第16話 その名を知っている者
東の谷は、まだ湿っていた。
赤い土は、水を吸いきれず、ところどころ黒く沈んでいる。
流された畑の跡が、爪で引き裂いたみたいに残っていた。
私は、マレナの少し後ろを歩いていた。
視界の端で、羽根が微かに熱を持つ。
——ここだ。
「……思ったより、ひどいね」
マレナが低く言う。
小屋は半分崩れ、
川は本来の筋を外れている。
私は、胸の奥で水の音を拾っていた。
——まだ、怒ってる。
——急に流されたのを、覚えてる。
その時。
「来るな」
聞き慣れない声が、谷に落ちた。
男だった。
崩れた石垣の上に立っている。
濡れた外套。
でも、視線だけは、まっすぐこちらを見ていた。
マレナが、一歩前に出る。
「被災者かい」
男は首を振った。
「違う」
それから、私を見る。
正確に。
**私だけを**。
「……久しぶりだな」
その言葉に、心臓が跳ねた。
「会ったことはありません」
即座に言う。
男は、ほんの少しだけ口角を上げた。
「だろうな」
視線が、私の胸元に落ちる。
羽根。
隠していたはずなのに。
「それを持ってるなら、話は早い」
マレナが、警戒を隠さず言う。
「何者だ」
男は、視線を外さないまま答えた。
「追ってる側だ」
短く、でも重い。
「**雨聴の先代**を、な」
空気が、はっきり変わった。
私の耳に、谷の水音が一斉に流れ込む。
——あ。
この人は、
知っている。
「……先代は」
言葉を選ぶ。
「どうなったんですか」
男は、即答しなかった。
谷の向こうを見て、
それから、こちらに戻す。
「止めすぎた」
それだけだった。
「雨を、正そうとした。
分けようとした」
私の胸が、冷たくなる。
「結果、どうなった」
マレナが問う。
男は、淡々と答えた。
「世界に、嫌われた」
その言葉は、比喩じゃなかった。
「雨が、先代を避けるようになった。
流れが、全部歪んだ」
私は、無意識に羽根を握っていた。
「……あなたは」
「止めに来たと思ってるか?」
男が、私を見る。
「違う」
一歩、近づく。
「**確認に来た**」
「何を」
「次が、同じ道を行くかどうか」
マレナが、はっきりと言った。
「この子は、先代じゃない」
男は、頷いた。
「分かってる」
そして、私を見る。
「だが、選択肢は同じだ」
谷に、風が吹く。
湿った土の匂い。
遠くで、水が軋む音。
「もう一度聞く」
男の声が、低くなる。
「お前は、
**止める側になるか**」
間。
「それとも」
視線が、鋭くなる。
「雨に、嫌われる側になるか」
私は、息を吸った。
その瞬間、足元に——
白い毛。
一瞬だけ、見えた。
振り返った時には、
もう、いなかった。
でも。
地面には、小さな足跡が残っていた。
雨に濡れない、
不自然な形で。




