悪魔の寵愛
アキアは走った。
月明かりをたよりに石畳の路地裏を死に物狂いで走った。
涙にまみれ、腹から血を流してなお、アキアは生きたかった。
「こ、こんなはずじゃなかった……!」
アキアは、生まれた瞬間から不運だった。
商家の次女として生まれたものの、父親の髪色とは似ても似つかぬ姿から不義の子だと発覚した。激怒した父親に殺されそうになったが、母の必死の懇願によりなんとか一命は取り留めた。
だが、裕福な暮らしをする兄弟とは反対に、最後二日目から厩の隅で老齢の馬丁に世話をされることとなった。母と引き離されたアキアは、動物の乳をもらい生き延びた。
不衛生な環境で大きな病気もせず運良く育ったものの、八歳の頃、洗濯女中としての仕事を与えられた。
朝から日が暮れるまで水場で延々と洗濯物を手洗いしていく。大人ですら重労働な場で、たいした仕事もできないアキアは女中たちのストレス発散の餌食となった。仕事が遅いと頭を叩かれ、腹を蹴られる。成長とともに仕事の精度があがっても、その役割が変わることはなかった。
しかしアキアが十二歳になると状況が変わった。
成長とともに彼女の美貌が花開いたのだ。白金色の髪、日に焼けてもなお白く透き通った肌、冬の透き通った空のような瞳。もとから備わっていたそれらが、幼女から少女へと変身しつつあるアキアの顔を、より特別な存在へと昇華した。
薄汚れた服をまとっていても、翳ることのない美しさにまわりの男たちは夢中になった。それが余計に女中たちを刺激した。
ある夜のこと、足音が聞こえてアキアが目覚めると、寝床の厩に小火を見つけた。馬丁たちと急いで馬を避難させるが、事態を重くみた親がわりの馬丁に、小火騒ぎに乗じてこの街から逃げるようにうながされる。雀の涙ほどの硬貨と、「幸せになるんだよ」と馬丁から受け取った模様の彫られた石のお守りだけを手に、アキアは夜の闇にまぎれ街を脱した。
知識も金も、なにもかもが足りないアキアがすぐに花を散らしたのは当然のことと言えた。しかし、その経験は彼女が生きるために役立った。花を売ることで、アキアは社会を覚えたのだ。
アキアの願いは、幼い頃から変わらない。
生きること、そして幸せになること。
幼い頃、屋敷でときおり見かけた楽しげな家族の姿。それを目標に、彼女は成り上がるため虎視眈々と情報を集め、ようやくその道筋を見つけた。家柄の良い男性を見つけて、アキアは美貌の対価に家女中の職を得たのだ。
そこからは、家主との関係を女主人に問い詰められる前に紹介状をもらい、より資産のある家へと渡り歩いた。美貌の女は女の敵。どこへいってもアキアは疎まれ虐められたが、火がひろがるあの日の光景を思い出せば、すべて可愛いものだった。
そうしてアキアが十六歳になったとき、ついに貴族の屋敷で働くこととなった。
いままで渡り歩いた上級市民とは格が違う。いままで盗むように得ていた知識や常識が、ここでは教育という名目で先輩から与えられるのだ。一日に食事が三度も与えられたことに驚いたアキアは、さらなる衝撃をうけた。支給された女中服は午前と午後で着替えるのだ。
「一生ここで働きたいわ」
いつか描いた夢の姿は、楽しげで裕福な家族。しかしアキアの生家は田舎町の商家だ。着ている服の質も、住んでいる街のきらびやかさも、いち女中にすぎない今のアキアのほうが優れている。
夢は形を変えるもの。
誰か使用人と家庭を築き、計算して子どもをつくれば乳母になれるかも、とアキアは夢想する。
現実的に考えれば家柄と呼べるものもないアキアに乳母は無理でも、真面目に働けば台所女中には昇格できるかもしれない。そんな彼女の夢を変えたのは、他ならぬ屋敷の主であった。
「アキア、なんてきみは美しいんだ」
主は時間を見つけてはアキアを呼んでは夜をともにし、宝石や花、風景など色々なものに例えてアキアの美しさを褒め称えた。そして後日、褒め言葉に連なる贈り物をアキアに捧げるのだ。
アキアの心は高揚すると同時に、不安に襲われた。
これだけ頻繁に呼ばれては、奥様に気づかれてしまう────いままでの職場を去る要因は、女主人に関係を疑われたためだった。
