千年魔女の弟子になって十年、「夫にしてやる」と先に言われました。それは俺が言う予定だったんですが。
師匠が今日も誰かに騙された。
帰ってきた時の顔でわかる。
眉が少しだけ下がって、口の端が微妙に歪んでいる。
夕暮れの光の中、千年生きた最強の魔女が塔の扉を開けて入ってきた。
ローブの裾が埃をかぶっていて、靴底にはまだ乾いていない泥がついていた。かなり遠くまで行ってきた証拠だ。
それでもきれいだった。
機嫌が悪かろうが、財布が空だろうが、千年変わらない美貌が、夕暮れの橙色を受けてそこにある。
俺が十年この塔にいて慣れたつもりでも、塔の外の人間はそうじゃない。
エルザが王都を歩けば、振り向かない人間がいない。本人は前を向いたまま、気にした素振りもない。
「素敵な男性だったのに」
エルザはそう言いながら、いつもの椅子に崩れるように座った。
机の上に片肘をついて、頬杖をつく。
ただ遠い目をして、窓の外の夜空を眺めている。
俺は無言で財布を差し出した。
エルザは頬杖を外して、それを受け取り、中身を確かめもせずに懐にしまった。
ありがとうの代わりに、小さなため息が一つ出た。
それだけだ。
しばらく沈黙が続いた。
エルザはまだ窓の外を見ている。
俺は台所に行ってお茶を淹れた。
机の上に置いた。エルザは気づいているのかいないのか、黙ったままだ。
「何があったんですか」と俺は聞いた。
「三日前から会っていた。昨日まではよかった」
「どんな男でしたか」
「背が高くて、声がよかった。嘘が上手だった」
最後の一言を、エルザは呟くように言った。
「嘘が上手だった」
褒めているのか、嘆いているのか、区別がつかない言い方だった。
俺は何も言わなかった。
翌朝。
騙した男の家は跡形もなく消えていた。
昨日まで確かにそこにあった三階建ての屋敷が、土台ごとなくなっていた。
あった場所の地面だけが、不自然に黒く焦げていた。
朝の王都で、野次馬が集まって「何があったんだ」と囁き合っていた。
消防団が水を運んできたが、もちろん何の意味もなかった。焦げているだけで、燃えているわけじゃない。
俺は見なかったことにした。
十年間、ずっとそうしてきた。
――――――――――
十年前のことを、時々思い出す。
魔女の塔は王都の外れに建っていた。
白い石造りで、窓が少なくて、近づくほど独特の圧が漂ってくる建物だ。
魔力が濃いのだと、後で知った。
千年分の術式の残滓が、石の一つ一つに染み込んでいるらしい。
その塔の前に、才能ある魔法使いたちの列が続いていた。
王国魔法学院の優秀な連中だ。
みんな、弟子入りを志願しに来ていた。
千年魔女エルザ。
国宝指定で不老で最強。
弟子は一人も取ったことがない。
その弟子になれれば、どれだけのものが得られるか。
列に並んでいる全員が、同じことを考えていた。
俺は違うことを考えていた。
列の先頭から、一人ずつ追い払われていった。
「才能が足りない」「魔力が低い」「顔が気に入らない」。
理由はその都度変わった。
全員が、二言三言で塔の外に追い出された。
学院で最も才能があると言われたクレイグが塔から出てきた時、列がざわめいた。
あの男が三十秒で追い返されたなら、残りに勝ち目はない。
半分が帰った。
俺の番になった。
扉が開いた。
正直に言う。
心臓が一度、余計に跳ねた。
前世で物語を読んでいたから顔は知っていた。挿絵があった。
でも知っていることと、目の前に立つことは別だった。
白いローブ。
黒い長髪。
息を呑むほど整った顔が、扉枠の中に収まっていた。
「国宝」という言葉の重さを、初めて理解した気がした。
エルザは俺を一瞥した。
その目に何かが宿るより前に、口が開いた。
「才能なし。帰れ」
測るまでもなかったのだろう。
俺の魔法適性はゼロだ。
学院の入学試験で、測定石が一ミリも反応しなかった。
後ろで笑いが上がった。
「三日前、王都の宝石商に騙されましたよね」
エルザが動きを止めた。
