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* マルグリットの影謀 *

それからというもの、マルグリットからの手紙や贈り物、つきまといのような行為はぴたりと止んだ。

まるで嵐が過ぎ去った後の静けさのように、レオとミサコの周囲には穏やかな空気が戻りつつあった。


レオはふと、窓の外を眺めながら呟いた。


「ようやく、平穏になったな……」


「ええ、一時はどうなる事かと案じておりましたが――無事に解決いたしまして、ほんとうに安堵いたしましたわ」


ミサコもまた静かに頷き、ティーカップを置く。


しかし、レオの表情にはどこか晴れない影が落ちていた。


「……ひとつ、気になることがある」


「気になること、でございますか?」


「最近、“視線”が増えている。……悪意が混じってる、嫌な感じだ」


ミサコの表情がわずかに引き締まる。令嬢らしい優美な微笑みをたたえたまま、低く静かに尋ね返す。


「それは……わたくしどもに対して、という意味でございましょうか?」


レオは頷いた。


「正確には俺に対して、だな。俺のスキルは自分に対する視線しか感知できない。ただ、近くにいる君も見られている可能性は否定できない」


そう話すレオの声を、ミサコは静かに受け止めた。


「承知いたしましたわ。用心するに越したことはありませんわね」


紅茶を口元へと運ぶ。そのわずかな動作の陰で、周囲に意識を研ぎ澄ませる。


浮かび上がったのは、学園の外――建物の向こうに潜む、三つの気配。

男たちはそれぞれ位置を変えつつも、こちらの様子を注意深く伺っていた。


(なにこれ……完全に、監視されてる)


装いは地味だけど、動きに無駄がなさすぎる。

普通の人じゃない。魔術師か、傭兵か……あるいは、もっと厄介な。


(……こいつらの目的は何?)


そっと視線を戻すと、レオは窓の外を見つめていた。

頬にはうっすらと赤みが差し、以前よりも顔色がいい。


(ようやく、落ち着いたばっかなんだから……せめてもうちょっとだけ、この平穏を守ってあげたいよね……)


カップをソーサーへと戻し、視線を逸らさぬまま、脳裏にひとりの男の顔を刻む。


(とりあえず、一番怪しいあんたから。逃がさないからね)


レオの方を向き直ると、ミサコはいつもどおりの柔らかな声で話しかけた。


「ところで、レオ様。明日は午後からでしたわよね? 少しだけ早めにご一緒いたしますか?」


内心とは裏腹に、声色は穏やかで優雅。

けれどその奥では、静かに、確実に――ミサコの“監視”が始まっていた。



* * *



ミサコは、薄暮の中、ひとりの男をじっと見つめていた。


(動いた……学園から離れていく)


周囲の生徒たちの足音に紛れ、男は静かに裏門から出ていく。


(……今よ)


口元に手を添え、息を漏らすように呪文を唱える。

瞬時に、認識阻害と音封の魔法が発動。

ミサコの姿は通行人の目には映らず、男の背後へとついていった。


(この程度の魔法、クラリッサなら余裕でこなしてた。あたしだって――できるはず)


男は幾度か後ろを振り返りながらも、最終的には人通りのない路地裏へ。

そこに待っていたのは、粗末な建物。男はその中へ、ためらうことなく入っていった。


「……ここが拠点?」


建物の前に立ち止まり、ミサコは“透視眼”で中の様子を窺おうとした。


しかし、その瞬間――


(……時間。もう、馬車が来てしまう)


時計塔の鐘が一度だけ鳴った。

それは、迎えの馬車が学園門前に到着する合図。


(もう少し、もう少しだけ――)


けれど、クラリッサの仮面をかぶる以上、遅刻や軽率な行動は許されない。

“令嬢”としての責務と、“自分”の意思の板挟みの中、ミサコは唇を噛む。


(……仕方ない。一度、戻ろう)


名残惜しげに振り返りつつも、ミサコはその場から静かに離れた。



* * *



ミサコは魔導書と通信水晶を自室の机にセットした。


小声で詠唱しながら、情報検索の術式を発動する。

数秒の沈黙の後、結界内の水晶に記された一文が浮かび上がった。


《観察対象区域:違法結社“レムノスの影”との関与多数。危険度:中〜高》


「やっぱり……闇ギルドの拠点だった」


ミサコの胸中に、冷たい不安が広がる。


(あたしに……いえ、“クラリッサ”に、何の用があるというの?)


頭を巡る疑問の数々。

けれど今は、まだ全貌が見えてこない。


ミサコは深く息を吐き、静かに目を伏せた。


(大丈夫。ひとつずつ、調べていけばいい。……レオ様に、余計な心配はかけないように)


冷静を装いながらも、ミサコの心はすでに戦いの幕開けを感じ取っていた。



* * *



翌日。警戒を強めつつ、ミサコは再び男たちの動向を追った。


レオと並んで歩く時は、彼らは動かない。けれど、レオと別れた途端――


(……また、あたしについてきてる)


距離を取りつつ、視線を向けてくる。尾行は巧妙だが、ミサコの目は誤魔化せない。


(狙いはあたし……間違いない)


日を追うごとに、男たちの動きは大胆になっていった。

ある日、講堂と講堂の間の人通りの少ない回廊で、ついに“接触”の兆しが現れた。


「……っ!」


(来た……!)


