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* レオの心 *

レオは、公爵家の次男として生まれた。

すでに歳の離れた優秀な兄が存在し、家の跡取りとして不足のない人物だったため、レオに注がれるべき関心や期待は、最初から存在しなかった。


両親が求めていたのはただ一つ――「政略結婚によって、有益な繋がりを広げてくれること」。

そのための“駒”として、レオは静かに育てられていった。


幼くして悟った。

望まれた言葉だけを返し、求められた態度をとれば、波風は立たないと。

やがて彼は、ワガママも言わず、感情の起伏すら見せない子どもになった。

……まるで人形のように。


だが、そんな彼に初めて人としての情を教えてくれた者がいた。

三歳になったある日、屋敷にやってきた若き女性の家庭教師。

彼女はレオの無表情な瞳の奥に、凍ったような孤独を見て取ったのだろう。

レオが一通り文字を読めるようになった頃、授業の合間に、こっそりとこう語って聞かせた。


「この世には“情”というものがあるのよ。

それがあるから、人は生きる意味を見つけられる。喜びや悲しみも、本当の形になるの」


彼女は、色とりどりの小説をレオに与えた。

物語の中に描かれた、友情、裏切り、希望、そして――恋。


特にレオは、恋愛小説に心を惹かれた。

言葉で伝え合い、互いを想い、傷つき、赦し合う――そのすべてが、彼にとっては未知の世界だった。


読むたびに胸が締めつけられた。

それは、決して自分の人生には訪れないと知っていたから。


けれど、だからこそ、彼は焦がれた。

ただ一人の誰かに選ばれ、心を許し、受け入れてもらえる未来を――

物語の登場人物のように、自分も誰かに“愛される”日を、密かに夢見た。


その習慣は今でも変わらない。

十七歳になった今も、夜のひとときに本を手に取り、言葉の中に“情”を探し続けている。



* * *



七つの誕生日を迎えた頃、レオは一人で街に出た。

「情を学ぶには、人の営みを見ることよ」――きっかけは家庭教師の助言だった。


その日は偶然にも、街で収穫祭が催されていた。

通りには屋台が並び、音楽が鳴り、人々の笑い声が響いていた。


レオは、人々を観察していた。

笑う人、怒る人、子どもを叱る母親に、口論する恋人らしき男女。

表情というものが、こんなにも豊かで、こんなにも多彩なのかと驚かされた。


「……僕には、できない」


ぽつりと胸の奥でつぶやいた。

まるで自分だけが、色彩のない世界に立っているようだった。


そのときだった。


「うわっ!」


目の前で、小さな男の子が酔っ払いの男にぶつかり、地面に転がった。

膝をすりむき、顔も泥まみれになっている。


泣き出した男の子の声に、レオは思わず足を止めた。

だが、大人たちは誰も気に留めようとしない。

見て見ぬふりをして、誰も立ち止まらない。


親らしき姿も、どこにも見当たらない。


レオは少し考え、意を決して近づき、袖で男の子の顔を拭った。

男の子は少し戸惑ったあと、すすり泣きを止め、レオをじっと見つめた。

そして――ふいに、満面の笑みで言った。


「おにいちゃん、ありがとう!」


レオは、息を呑んだ。

そんなにも眩しい笑顔を、今まで見たことがなかったからだ。


そのとき――


「トト! どこ行ってたの!」

叫ぶような声と共に、女が駆け寄ってきた。

あの子の母親なのだろう。男の子を抱きしめ、安堵の息を漏らしていた。


レオは静かに、その場を立ち去った。


(……あんな顔できるんだ)


