第4話 名前を聞かれる
外に出ると、雨は思ったより冷たかった。
空は灰色で、雲が低い。
地面は見覚えのない石畳で、靴底に伝わる感触が現実を主張してくる。
——ここは、日本じゃない。
そう理解しても、口には出さなかった。
今は、目立たないことが大事な気がした。
制服の上に羽織るものもなく、私は小さく肩をすくめながら歩き出す。
雨音は、いつも通り聞こえている。
でも——
わかってしまうから、意識的に聞かないようにした。
能力のことは、誰にも見せない。
理由は説明できないけれど、それが正解だと感じていた。
しばらく歩いたところで、足が止まった。
前方の道端。
木製の屋根が張り出した簡素な建物の前に、人影がある。
フードを被った、大柄な女性だった。
荷車のそばで立ち止まり、こちらを見ている。
警戒——というより、困っている顔。
「……こんなところで、どうしたの」
低くて落ち着いた声。
私は一瞬、言葉に詰まった。
何を言えばいいのか、用意していなかった。
迷っていると、女性は少しだけ眉を下げる。
「迷子、かい?」
……迷子。
間違ってはいない。
私は小さく、頷いた。
「そう。雨の中じゃ、つらいね」
女性はそう言って、自分の外套を少し持ち上げた。
中は乾いている。
「ここで雨宿りしな。話はそれからでいい」
疑うべきなのかもしれない。
でも、雨の冷たさと、身体の軽さ——若い身体は、正直だった。
私は一歩、屋根の下に入る。
雨音が、少しだけ遠のいた。
女性は荷車に腰掛けて、私を見た。
「名前は?」
その一言に、胸がきゅっと縮む。
……本名を言うべきじゃない。
でも、偽名も、まだ決めていない。
一拍置いて、私は口を開いた。
「……ユイ、です」
即興だった。
でも、不思議としっくりきた。
「ユイか。私はマレナ」
女性——マレナは、短く頷いた。
「行くあては?」
私は、首を横に振る。
「……ありません」
雨音が、また強くなる。
マレナは空を一度見上げ、それから私に視線を戻した。
「じゃあ、しばらく一緒に来るかい」
その言葉は、提案というより、事実の確認みたいだった。
「仕事はある。寝る場所も、質素だけど用意できる」
私は、少し迷ってから、もう一度頷く。
この人の前では——
能力のことは、言わない。
雨のことが、わかってしまうことも。
マレナが歩き出し、私はその後ろについていく。
雨音は、相変わらず世界を満たしている。
でも今は、
それを聞いていることを、誰にも知られなくていい。