「ダロフ商会の主人です。婚約詐欺の常習犯で、先代から同じ手口を使っています。証拠の書類があります。取り戻せます。他にも、お役に立てることがあります」
「……なぜ知っている」
エルザの目が、今度はまっすぐ俺を見た。
国宝指定の魔女の目だ。底が見えない。
千年の重さがある。
普通の人間なら足が竦む。
竦まなかったのは、こうなることを知っていたからだ。
「縁があったので」
長い沈黙だった。
エルザは俺の顔を、値踏みするように眺め続けた。
才能を測り直しているわけではないだろう。才能なら最初の一秒で見切っている。
では何を見ていたのか。
今でもわからない。
「塔に入れ」
エルザが踵を返しながら、背中越しに言った。
「名は」
「リオンです」
後ろで声が上がった。
「なぜあいつだけ」「才能もないのに」「ふざけるな」
俺は振り返らなかった。
――――――――――
最初の一年で、俺はエルザの生活のすべてを把握した。
魔法は完璧だった。
術式の精度、発動速度、応用の幅、どれも規格外で、俺には比べる基準すらない。
魔法に関しては、俺の出番が一切ない。
問題は、それ以外のすべてだった。
財布の中身は常に空だった。
国宝指定には国からの援助金が出るが、エルザはそれを「もらった端から消える」と言った。
消えた先はだいたい想像がついた。
食事は不規則で、寝る時間も決まっていない。
塔の中に必要なものが何もなく、必要でないものが山積みになっていた。
どこかで貰ったらしい花瓶が十七個あった。
俺は黙って整理した。
食料の補充サイクルを作った。
援助金の管理を引き受けた。
エルザは何も言わなかった。
ただ飯が出ると食べたし、財布に金が入っていると使った。
三ヶ月後、エルザが恋をした。
相手は王都の商人だった。口がうまくて、身なりがよくて、エルザへの賛辞が絶え間なかった。
千年生きた魔女が嘘を見抜けないはずがない。
でも見抜いても、信じようとする。それがエルザだった。
俺は何も言わなかった。
「なぜわかる」と聞かれたら、答えられない。
二ヶ月後、エルザは財布を空にして塔に戻ってきた。
俺は財布を渡した。
翌日、商人の店は消えていた。
そういうことが、何度も繰り返された。
ある秋の夜、深夜に起きると、塔の一階でエルザが泣いていた。
静かな泣き方だった。声も出していない。ただ肩が小さく動いていた。
俺は台所でお茶を淹れて、そっと机の上に置いた。
エルザは気づいているのかいないのか、何も言わなかった。
翌朝、器は空だった。
「お前は便利だな」とエルザが言うようになったのは、二年目の頃だ。
「ありがとうございます」と俺は答えた。
――――――――――
ある冬、エルザが「次こそ本物だ」と言って出かけた。
いつもより上機嫌だった。わかっていて、それでも信じに行く。
俺は何も言わなかった。
帰ってきた時の顔は、今まで見た中で一番ひどかった。
財布だけでなく、エルザが大事にしていた指輪まで自分から渡していた。
金の台に赤い石が入った指輪で、エルザが唯一「大切なものだ」と言ったことのある品だった。
盗まれたのではない。
渡したのだ。
その夜はお茶を二杯作った。
エルザは両方飲んだ。
何も言わなかった。
翌日、俺は王都の質屋を十二軒回って指輪を見つけた。
売り値で買い戻して、塔に帰った。
エルザの机の上に、何も言わずに置いた。
エルザは指輪を見て、それから俺を見た。
「……お前は便利だな」
いつもと同じ言葉だった。
でも声の温度が、少し違った気がした。
俺は「ありがとうございます」と答えた。
それ以上は何も言わなかった。
俺は地下室で毎夜研究を続けていた。
才能ゼロが魔法を習得できる唯一の方法は、習得する魔法を数種類に限定して磨き続けることだ。
それでも十年かけて、ようやく一つの術式を完成させられるかどうかという話だ。
俺は最初から何を選ぶか決めていた。
誰にも言わなかった。
エルザにも、学院の連中にも。
三年間は、進んでいるのかどうかもわからなかった。
