第18話 聞いてはいけない雨
猫の足跡は、谷のさらに奥へ続いていた。
崩れた地面でもない。
水が溜まった場所でもない。
**何も起きていない場所**。
それが、不気味だった。
「……ここ?」
思わず声に出すと、音が吸われる。
風が止み、鳥の声もしない。
マレナは少し離れた場所で足を止めた。
「これ以上は、嫌な感じがする」
その感覚は、正しい。
でも、足跡はそこで終わっていた。
最後の一歩。
小さくて、白くて。
そして——
その先には、何もない。
私は、耳を澄ました。
最初は、何も聞こえない。
次に、遠くの川。
土に染みる水。
いつもの“雨の声”。
……違う。
それとは別に、
**重なってはいけない音**があった。
——残りたくない。
——流れたくない。
——ここに、いたい。
私は、息を止めた。
「……これ」
雨じゃない。
水そのものでもない。
**ここで失われるはずだったものの声**。
雨にならなかった水。
川に行かなかった流れ。
本来なら、
選ばれずに消えるはずの可能性。
それが——
話しかけてきている。
——聞いて。
——選んで。
胸の奥が、強く引かれる。
分かってしまった。
これを聞いて、
答えを返してしまえば。
私は、
**世界の代わりに決める側**になる。
先代と、同じ場所。
「……だめ」
小さく、でもはっきり言った。
声に出すことで、
自分を現実に縫い止める。
——どうして。
——あなたなら。
羽根が、熱を持つ。
共鳴が、強すぎる。
聞けてしまう。
理解できてしまう。
それでも。
私は、一歩下がった。
「私は、聞く役でいい」
答えは、返さない。
選択は、しない。
「選ぶのは……
あなたたち自身でしょ」
その瞬間。
音が、すっと引いた。
引き潮みたいに。
残ったのは、
ただの静けさ。
猫の足跡も、
そこから先はなかった。
私は、その場に座り込んだ。
膝が、少し震えている。
「……今の、何だったんだい」
マレナの声が、少し遠い。
「聞いてはいけない雨です」
そう答えると、
自分でも驚くほど、しっくりきた。
「聞けるけど、
返事をしちゃいけない」
マレナは、何も言わなかった。
ただ、そっと肩に手を置く。
その温度で、
私はようやく息を吐いた。
遠くで、雷が鳴った。
でも、雨は降らない。
降る前の沈黙。
それを、世界が**自分で選んでいる**。
私は、それを——
ただ、聞いていた。