現在の女主人はこれまでとは格が違う。護衛とも呼べる従僕を侍らせ、資産と由緒正しい家柄をもつ高貴な女性。過去の屋敷であれば、もし問い詰められても追放や鞭打ち程度で済むだろう。
しかし相手が貴族ともなれば寝てる間に殺されるどころか、真昼間から断罪されたっておかしくない。
だからと言って、同じ理由で主を拒むことなどアキアにできやしないのだ。部屋を不在にするところを同僚に見られ、主の部屋にいくところを使用人たちにじっと見つめられる。これではその日がいつ来てもおかしくはない。
日に日に元気を失っていくアキアを察して、主は言った。
「貴族は家柄で婚姻するんだ。僕が愛しているのはアキア、きみだけだよ」
それは、アキアの心を甘く溶かした。
「安心して。彼女だって好き勝手に遊びまわっているし、きみだけを愛している僕と違ってもっとひどいものだ。それに、いまは公妾だって認められる時代だよ。だとすれば僕が愛人としてきみをかこったとしても、誰も咎めたりはできないさ」
「あなたを信じます。わたしも、あなたを愛しています」
身分違いの主に「あなた」呼びを許されたアキアは、自分の幸せはここにあったのだと歓喜した。
夢はまた形を変える。
愛人宅として屋敷を用意してもらい、子どもを産んで優雅に暮らす。現在この屋敷に子どもはいない。もし奥様が子どもを産めなければ、自分の子が後継者になる未来だってあり得るとアキアは考える。
そうすれば、いまは愛人だとしても、将来は第二夫人として堂々と彼の妻を名乗れる日がくるのだ。
それからアキアは子ができるように努力した。給金で出産に関する本を買い、身体をあたため運動を減らし、効果のある薬草を摘んでは茶にして飲んだ。そうして半年かけて、月のものがとまったとき、アキアは人生の転機だと確信した。
その夜、はやる気持ちをおさえきれず、いつもより少し早めに主のもとへ向かう。
「どうしたんだい? ご機嫌だね」
ワインをそそぎ、差し出すその手をアキアは遠慮がちに拒否した。ゆるむ頬をそのままに、アキアは告げる。
「あのね、あなたの子どもができたの」
彼は感激してアキアを抱きしめる────はずだった。
主の顔には表情が欠落していた。
「……え? どうしたの? 具合が悪い?」
「いまなんと言った?」
「だから、あなたの子どもができたのよ──」
「そんな訳ない!! ずっときみは、それを飲んでいたじゃないか!!」
それと呼ばれたワインをみて、アキアの背筋に冷たいものが走った。
「……誰の子だ? まさか僕の所有物のくせに浮気をしてたのか?」
「まさか! あなたと以外してないわ!」
ふらつくように、戸棚に彼は手をついた。心配して駆け寄ったアキア。肩に手を伸ばしたのと同時だった────腹部に痛みを感じたのは。
「……え?」
目を向ける。装飾された柄が見える。ナイフが刺さってる。
状況を理解したと同時に、ナイフが引き抜かれた。アキアは絶叫した。
「せっかく可愛がってあげたのに! きみが悪いんだよ!! 下民が僕の子どもを孕めるわけないだろ!!」
痛みで身体が硬直する。しかし、本能が動けと命令する。
死にたくない────その一心で、アキアは駆け出した。
アキアは走った。
月明かりをたよりに石畳の路地裏を死に物狂いで走った。
涙にまみれ、腹から血を流してなお、アキアは生きたかった。
「こ、こんなはずじゃなかった……!」
ただ、幸せになりたかったのだ。
アキアの美貌を褒める男は数多いれど、愛を囁いたのは彼だけだった。
そのせいで目が曇ったのだ。幸せを求めるあまり、アキアは生きるための道筋を誤った。その結果、腹部から血が流れ続け、痛みでのたうちながらアキアは地面に突っ伏した。
地面に転がった衝撃で、ポケットから何かが転がり落ちた。無意識につかむ。歪む視界がとらえたのは、馬丁がくれたお守りの石だった。
『幸せになるんだよ』
しわがれた声が脳裏に響く。
「し、幸せになりたかった……!」
答えるように、懇願するように。命の火を燃やしながら、アキアは叫んだ。
「それがアキアの望みでしょうか?」
突然聞こえた声に、アキアはハッとした。
目を開いたはずが、視界は闇に包まれている。アキアは絶望した。自分は死んでしまったのだと。
「いえ、まだあなたは生きています」