術式の骨格を組もうとするたびに、どこかが崩れた。
才能がない、ということは、魔力の流れを感じる感覚そのものが鈍いということだ。普通の魔法使いなら一秒でわかることが、俺には一時間かかる。
それでも続けた。
他に方法がなかった。
やめようと思ったことはない、と言えば嘘になる。
四年目の冬、地下室の床に座って、自分が何をしているのかわからなくなった夜があった。
才能がゼロで、十年後にこの術式が完成する保証はない。
そもそも、転生前に読んでいたのが本当にこの世界の話なのかも、証明できない。俺が全部思い違いをしていて、ただの家政夫として過ごすだけかもしれない。
でも翌朝、エルザが「お前の淹れたお茶は少し苦い」と言いながら全部飲んでいた。
それで十分だった。
続けた。
八年目の冬、骨格が完成した。
地下室の床に倒れて、天井を見上げた。
指先が震えていた。
あと二年あれば、実戦で使えるものになる。
間に合う。
同期のクレイグが宮廷魔法士になったのは三年目だった。
「まだやってるのか」と笑われた。
五年目も、七年目も、同じことを言われた。
俺も同じように笑い返した。
――――――――――
ある夜、エルザが弱音を吐いた。
珍しいことだった。
男に騙された後、エルザは翌朝には何事もなかった顔をして起きてくる。
それがこの十年の通例だった。
ところがその夜は違った。
お茶を置いた俺が部屋を出ようとした時、背後から、ためらうような声がした。
「千年生きて、なぜ毎回同じ失敗をするんだろうな」
俺は足を止めた。
振り返ると、エルザは窓の外を見ていた。
窓の外に、白くて静かな月があった。
その光の中で、永遠に二十代の顔が、やけに疲れて見えた。
千年分の疲れが、今夜だけ表に滲み出ていた。
「師匠は騙されやすいんじゃなくて、信じたいんだと思います」
エルザが黙った。
「千年たっても、信じることをやめられない。それは弱さじゃないと思います」
「……生意気なことを言うな」
「すみません」
長い沈黙が続いた。
月がゆっくりと動いた。
蝋燭の火が一度揺れた。
エルザがまだ窓の外を見たまま言った。
「お前は騙さないな」
俺は答えなかった。
答えられなかった、と言う方が正しい。
俺はエルザに嘘をついたことはない。
「縁があったので」は嘘ではない。
「お役に立てることがあります」も嘘ではない。
全部本当のことだ。
でも本当のことを全部言ったわけでもない。
「騙さない」と「全部話す」は、別のことだ。
俺は、その言葉の重さを知っていた。
「千年生きても、騙された傷は消えないんですか」
気づいたら、そう言っていた。
エルザがわずかに動いた。
「消えない」
短く、それだけ言った。
「消えるとも思っていない。ただ、また信じたくなる。千年たっても、毎回そうだ」
目が、濡れていた。
俺は返事ができなかった。
月光がエルザの横顔に落ちていた。
黒い長髪が肩に垂れて、若々しい輪郭が夜の中に浮かんでいた。
濡れた目が月を映して、かすかに光っていた。
見惚れていた、と気づいたのは少し後だ。
俺はずっと動けなかった。
「……バカだろう、私は」
自分に言うように、エルザは呟いた。
「いいえ」と俺は言った。
エルザが俺を見た。
「バカじゃないと思います」
それ以上は言わなかった。
――――――――――
魔王が現れたのは、それから半年後だった。
王都の中央広場。
整った顔立ちで物腰の落ち着いた男が、広場を歩くエルザの前に跪いて、こう言った。
「エルザ様。かねてよりお慕い申し上げておりました」
千年かけて準備してきた登場に見えた。
エルザの眉の角度が、わずかに緩んだ。唇が少し開く。
魅かれた時の、顔だった。
胃の底が冷えた。
今日だ。
―――指先が、冷たかった。
前世で読んだ物語では、エルザはこの日に死んだ。
俺は前に出た。
「この男は魔王です」
エルザが横目で俺を見た。
「なぜわかる」という目だ。
「縁があったので」
