第9話 名づけられていないもの
翌朝、雨は弱まっていた。
止んではいない。
ただ、昨夜みたいな重さがない。
私は窓辺に座り、外を見ていた。
街路を流れる水の筋が、やけに整って見える。
……見えすぎる。
意識していなくても、雨の動きが理解できてしまう。
音としてじゃない。
構造として。
マレナは、何も言わずに朝の支度をしていた。
昨夜のことを、忘れたふりをしている。
でも、それが“本当に忘れている”わけじゃないのは、背中を見ればわかる。
「ユイ」
不意に、声をかけられる。
「この街にはね、いくつか“言い伝え”がある」
私は、黙って聞く。
「大雨の夜に現れるもの。
川を越えさせないもの。
濡れずに立っている人間」
手が、少しだけ止まった。
「それらは全部、同じものだって言う人もいる」
マレナは、私を見なかったまま続ける。
「“精霊”とか、“神の欠片”とか、
呼び方はいろいろだ」
私は、喉が鳴るのを感じた。
「でもね」
そこで、彼女はようやく振り返る。
「共通してるのは、
聞こえる者だ」
胸の奥が、静かに震えた。
——聞こえる。
雨の声。
流れ。
集まる理由。
「雨はね、ただ落ちてるわけじゃない」
マレナは、窓の外を指す。
「土地を覚えてる。
道を覚えてる。
何度も何度も、同じ場所を選ぶ」
……知ってる。
言葉にされる前から、わかってしまう。
「それを“聞ける”人間は、
もう人間じゃない、って言われてる」
私は、膝の上で指を握りしめた。
「じゃあ……それは、何なんですか」
マレナは、少しだけ考えてから答えた。
「系統がある」
短い言葉。
「火を見る者、風に触れる者、
そして——雨を聞く者」
その瞬間。
耳鳴りみたいに、雨音が強くなる。
——正しい。
誰かが、そう言った気がした。
「でもね、ユイ」
マレナの声が、少しだけ柔らかくなる。
「それは“能力”じゃない。
役割だ」
役割。
その言葉が、胸に落ちる。
私は、ふと羽根を思い出す。
猫。
調律。
置き土産。
能力をもらったんじゃない。
——位置を、決められた。
そう考えた瞬間、雨音が静かに整った。
私は、まだ何も言っていない。
告白も、否定もしていない。
それでも。
マレナは、はっきりと告げた。
「名は、まだない。
でもいずれ、呼ばれるようになる」
私は、窓の外に目を向ける。
雨は、今日も降っている。
でももう、それは“ただの天気”じゃなかった。
私は——
雨を、聞いてしまう側なのだ。