いつのまにか、目の前に大きなカラスの顔があった。
「ひっ!!」
短い悲鳴をあげたアキアを笑うかのように、カラスはくちばしを薄く開けた。その隙間から、鳥とは思えない獣のような牙がのぞく。それ以上に異様なのが、巨大なカラスの身体は人間の形をしていることだった。
「あ、悪魔……!」
「ご名答、かしこいお嬢さんですね。ご褒美に状況を説明して差し上げましょう」
そういって悪魔は手を差し出すと、優雅な仕草でアキアの身体を起こした。
「あなたは石を使って私を喚びだした。そして私は悪魔。本来なら、さまざまな対価と引き換えに願いを叶えて差し上げるのですが、残念ながら時間がない」
悪魔はアキアの腹を指さした。そこで、アキアは痛みを感じないことに気づいた。
「いまは時を止めていますが、あなたの死は避けられない。風前の灯、その命と引き換えに、あなたの願いをなんでもひとつだけ叶えましょう」
笑っているかのように目を細める悪魔。闇に浮かぶ異様な姿に、アキアの心臓はぎゅっと掴まれたような心地を覚えた。
「あなたを騙してその傷をつくった男を殺しますか? それとも、あなたを虐めてきた女中を全員殺しましょうか? あなたを捨てた両親を殺しましょうか?」
なぜ騙され、刺され、虐められ、親に捨てられたことを知っているのだろうか。アキアの頭に疑問がよぎるが、目の前の彼をみれば、彼が悪魔だからだと納得せざるを得ない。
アキアは人生でどんなに苦痛を感じても、生きて、生き延びて、幸せになれるよう努力をしてきた。だからどうせ死ぬならば、悪魔の言うとおり最後に道連れを作るのも良いかと思う。
────でも、もし本当に願いを叶えてくれるならば。
「…………愛されたい」
その声は震えていた。
「わたしのことを、たったひとりでも良いから誰か愛して欲しい…………」
自身を愛してくれたはずのたったひとりは幻想だった。けれど、愛されていると感じた日々は、アキアにとって人生で一番輝いていたのだ。だから、呪いでも魔法でも嘘でも良いから、最後の瞬間は愛された事実とともに眠りたいとアキアは願った。
「契約成立ですね」
その言葉とともに、アキアは内蔵がぐるんとまわるような衝撃を感じた。心臓がとまるその瞬間、
「愛しています」
悪魔が甘い声で囁いた。
初対面で人ですらないのに、アキアは確かに愛を感じて、彼女の短い人生は幕をとじた────
「ではアキア、いきますよ」
「え!?」
悪魔はアキアを抱きかかえると、背中から大きな翼をはやし闇の中のなかで落下した。
急降下する衝撃に驚き、アキアは悪魔の身体にとっさにしがみつく。いつまで続くのかわからぬ力に涙が溢れたとき、急に身体が浮遊感につつまれた。
瞳を開くと、アキアの視界に信じられない光景がうつった。
ブドウ色の空に巨大な三日月、アキアたちは宙に浮き、眼下には灯りがともる街並みがひろがってる。
「ようこそ魔界へ。これからあなたが暮らす世界です」
「え」
「アキアの願いは叶いました。私は悪魔ですから、愛する者を簡単に手ばなしたりはしません。これからあなたは私とここで暮らすのです」
言葉がでてこないアキアを先読みしたかのように、悪魔は答える。
「あなたの夫となるアモンです。どうぞ最後までともに」
アモンはそう言うと、翼をはためかせ飛び立った。
そこからアキアは人生、いや、今世で初めてみる信じられない数々のものを目にした。
まずアモンの屋敷は、貴族の主の屋敷がドールハウスに見えるような大豪邸であった。宮殿と呼んでも差し支えがない。
入り口で出迎えたのは、揃いの仕着せをきた大勢の使用人たち。人間のように見えるが、およそ生きているようには見えない灰色の肌をしていた。
ここまでくる道中にも、動く骸骨や翼をもつ生き物、二足歩行の獣などあらゆる理解不能な生き物がいた。
(これが魔界……)
死ぬ間際の夢。
そう考えたほうが現実的だが、アキアは目の前にある事実を受け入れていた。そう考えるほどに、アモンの愛情が心地よいのだ。それを疑うなど考えたくないほどに。
だから流されるがまま、人外の使用人に身を清めてもらい、ナイトドレスを着せられ、気づけばアモンと大きなベッドでくつろいでいた。
