒸発した。


 エルザの首筋に刻まれていた紋様が、悲鳴を上げるように剥がれた。


 その瞬間、黒い霧が一点に収束した。


 魔王が動いた。

 術式を組んでいる最中を、狙っていた。


 避けられなかった。


 衝撃が、胸の芯に叩き込まれた。骨の折れる音がした。肺から空気が消えた。


 石畳に叩きつけられた。


 魔王が歩み寄ってきた。


 黒い爪が、俺の腹を貫いた。


「お前の師匠も、世界も、我のものだ」


 術式が、崩れかけた。指から糸が解けていく感覚があった。


 ―――あの夜、月光の中で振り返った師匠の、長い黒髪が揺れた。



 駄目だ、と思った。



 最後の力を、振り絞った。



 指先から、白い光が膨れ上がった。



「な——これは——」


 魔王の声が、遠くで聞こえた。


 肺に空気がなかった。

 それでも、声を出した。


「師匠を騙しに来る奴がいると思っていたので、準備していました」


 誰に何と言われようと、十年磨いてきた術式だった。


 最後の魔法を放った。


 轟音(ごうおん)が広場を貫いた。


 衝撃波が同心円状(どうしんえんじょう)に広がって、残っていた野次馬を根こそぎ吹き飛ばした。


 石畳が砕けた。

 建物の窓が割れた。

 空が白く染まった。


 魔王が叫んだ。叫び声が途中で消えた。


 光の中に、黒い影が溶けていった。


 灰すら残らなかった。


 静寂。


 そこで、限界だった。起き上がれなかった。


 目の前の石畳が、赤かった。川のように血が流れて、石の目地に沿って広がっていた。

 

 石畳の冷たさだけが、残っていた。



 やがてそれも、なくなった。



 ――――――――――



 気づいたとき、エルザの膝の上にいた。


 エルザが先に意識を取り戻していたらしかった。


 千年の魔女の両手が、俺の胸に置かれていた。


 黒い長髪が垂れて、顔が近かった。

 

 目が、赤くなっていた。

 

 光が走った。白ではない。見たことのない色だった。熱くも冷たくもない。


 骨が、肺が、血が——(さかのぼ)るように戻っていった。


 息が戻った。痛みはなかった。


 エルザが手を離して、俺を見ていた。


 感情の読めない顔だった。


 クレイグが、口を開けたまま、地面に座り込んでいた。


「なぜここまでした」


 エルザの顔が、近かった。眉が、微かに下がっていた。目が、少し光っていた。


 俺はゆっくり起き上がった。


 少し考えた。



 十年間、一度も言わなかったことだ。ずっと言わないまま終えるつもりだった。



 でも今日は違う。



「転生者なんです、俺」



 エルザが片方の眉を上げた。



「前世があります。前世で、この世界の物語を読んでいました。別の世界で書かれた話でした。その物語では、師匠が今日、魔王の強制婚姻魔法に捕まって、抵抗して、死ぬ結末でした」



「……」



「それを知っていたので、弟子になりに来ました。弟子にしてくれなくてもよかった。塔の外で待つつもりでした。それだけできれば十分だと思っていました」



 周囲の喧騒が遠くなった気がした。



「あなたが死ぬのが、嫌でした」



 感謝でも忠誠でもなく、ただそれだけが最初から最後まで変わらなかった理由だ。



 エルザは沈黙していた。



 俺はただ待った。



 広場に集まっていた野次馬たちも、なぜか静かになっていた。



 ―――言ってしまった。言わないつもりだった。



 今日エルザが死なずに済めば、それでよかった。



「お前が来た日、なぜ塔に入れたかわかるか」


 

 エルザが静かな声で言った。



「何かを感じてくださったんじゃないかと思っていました」



「違う。千年間、私に近づいた男は全員、何かを求めていた。魔法を。力を。美貌を。お前だけが、最初から私のために来た。それが珍しかった」



「……そうとも言えます」



「そうとも、とはどういう意味だ」



「俺のためでもありました。あなたに死んでほしくなかった。その気持ちは、最初から俺自身のものでした」



 エルザがしばらく俺を見た。目の奥に、何かが動いた。




「……千年生きて、初めて本当のことを言う男に会った」




 俺は息を吸った。



 十年間、言いそびれてきた言葉が、今なら言える気がした。




「師匠、俺は——」


「夫にしてやる」




 エルザが先に言った。




 俺は固まった。


「それは俺が言う予定でした」


「遅い」


 エルザが俺の懐に手を差し込んだ。


 財布を抜き取った。ためらいは微塵もなかった。


「当面の生活費、借りるぞ」


「返してください」


「千年後に」


 エルザはすでに歩き出していた。


 財布を手に、塔の方向へ。


 遠くでクレイグが地面に座り込んでいた。口が閉じていなかった。


 俺はエルザの背中を追いながら、肩から何かが落ちていくのを感じた。


 歩きながら、エルザが言った。



「お前は騙さないな」



 エルザが振り返った。


 千年生きた女が、初めて見る顔で、笑っていた。

「千年生きた最強の魔女が、なぜか毎回騙される」

という一行の思いつきから始まった話です。


最後もいい意味で、エルザは騙されていたのかもしれませんね。


この二人のその後は、どうなるんだろうと想像しています。

もし反響があれば、また書いてみたいと思っています。


★やブックマークを、そっと置いていってもらえたら嬉しいです。


ここまで読んでくださって、ありがとうございます。

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