彼の胸には、温かさではなく、ひどく冷えた感覚が残っていた。

きっとあの子は、あの母親にたくさんの愛をもらって育ったのだろう。

あの笑顔は、愛された者にしかできない――そんな気がした。


だからこそ、もうこれ以上、あの光景を見ていたくなかった。



* * *



それ以来、レオは街へ出ることをやめた。

あの眩しい笑顔は、あまりにもまっすぐすぎて――

自分の中にある空虚を、あからさまに照らし出してしまうから。


自分は、愛されていない。


その事実を再び認識するのが、恐ろしかった。


屋敷に戻れば、変わらない日々がそこにあった。

食事は豪華でも、食卓に笑顔はない。

両親はレオに目もくれず、まるで空気のように扱われる。

使用人たちも、表面上は礼儀を保っていても、そこに情はなかった。


レオが笑っても、誰も返してはくれない。

泣いたところで、誰も気づかないだろう。

週に一度やってくる家庭教師だけが、レオにまっすぐに向き合ってくれていた。


――それでも、足りなかった。


閉じた心の奥に、じわじわと冷たい水が染み込んでいくように、レオは少しずつ追い詰められていった。

何もかもが無意味に思えて、息をするのさえ億劫だった。


そんなある夜のことだった。


ふいに――"何か"を感じた。


不思議な感覚だった。

ほんのりと温かく、やわらかい。

ふわりと心が落ち着いて、胸の奥がふっと軽くなるような。


(……なんだ、これ)


それは、どこかあの男の子の笑顔に似ていた。

――いや、それよりももっと、深く、優しかった。


その日を境に、レオは誰かに見られる度に同じような感覚を味わった。

ただし、それは最初のものとは違っていた。


冷たい。

機械のように、淡々としていて、感情の起伏がない。

それは、レオへの無関心さの証明となり、彼の心を傷つけた。


唯一、家庭教師が見せるまなざしだけが、あの夜の“視線”に少し似ていた。

あたたかくて、心に触れるものだった。


不思議な“視線”は、夜になるとよく感じた。

見回しても、誰もいない。

なのに、確かに“視線”がこちらを見ている――そんな気配があった。


ふと、机の上に置いてある一冊の本が目に入る。


《星の声と、やさしい精霊たち》


可愛らしい挿絵とともに、精霊と心を通わせた子どもたちの冒険譚が綴られている。


よくある子供向けの御伽話だ。


精霊は、物語の中でだけ都合よく存在するもの。

現実には、こんなふうに誰かが自分を優しく見守ってくれる――なんてことは、あるはずがない。


レオはそう理解していた。

けれど、こういった話は昔から伝承として語り継がれてきたものが多い。

すべてが作り話というわけではなく、一部に“事実”が混ざっている可能性もある。


ならば――


あの夜、自分を優しく包んだあの“視線”の主は、精霊なのかもしれない。

見守ってくれている“何か”は、現実には存在しないはずの、そういう存在なのかもしれない。


確かめる術はない。

けれど、夜ごと感じる“視線”は、レオにとって確かな支えとなっていた。

それだけが、自分が“ひとりぼっちではない”と感じさせてくれるものだった。



* * *



王都学園に入学してから、レオが令嬢たちに囲まれるまで、そう時間はかからなかった。

侯爵家の令息という肩書き、美しい容姿、洗練された振る舞い――すべてが、彼を注目の的にした。


恋愛小説に憧れるレオは、ほんの少しだけ期待していた。

もしかしたら、ここでなら。

誰かが、自分という“人間”を見てくれるかもしれない。

そう思ったのだ。


しかし、彼に向けられる視線は、家族と同じものだった。

称賛でも、関心でもない。

それは、地位や名誉に向けられた、乾いた欲望のまなざし。


“またか”