「あなたの人生は終わりました。しかし私が魂を堕としたので悪魔になったのです」
アキアが気になっていたことをアモンは先に告げた。先の会話を思いだしても、アモンはこういった会話のしかたをする。今後長くやっていくために、緊張しながらもアキアは疑問を投げかけた。
「……アモンは、その、心が読めるのですか?」
「いいえ、私は過去と未来が読めるだけです」
予想してなかった答えにアキアは言葉をつまらせる。
「ですが、未来とは不確かで流動的なもの。私が他者を愛することなんて先程まで無いと思っていましたし、誰かを愛することがこんなにも素晴らしいとは初めて知りました」
アモンは手のひらでそっとアキアの頭をなでた。
アキアは全身にくまなくキスをされたことはあっても、誰かにこんなにも優しく頭をなでられたことはない。言葉には表せない、だが確かに感じる愛情に、涙が溢れるのを堪えきれず頬を濡らした。
アモンは指先でそれを優しくぬぐいながら、アキアが落ち着くのを穏やかに待った。
「わ……わたしも、あなたを愛したい」
アキアの思いをのせた言葉に、アモンは目を細めた。少し考えたそぶりを見せたのち、嘴に手を当てる。すると、アモンの顔が一瞬で人間のものへと変化した。
艶のある黒髪に、切れ長の瞳、とおった鼻筋と薄い唇。誰もが見惚れるような美貌にアキアもついうっとりと見つめるが、はっとしたように首を振ると、強くアモンの瞳を見つめた。
「あなたが私を愛してくれるように、わたしも本当のあなたを愛したいの。アモンの正体がカラスでも蛇でもいいわ、その……蜘蛛とかだと時間はかかるかもしれないけれど……それでも努力はさせて」
「ああ、なんと愛おしい。怖かったらすぐに言ってくださいね」
アモンがアキアの目もとに手をかざすと、次の瞬間アモンの姿は変貌していた。三メートルほどの大きな巨体の漆黒の狼。尻尾は蛇で、そちらにも顔があった。
(アモンは、本当に悪魔なのね……そうだ、わたしも今は悪魔になったんだっけ)
怖くないと言えば嘘になる。けれど、瞳をみればすぐに安心へと変わった。アキアはアモンにそっと近寄ると、首筋に顔を埋めるようにして抱きしめた。
毛は見た目よりも少し硬い。しかしその体温と、包み込まれる気持ちよさに、すぐにアキアは夢の世界へと旅立った。
右目と左目を交互に瞑りながらアキアの寝顔を見つめていたアモンだったが、突如顔を空へと向けた。
「あぁ、始まっちまったなぁ」
いつのまにか部屋に入り込んだ黒い影がアモンの背後から語りかけた。
「予定通りです。ただ、聖女の誕生を阻止しようと動いていた方々はみな塵と化したのが愉快ですね」
「同胞の消滅はあんま笑うもんじゃねぇぞ」
喉をくつくつと鳴らすアモンに、黒い影は溜め息をついて非難した。
「それより、なんで聖女だったもんがそこにいるんだ? 聖女が死んで新たな聖女が生まれるのは世の理だ。死んだほうの聖女拾ってなんの徳になる」
「私、愛を覚えてしまったんですよ」
「はぁ?」
「生涯その力を誰にも知られることなく、不憫に消える聖女なんてめずらしいでしょう? これが憐れで哀れで愛おしくて。こんなに心が動くのは久しぶりで腹が立ちます」
笑っているのか、牙を剥き出しにするアモン。
「相変わらず意味わかんねぇやつだなぁ……。で、どうなんだ? 予知はどう変わった?」
アモンは右目を閉じた。
左目で見つめる窓には、人間になりすまし稀代の悪女として国家を混乱におとしめるアキアの虚像がうつっている。
左目を閉じて右目を開くと、窓にはアキアと同じ髪と目の色をした少女が聖杯をかかげて、背後の同胞を封印している虚像がうつった。
「未来はひとつではないですし、知ったところで私はいつも通りです。誰がどうなろうと知りません。ただ────」
アモンは愛おしそうにアキアをひとなですると、
「私からアキアを奪うものは滅します」
そういって笑みを浮かべた。
それから五年後、人間界では悪魔と血で血を洗う争いが始まる。
いずれ『稀代の悪女』または『世界の敵サタナキア』と呼ばれるアキアの第二の生は、『愛に始まり愛に終わった生涯』だったとここに記す。
最後までお読みいただきありがとうございました!