男が笑った。俺を見る目に、一ミリの警戒もなかった。
「才能なしの小僧が何をする」
広場の周囲に人垣ができていた。
野次馬の中に、宮廷魔法士の金色の徽章をつけたクレイグがいた。
目が合った。冷たい目だった。
それが一番堪えた。
俺は構わなかった。
魔王が、笑うのをやめた。整った顔の下から黒い何かがずるずると這い出し、音を立てて膨れ上がった。
一瞬で背丈が建物の屋根を越え、広場の端から端まで影になった。
黒い霧が口から溢れて広がった。触れた石畳が腐り落ちていった。
悲鳴が上がって、野次馬が一斉に逃げ出した。
「小僧」
地の底から響くような声に変わっていた。
「面白い。千年ぶりに、見抜かれたか」
黒い霧が俺に向かって押し寄せた。
その時、エルザが前に出た。
白いローブが翻った。
右手が空中に向かって開いた。
指先に、黒い光が灯った。
根源魔法——前世の物語で見た。一度放てば、山脈ごと消える。
「——消えろ」
エルザの声が、変わっていた。感情が、なかった。
黒い光が魔王に向かって撃ち出された。
魔王の巨体が信じられない速さで身をよじった。根源魔法の直撃を、紙一重で躱した。
それだけで広場の建物がすべて消し飛んだ。
地平線が見えた。
「千年待った甲斐があった。その術式さえ手に入れれば——世界など、指一本だ」
巨体が縮んだ。一瞬で人間の形に戻った。
躱しながら、もう動いていた。
エルザの背後に回っていた。手が伸びた。
「師匠——っ」
俺が叫ぶより早かった。
魔王の指先がエルザの肩に触れた。
エルザの首筋から鎖骨にかけて、黒い紋様が刻まれていった。
強制婚姻魔法だ。
エルザが動きを止めた。
魔王が人間の顔に戻って、微笑んだ。
「エルザ。我のことが、好きだろう」
エルザの目の焦点が定まっていなかった。
「……ええ」
声が、違った。まるで夢の中にいる人間のような、どこか遠い声だった。
そしてエルザが、俺を見た。
腕が上がった。
指先に黒い光が灯った。
さっき魔王に向けたのと同じ、根源魔法の光だ。
「邪魔をするな」
エルザの声で、エルザじゃない何かが言った。
十年、この一瞬だけを考えてきた。
師匠を傷つけるためじゃない。師匠を、死なせないためだ。
「すみません、師匠」
反射術式を、展開した。
エルザの黒い光が撃ち出された。術式の面に触れた瞬間、反転した。
根源魔法が、真っすぐ跳ね返った。
エルザが、反応したが間に合わなかった。
爆音。
白煙。
エルザの体が宙を舞った。
俺は咄嗟に防御術式を展開した。
着地を、和らげた。
エルザは地面に倒れていた。ぐったりとしていた。
魔王が笑い声を上げた。
「人間が師匠に謝っている。滑稽だな」
魔王を見た。
物語では、エルザはここで死んだ。
―――絶対に死なせない。
才能がない分、深さで勝つ。魔力がない分、精度で勝つ。
術式を展開した。
光が生まれた。
眩しいなんてものじゃない。真昼の太陽を広場に叩き落としたような光だった。
黒い霧が蒸発した。
エルザの首筋に刻まれていた紋様が、悲鳴を上げるように剥がれた。
その瞬間、黒い霧が一点に収束した。
魔王が動いた。
術式を組んでいる最中を、狙っていた。
避けられなかった。
衝撃が、胸の芯に叩き込まれた。骨の折れる音がした。肺から空気が消えた。
石畳に叩きつけられた。
魔王が歩み寄ってきた。
黒い爪が、俺の腹を貫いた。
「お前の師匠も、世界も、我のものだ」
術式が、崩れかけた。指から糸が解けていく感覚があった。
―――あの夜、月光の中で振り返った師匠の、長い黒髪が揺れた。
駄目だ、と思った。
最後の力を、振り絞った。
指先から、白い光が膨れ上がった。
「な——これは——」
魔王の声が、遠くで聞こえた。
肺に空気がなかった。
それでも、声を出した。
「師匠を騙しに来る奴がいると思っていたので、準備していました」
誰に何と言われようと、十年磨いてきた術式だった。
最後の魔法を放った。
轟音が広場を貫いた。