胸の奥で、何かが音を立てて崩れていく。


レオは静かに、けれど確かに、絶望した。



* * *



それは、入学から一年が経った頃のことだった。

レオのもとに、一人の令嬢が現れた。


名はマルグリット・ド・ラファニュ。

社交界に絶大な影響力を誇る、ラファニュ侯爵家の三女。

誰もが羨み、一目置かれる存在。

学園中の令嬢の中でも、別格だった。


けれど――レオはなびかなかった。


彼女の視線もまた、家族が向けているものと同じ。

人としての自分ではなく、肩書きや利を見定める視線。


それがどれほど洗練されていようと、丁寧に装われていようと、

レオには、すぐに分かってしまうのだった。



* * *



しばらくして、レオは父親から呼び出しを受けた。

指定されたのは、侯爵家の奥まった一室――父の書斎。


重厚な扉をノックすると、無機質な「入れ」の声が返ってくる。

レオは無言で扉を開け、室内へと足を踏み入れた。


書斎の奥、書類に目を通していた父親は、一瞥も寄越さぬまま言った。


「……ラファニュ家から婚約の申し出があった」


その言葉に、レオの足が止まる。


「婚約……ですか?」


父は頷きもしなかった。事務的な口調で続ける。


「家格としても申し分ない。すぐに受けるように」


いつかは、こうなることが分かっていた。

けれど、こうも当然のように告げられると、息が詰まりそうだった。


「……今は、学園と家の務めで手一杯です。卒業まで待っていただけませんか」


レオは冷静な声を保ちつつ、慎重に言葉を選んだ。

拒絶ではなく、“延期”という形で、少しでも時間を稼ぐ。


父はしばらく沈黙したあと、書類から視線を上げた。


「……ならば、その娘に見限られぬよう努めろ。

ラファニュ家を失うことは許さん。分かったな」


無機質で、感情のかけらもない声だった。

レオは黙って頷き、書斎をあとにする。


扉が閉まり、廊下に一人きりになると、膝が少し震えた。

政略結婚。条件は整いすぎていた。

誰もが祝福し、父は満足し、家は安泰。


――けれど。


それはつまり、一生“愛”とは無縁の人生を生きるということだった。


あの小説の中で読んだような、誰かに想われ、誰かを想う日々。

優しさに包まれ、心を通わせる幸福。

それらすべてが、自分には手の届かない幻想だったのだ。


(……結局、俺は、何一つ手に入らない)


胸の奥がじんと痛んだ。

人形のように与えられた役割を演じてきた自分には、それ以外の未来など最初から用意されていないのかもしれない。


レオはゆっくりと目を伏せ、ただ静かに歩き出した。



* * *



それからレオは、マルグリットと学園で顔を合わせるたび、より丁寧に接するようになった。

彼女からの手紙には欠かさず返事を出し、応対も疎かにはしない。ただ、それ以上のこと――例えば一緒に昼食をとることや、休日に出かける約束など――については、「生徒会の仕事が立て込んでいる」「家の者に呼ばれている」などと断り続けた。


確かに忙しさは嘘ではなかった。だがそれ以上に、レオは自分が誰かと心を通わせることに、意味を見出せなくなっていた。


その行動が、彼女の焦燥を搔き立てたのかもしれない――。

やがて彼女の手紙は週に一度から三日に一度届くようになり、文面には“なぜ時間を取ってくれないのか”“私はただ、あなたを知りたいだけなのに”といった問いかけが綴られるようになっていった。


レオは、冷静に保っていた心の内側に、少しずつひびが入っていくのを感じていた。

期待に囲まれ、無数の視線が波のように押し寄せる。マルグリットに迫られ、じわじわと逃げ場が奪われていく。

突破口は見つからない。気が付けば、時間だけが容赦なく過ぎていく。

このままでは、あっという間に二年が過ぎ、そして――


絶望がじわじわと忍び寄ってくる。

――自分でも気づかぬまま、彼はあの“視線”に救いを求めていた。



* * *



そんなある日。

王都学園の入学式。

レオは、生徒会長として新入生を迎える代表挨拶に立っていた。


壇上に立ち、静まり返る講堂を前に視線を上げる。

眼下には、初々しい顔ぶれがずらりと並んでいる。興味や憧れ、緊張や警戒、さまざまな感情がこちらに向けられていた。


(――また、あの目か)

心のどこかで諦めたように思う。


だがそのとき、不意に感じた。

あの夜と同じ、優しく、静かに寄り添うような“視線”。


――まさか、そんなはずはない。


レオは目線を走らせた。

そこに、いた。


整えられた銀髪と、赤い瞳。

群衆の中でただ一人、揺らぐことなくこちらを見つめる令嬢の姿があった。


一瞬、言葉が喉につかえる。会場が静まりかえったまま、時間が止まったように感じた。

しかしレオはすぐに呼吸を整え、何事もなかったかのようにスピーチを続けた。


動揺を外に出さず、取り繕う技術は――

彼がこれまで、ずっと身に付けてきたものだった。


胸の奥がざわめき、喉がひりつく。

掌にじんわり汗がにじむのを、レオは自覚していた。


(あの“視線”も……令嬢のものだったなんて――)


平静を装っているはずなのに、心臓の鼓動だけがやけに早い。

スピーチの文面は何度も頭の中で反復していたはずなのに、今は一行先の言葉すら霞んで見える。


(……まずい)


