第19話 聞いた者の目
谷を出るころ、空は薄暗くなっていた。
雨の匂いは、まだしない。
それでも、空気が張りつめている。
——選択の余韻。
聞いてしまった音は、もう消えているのに、
耳の奥が静かすぎて、逆にうるさい。
「……今日は、戻ろう」
マレナの声に、私は頷いた。
振り返った、その時。
「無事に聞いたようだな」
声は、背後からだった。
いつの間にいたのか分からない。
谷の入口、影の中。
追跡者。
あの男は、こちらを見ていた。
いや——**私の耳の奥**を。
「……何の話ですか」
そう答えながら、分かっていた。
通じない。
男は、静かに歩み寄る。
「雨を聞いただけなら、
あの顔はしない」
視線が、逸らせない。
「聞こえてはいけない層がある」
淡々と。
「それに触れた者は、
必ず、少し遅れて息をする」
私は、無意識に呼吸を整えた。
——遅れていた。
「……先代も、同じだった」
その言葉で、胸が冷える。
「最初は、返事をしなかった」
男は続ける。
「だがな」
一歩、距離を詰める。
「**聞けるという事実自体が、世界にとっては危険だ**」
マレナが、前に出た。
「この子は、何も決めていない」
男は、頷いた。
「分かっている」
その肯定が、逆に怖い。
「だから、まだここに立っている」
「……止めに来たわけじゃないんですか」
私が聞く。
男は、少しだけ考えてから答えた。
「止める権限は、俺にはない」
「じゃあ、何をしに」
視線が、真っ直ぐ刺さる。
「**確認だ**」
「次に、返事をするかどうか」
沈黙。
遠くで、雷が鳴る。
まだ、雨は落ちてこない。
「一度でも返したら」
男は、低く言う。
「猫は、もう現れない」
その言葉に、心臓が強く打った。
「選択を見届ける役は、終わる」
「……それは」
「世界が、お前を“当事者”として認識する瞬間だ」
マレナが、私の腕を掴む。
強く。
「脅しかい」
男は、首を振った。
「警告だ」
そして、少しだけ声を落とす。
「俺は、先代を追い続けて——
**止められなかった**」
一瞬だけ、感情が滲んだ。
「だから今回は、
“間に合っているか”を見に来た」
男は、距離を取る。
影に戻る直前、言った。
「次の大雨が来る」
「その時だ」
「聞くだけでいられるか」
「それとも——」
言葉は、続かなかった。
男の姿は、雨の予感と一緒に消えた。
私は、しばらく動けなかった。
「……聞いたな」
マレナが、ぽつりと言う。
私は、正直に頷く。
「でも、返事はしてません」
「それが、境目だね」
その夜。
空は、厚い雲に覆われた。
雨は、まだ降らない。
まるで——
**返事を待っているみたいに**。