衝撃波が同心円状に広がって、残っていた野次馬を根こそぎ吹き飛ばした。
石畳が砕けた。
建物の窓が割れた。
空が白く染まった。
魔王が叫んだ。叫び声が途中で消えた。
光の中に、黒い影が溶けていった。
灰すら残らなかった。
静寂。
そこで、限界だった。起き上がれなかった。
目の前の石畳が、赤かった。川のように血が流れて、石の目地に沿って広がっていた。
石畳の冷たさだけが、残っていた。
やがてそれも、なくなった。
――――――――――
気づいたとき、エルザの膝の上にいた。
エルザが先に意識を取り戻していたらしかった。
千年の魔女の両手が、俺の胸に置かれていた。
黒い長髪が垂れて、顔が近かった。
目が、赤くなっていた。
光が走った。白ではない。見たことのない色だった。熱くも冷たくもない。
骨が、肺が、血が——遡るように戻っていった。
息が戻った。痛みはなかった。
エルザが手を離して、俺を見ていた。
感情の読めない顔だった。
クレイグが、口を開けたまま、地面に座り込んでいた。
「なぜここまでした」
エルザの顔が、近かった。眉が、微かに下がっていた。目が、少し光っていた。
俺はゆっくり起き上がった。
少し考えた。
十年間、一度も言わなかったことだ。ずっと言わないまま終えるつもりだった。
でも今日は違う。
「転生者なんです、俺」
エルザが片方の眉を上げた。
「前世があります。前世で、この世界の物語を読んでいました。別の世界で書かれた話でした。その物語では、師匠が今日、魔王の強制婚姻魔法に捕まって、抵抗して、死ぬ結末でした」
「……」
「それを知っていたので、弟子になりに来ました。弟子にしてくれなくてもよかった。塔の外で待つつもりでした。それだけできれば十分だと思っていました」
周囲の喧騒が遠くなった気がした。
「あなたが死ぬのが、嫌でした」
感謝でも忠誠でもなく、ただそれだけが最初から最後まで変わらなかった理由だ。
エルザは沈黙していた。
俺はただ待った。
広場に集まっていた野次馬たちも、なぜか静かになっていた。
―――言ってしまった。言わないつもりだった。
今日エルザが死なずに済めば、それでよかった。
「お前が来た日、なぜ塔に入れたかわかるか」
エルザが静かな声で言った。
「何かを感じてくださったんじゃないかと思っていました」
「違う。千年間、私に近づいた男は全員、何かを求めていた。魔法を。力を。美貌を。お前だけが、最初から私のために来た。それが珍しかった」
「……そうとも言えます」
「そうとも、とはどういう意味だ」
「俺のためでもありました。あなたに死んでほしくなかった。その気持ちは、最初から俺自身のものでした」
エルザがしばらく俺を見た。目の奥に、何かが動いた。
「……千年生きて、初めて本当のことを言う男に会った」
俺は息を吸った。
十年間、言いそびれてきた言葉が、今なら言える気がした。
「師匠、俺は——」
「夫にしてやる」
エルザが先に言った。
俺は固まった。
「それは俺が言う予定でした」
「遅い」
エルザが俺の懐に手を差し込んだ。
財布を抜き取った。ためらいは微塵もなかった。
「当面の生活費、借りるぞ」
「返してください」
「千年後に」
エルザはすでに歩き出していた。
財布を手に、塔の方向へ。
遠くでクレイグが地面に座り込んでいた。口が閉じていなかった。
俺はエルザの背中を追いながら、肩から何かが落ちていくのを感じた。
歩きながら、エルザが言った。
「お前は騙さないな」
エルザが振り返った。
千年生きた女が、初めて見る顔で、笑っていた。
「千年生きた最強の魔女が、なぜか毎回騙される」
という一行の思いつきから始まった話です。
最後もいい意味で、エルザは騙されていたのかもしれませんね。
この二人のその後は、どうなるんだろうと想像しています。
もし反響があれば、また書いてみたいと思っています。
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