レオは、思考に蓋をした。

今は何も考えない。ただ、予定された言葉を正確に、感情なく届けるだけ。


言葉にならない衝撃を胸の奥に押し込めて、レオは冷静な声を取り戻した。



* * *



それからというもの、あの“視線”は昼にも感じるようになった。

授業中以外、食事中も、廊下を歩くときでさえ。

けれど、どれだけ探しても――銀髪の彼女は、決してレオの前に姿を現さなかった。


(……どこからか、俺を監視している)


そう確信するようになった頃には、あの“視線”が心の支えではなく、重荷になりはじめていた。


彼女の名はクラリッサ・フォン・エルフェリア。

魔術に優れたエルフェリア侯爵家の一人娘。

次男である自分は、政略的に婿取りの対象として狙われているのだと理解した。


十年もの長い間、ほぼ毎日監視されていたという事実には色々と疑問の余地がある。

だが、そんな事はどうでもいい。

狙われていることは間違いないのだから。

その執着ぶりは、どこか恐ろしくさえあった。


昔から、ただひとつの拠り所だった。

優しく包み込むようなまなざし。

その存在が、現実にいたというだけでも衝撃だったのに――


(よりによって、一人の令嬢だったなんて)


あの夜感じた“優しさ”すらも、幻想だったのかもしれない。

自分を見ていたのは、“庇護"ではなく“所有欲”だったのではないか――。


日々、マルグリットの激しい要求にさらされていたレオは、“令嬢の執着”というものに心底うんざりしていた。

結局、あの視線も同じだったのではないか。

そう思うと、もはや純粋に受け入れることができなかった。


夜、部屋にいても“視線”の気配が離れない。

ずっと張り付かれているような感覚。

眠れない夜が続き、レオの体調は、日に日に蝕まれていった。



* * *



そして、あの療養室での事件が起こる。

体も心も限界に達し、レオの内側で何かが切れた。

誰にも助けを求められず、むしろ周囲のすべてが重荷に思えていた。


もう、誰も、何も、

自分のそばからいなくなってほしい。

そんな絶望が胸を締め付け、焦りがやけっぱちな言葉となって漏れた。


「頼む……もう、やめてくれ」


その一言にすべての想いが凝縮されていた。


長い沈黙が続いた。

目の前で動かなくなったクラリッサをじっと見つめながら、なぜか胸が締め付けられ、取り返しのつかないことをしてしまったのではないかという重苦しい感覚が心を覆った。


その答えは後になって痛いほど押し寄せた。

あの瞬間から、あの“視線”がすっかり消えてしまったのだ。


朝、目が覚めても何も感じない。

食堂で食事をとっていても、渡り廊下を歩いていても。

夜の間も、ふとした瞬間も。

かつて常にあった、あの淡く優しい気配が、どこにもなかった。


静かだった。あまりにも、静かすぎた。

今までは気づいていなかった――その視線に、どれだけ救われていたのか。

まるで空気のように、自分を包み込んでいたその存在が、忽然と消えてしまった。


胸がきしんだ。呼吸が浅くなる。

心のどこかに空洞ができて、そこに冷たい風が吹き抜けていくような感覚。

あの“視線”は、自分にとって、かけがえのないものだったのかもしれない。


それを、あの時、自ら手放してしまったのだ。

自分の言葉で、壊してしまった。


レオは初めて、「後悔」という感情を知った。



* * *



あの療養室での一件から、ちょうど一週間が経った。


静まり返った生徒会室の扉が、控えめにノックされた。


現れたのは、長く姿を見せなかったクラリッサだった。

その端然とした佇まいは変わらず、どこか淡く落ち着いた気配を纏っていたが、レオは気づいていた。

そこに、あの“視線”は、なかった。


「……二人だけで、お話がしたいのです」


彼女の口から出たその言葉に、レオは少し驚いた。

今まで、決して自ら距離を詰めてこなかった彼女が、積極的に関わろうとしている――。


一度は断ろうとした。

だが、自分でも気づかないうちに、身体が反応していた。


……あの“視線”に、すがりたい。

その感情が、レオの背を押していた。


生徒会室の隣にある小さな応接室に移動すると、クラリッサは静かに言った。


「婚約者に、なっていただきたいのです」


それは、恋愛感情を伴わない、世間体のためだけの関係――

過剰な好意に晒されるレオを護るため、自ら盾となる提案だった。


真摯で筋の通ったその申し出に、レオは思わず見つめ返す。

冷静な言葉の裏に、確かな覚悟があった。


「その代わり、条件があります。私情は一切、持ち込みません。あなたに迷惑をかけることもしません。

もし約束を破ったら、その瞬間にこの関係は解消し、わたくしは二度とあなたの前に姿を見せません」


彼女の視線は揺ぎなく、偽りの気配は微塵も感じられなかった。

その瞬間、レオは自分が彼女に対してどれほど歪んだ先入観を抱いていたのかを痛感した。


監視――執着――策略。


そんな色眼鏡でしか見ていなかったのは、自分のほうだったのだ。


彼女の目的は、政略結婚でも権力でもなかった。

ただ、静かに、自分を見ていただけだ。

そのやり方があまりにも一方的で、特異で、長すぎた――だからこそ、彼は恐れていた。


けれど、今、目の前にいるクラリッサの振る舞いは、毅然としていて、礼儀正しく、何より節度を守っていた。

誰よりも距離感をわきまえ、それでいて、寄り添おうとしてくれていた。


しかし、彼女がこうして目の前にいても、あの“視線”は感じられなかった。

かつて、十年間支えてくれた、優しく包み込むような気配は、どこにもない。


拒絶したからだろうか。

自分が――壊したから。


胸の奥にぽっかりと穴が開いたような、やるせない気持ちが広がっていく。

それでも――彼女の瞳の奥に宿るものは、冷たくはなかった。

あの“視線”ほどではないにせよ、それは家庭教師と同じ、静かで穏やかな“ぬくもり”を帯びていた。


(……こうして、そばにいれば、いつか……)


戻ってくるかもしれない。あの“視線”が。

ほんのわずかでも、もう一度、あの安心を得られるなら――



レオはクラリッサの願い通り、仮初の婚約者として真摯に向き合うことを決めた。



* * *



それからというもの、レオを悩ませていたマルグリットとの問題は、仮初の婚約関係が功を奏し、穏便に解決した。

学園では以前のような騒がしさも薄れ、ようやく落ち着いた日々が戻ってくる。


ただ――最近、誰かに見られているような感覚が時折あった。

悪意を感じる視線は一つではなく、複数。だが、直接的な被害もなく、クラリッサからも報告がなかったため、深く追及はしなかった。


――それが、甘かった。


あの日、ダンス講師の要請で向かった大ホールで、罠にかかった。

複数の男たちが侵入し、出入口は封鎖。

彼女は咄嗟にレオに認識阻害と音封の魔法をかけ、自ら囮となった。


後ろ手に縛られ、魔力を奪う首輪をつけられ、袋に押し込まれて――

そのまま、姿を消した。


男たちに気づかれないよう慎重に距離を取りながら、レオは静かに大ホールを後にした。



* * *



レオはすぐに治安部隊の詰所へ向かって走り出した。


その途中――誰もいないはずの廊下で、突然足音が響いた。

それは間違いなく、自分自身の足音だった。


(……まさか)


魔法が切れている。

つまり、クラリッサの魔力が尽きたのだと悟った。


胸がざわつく。悪い予感が離れない。


「……クラリッサ」


自分を庇った彼女の姿が脳裏に浮かぶ。

レオは足を速めた。焦るように。



* * *



王都西側にある治安部隊の詰所に着くやいなや、レオはすぐさま受付に向かい、自らの身分を明かした。

侯爵家の名が出ると、対応にあたっていた隊員の表情が一変する。


「至急、責任者を。重要な案件だ」


静かだが一切の躊躇もないその声に導かれるように、レオは応接室へ通される。

そして、椅子に腰を下ろす間もなく、事件の一部始終を詳細に報告し始めた。


侵入者の数、クラリッサの行動、施された魔法の種類、そして自分が見た最後の光景まで――

すべてを的確に、漏らすことなく語った。

聞き手の隊員たちは、その冷静さと情報の質に明らかな緊張を滲ませた。


それでも、時間はかかった。

調書がまとめられ、簡易な聴取が終わる頃には、外はすっかり夕暮れに染まっていた。


不安は、むしろそこから増していくばかりだった。

このまま待っているだけでは、もう手遅れになる――そんな焦燥が、レオを駆り立てた。


ただの誘拐ではない――

あのとき、クラリッサははっきりと「狙いは自分だ」と言った。

彼女は何かを知っていた。それなのに、なぜ相談してくれなかったのか。


(もっと気にかけていれば……)


悔しさが喉元までこみ上げる。

それでも、立ち止まってはいられない。


唯一の手がかりは、クラリッサ自身だ。

ならば、彼女の出自を知る場所に向かうしかない。


――エルフェリア家。


レオは、侯爵家として名高いその名門に向けて、静かに足を踏み出した。

彼女が攫われた理由、その真相を知るために。



* * *



エルフェリア邸の玄関フロアには、すでに治安部隊が到着していた。

制服姿の数人が厳しい面持ちで詰めており、その一角ではクラリッサの両親が聴取を受けていた。


レオが姿を現すと、応接役の隊員がすぐに一礼し、両親に耳打ちする。

父親の顔がこちらを向き、目を見開いたのち、すぐに落ち着いた表情で立ち上がった。


レオは深く一礼する。


「申し訳ありません……本来なら、彼女を守るべきはずの私が、このような事態を許してしまいました。

せめて行き先を探る手掛かりを得るため、――クラリッサ嬢の部屋を、見せていただけませんか」


一瞬の沈黙ののち、父親がうなずく。


「どうか……よろしくお願いいたします」


静かな言葉とともに、レオは侍女に案内され、クラリッサの部屋へと向かった。

まるで彼女の気配がまだ残っているかのような空間へ、静かに足を踏み入れていく。


手掛かりを求め、レオは室内を丹念に見て回った。

衣服箪笥の中、書棚、机の上……どこも整然としていて、彼女らしい几帳面さがうかがえる。


だが、決定的な手がかりは見つからない。

焦りが胸の奥にじわじわと広がっていく。


そんな中、レオはふと机の引き出しに違和感を覚えた。


(……なんか、浅いような?)


引き出しの奥に手を伸ばしてみると、指先にかすかな隙間を感じた。

目を凝らし、板の継ぎ目を押してみる。――カチ、と小さな音を立てて、底板に見せかけた薄い木の板がわずかに浮いた。


「……隠し板?」


そっとそれを取り外すと、その下から一冊の本が現れた。

革の装丁に、タイトルも何もない無地の表紙。


慎重に手に取る。

ほんの少し、手が震えていた。


(……これが、手がかりになるかもしれない)


期待と不安が胸をよぎる中、レオはゆっくりとその本を開いた。

――最初のページに記されていたのは、いくつかの箇条書きだった。


―――――


《レオ様をお見守りするにあたっての心得》


一、レオ様がご不快に思われる行動は、いかなる理由があっても慎むこと。


一、無礼にあたる恐れのある場面――とくに肌の露わなご様子を目にすることのなきよう、心して行動すること。


一、レオ様のお暮らしに支障をきたすような接触や、行動は断じて行わぬこと。


一、自身の心情を悟られることのなきよう、慎みをもって距離を保つこと。


一、この行いが決して周囲に露見せぬよう細心の注意を払い、レオ様はもとより、ご家族や関係者にご迷惑をおかけすることのなきよう努めること。


―――――


「……なんだ、これは」


思わず呟いた。

初めは、その内容の細かさと“心得”という形式ばった書き方に、戸惑いを覚えた。


けれど、読み返していくうちに――ふと気づく。

すべての項目が、『自分に不快な思いをさせないように』『自分の自由を妨げぬように』と書かれていることに。


どんなに距離を詰めたい気持ちがあっても、決してそれを押しつけない。

自分の感情を悟らせず、ただ静かに、誰にも知られぬように見守り続けていたのだと分かる。


(……俺のことを、ちゃんと、尊重してくれていたのか)


胸の奥が、じんわりとあたたかくなる。

歪んだ執着ではない。見返りも求めず、ただひたむきな想いだった。


さらにページを進める。

そこには、**『レオ様』**の名が繰り返し記されていた。


それは、間違いなく――自分の観察日記だった。


登校時の表情、食堂での振る舞い、誰と話していたか、どんな様子だったか。

まるで透明な存在だった自分を、唯一見つめていたクラリッサの視線が、そのまま文字になっていた。


一つ一つの文章に、彼女の真剣さと優しさ、そして――情がにじんでいる。


レオは本を抱えたまま、そっと目を閉じた。


嬉しいような、恥ずかしいような、いたたまれないような……そんな気持ちが胸に溢れてくる。

けれど、同時に強く湧き上がる想いがあった。


――絶対に、失いたくない。


ようやく気づいたのだ。

あの"視線"が、ただの執着でも義務でもなく、どれだけ真摯な情だったのかを。


レオは小さく息を吐くと、もう一度部屋を見回した。


「……必ず、助ける」


そう呟いて、本をそっと元の場所に戻し、再び手がかりを探し始めた。



* * *



しばらくして、部屋の扉が静かにノックされ、クラリッサの両親が入ってきた。

聴取を終えたばかりのようで、二人とも疲れた面持ちをしていた。


「……手掛かりは、ありましたか?」

父親がそう尋ねると、レオはゆっくりと首を横に振った。


「……ああ、クラリッサ……!」

母親が顔を覆い、堪えきれずに泣き出した。部屋の空気が一気に沈む。


レオは、慎重に口を開いた。

「……最近、クラリッサの様子に何か変わったところはありませんでしたか? ご両親から見て、何か――兆しのようなものは」


「それは治安部隊からも聞かれましたが……」


父は眉をひそめて考えこむ。


「とくに、変わった様子は……」


レオは黙って頷き、頭の中で状況を整理しはじめる。


「クラリッサは、きっと自分が狙われていると知っていたはずです。あのとき、彼女はそう断言していました。だから、何かを――調べていた。男たちの素性、もしくは組織について……」


そのとき、部屋の隅に控えていた一人の侍女が、はっと顔を上げた。


「……そういえば、先日、お嬢様から魔導書と通信水晶をお部屋に持ってくるよう頼まれました。普段は滅多にお使いにならないので、珍しいとは思っていたのですが……」


「それだ!」


レオが思わず声を上げる。


「その水晶、今すぐ持ってきてください!」


侍女が慌てて退出し、数分後、慎重に箱に収められた水晶を手に戻ってきた。

クラリッサの父親がそれを受け取り、掌に乗せる。


低く呪文を呟くと、魔力の流れが水晶を満たし、結界が展開する。

しばらくして、水晶の表面に、淡く青白い光が浮かび上がった。


《検索履歴を表示します。観察対象区域:違法結社“レムノスの影”との関与多数。危険度:中〜高》


レオの目が見開かれる。


「これだ……!」


レオはすぐさま踵を返し、勢いよく部屋を飛び出した。

廊下を駆け抜け、玄関ホールにいる治安部隊の元へ向かう。


「場所が分かりました!」


レオは駆け寄るなり、息を整える暇もなく告げた。


「“レムノスの影”……違法結社のアジトです。クラリッサはそこに連れて行かれた可能性が高い。……俺も同行させてください!」


その場にいた隊員たちの空気が一変する。

一人の年配の隊士が、眉をひそめて一歩前に出た。


「何をおっしゃいます! そこは闇ギルドのアジトです。危険ですよ! 素人が行けるような場所では――」


「お願いします」


レオは遮るように言った。


「彼女をここまで巻き込んでしまったのは、俺です。……俺は、自分の目で確かめたい。彼女を……クラリッサを、助けたいんです!」


ほんの数秒の沈黙ののち、隊長が静かに頷いた。


「……わかりました。ただし、無茶はしないでください。こちらの指示には必ず従ってもらいます」


レオもまた、はっきりと頷いた。


外はすでに夜の帳が降り、空気が冷え始めていた。

だが、レオの胸の内は逆に熱く、焦りと決意に満ちている。


(クラリッサ……)


彼女の名を、心の奥で強く呼ぶ。


(どうか、無事でいてくれ――)


願いにも似たその想いを胸に、レオは夜の街へと走り出した。



* * *



こうしてクラリッサは無事救出された。

医師によれば、数カ所の怪我と魔力枯渇による衰弱があり、数日は安静が必要とのことだった。


闇ギルドの構成員は治安部隊によって全て拘束され、依頼人であるマルグリットと、その協力者だったダンス講師も逮捕された。


一連の事件は、嵐が過ぎ去るように、静かに終わりを迎えた。

ご覧いただきまして、誠にありがとうございました。


次回のエピソードは、

* エピローグ *

です。


よろしくお願いいたします。

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