男が歩調を早め、手にした小袋の中で光る魔力の気配――捕縛道具か。


だが、ミサコの反応は速かった。


高速移動の魔法で、数メートル先へと滑り出し、男の視線の外へ。


(ふざけないで。こっちだって何日もあんたらを見てきたんだから)


男は舌打ちし、背を向けて去っていく。


ミサコは、建物の影からその背を冷たく見送った。



* * *



男たちはしつこく、何度もミサコに接触を試みた。

昼夜を問わず、隙を見ては背後から近づいてくる。


けれど――



(ふふん、甘いわね。そんな鈍足で、あたしを捕まえられるとでも思った?)


ミサコは常に冷静だった。

認識阻害と音封、高速移動の魔法を巧みに使いこなし、彼らの動きを封じる。


決して反撃はせず、けれど確実に距離を取る。

その戦いぶりは、まるで優雅な舞のようにすら映った。


(これくらいの連中じゃ、わざわざレオ様を巻き込むほどでもないわね。あたし一人で十分)



* * *



ある日、ミサコのもとに一通の手紙が届いた。差出人は学園の講師で、明日の13時よりダンスの追加講習がある旨が記載されていた。


(んー? このタイミングでダンス講習って、ちょっと胡散臭くない? ……でも、確かに先生の筆跡だし、サインも本物っぽい。考えすぎかな)


ここ数日、見知らぬ男たちに襲撃されるような日が続いていたせいか、神経が過敏になっているのかもしれない。何かにつけて裏があるように思えてしまう自分に、ミサコは苦笑を浮かべる。


(……いやいや、落ち着こう。場所は学園内。講師からの手紙にまでビビってたら、身がもたないわ)


ミサコは小さく息をつき、スケジュール帳に「13:00 ダンス講習」とさらりと書き込んだ。



* * *



翌日、指定の時間に大ホールへ向かうと、そこには――


「……レオ様?」


「クラリッサ、君も来たのか」


どうやらレオにも、同じような手紙が届いていたらしい。しかしホールには人の気配はなく、あたりは静まり返っていた。


(やっぱり、何かおかしい……)


「――罠ですわね」


その言葉と同時に、ホールの扉が重い音を立てて閉まる。


(まずい……!)


とっさに二人で物陰に身を隠す。だが、足音の数と気配の濃さからして、ただの悪戯では済まされそうにない。


(しまった……油断しすぎた)


ミサコはすぐに透視眼のスキルを発動し、ホールを探る。広い空間に、明らかに場違いな黒装束の男たちが十人。入口と非常口、すべての経路を塞ぐように配置されていた。


(……この状況で、レオ様連れて逃げるなんて、無理だわ。下手に動けば、即囲まれる)


ミサコは目を伏せ、一瞬だけ深呼吸する。


(……しかたない)


静かに呪文を唱える。

薄く光る術式がレオの身体を包んだ瞬間、彼が驚いたようにこちらを見た。


「レオ様、どうかお聞きくださいませ」


ミサコは、クラリッサとしての微笑みを絶やさず、けれど毅然とした声音で続けた。


「貴方に、認識阻害と音封の魔法をおかけしましたわ。

これで、周囲から姿を認識されにくくなり、貴方が発する音も、術者――つまりわたくし以外には聞こえません。

自ら接触でもしない限り、気づかれることはないでしょう。


これより、わたくしが囮となります。

扉が開いたその時――どうか、迷わずお逃げになってくださいませ」


「? ……なぜ、一緒に逃げない」


レオが低く問う。その問いに、ミサコはわずかに困ったように笑い、けれど答えははっきりしていた。


「認識阻害の術は、どうしても魔力の消耗が激しいのです。同時に掛けられるのは、せいぜい音封までが限界ですの。これが、今のわたくしにできる精一杯ですわ」


そう言って、ミサコはふっと微笑んだ。

その笑みはまるで何でもないことのように、安心させるためのものだった。レオの不安を打ち消すように、優しく、穏やかに。


レオが何かを言いかけ、口を開いた――


「でも、ご安心くださいませ」


ミサコはすぐさま、やんわりとした口調で、しかし決して言葉を挟ませない強さで言葉を被せた。


「彼らがわたくしを拘束し、尋問に移るまでには、いくらか時間がかかるでしょう。その間、扉が開くくらいの猶予は稼げるはずですわ」


レオが何かを言いかけたのを遮るように、ミサコはふわりと微笑んだ。


「レオ様――お願いです。わたくしのわがままだと思って、どうか従ってくださいませ」


そう言い残し、彼女は物陰から飛び出した。


「クラリッサ!!」


自分にしか届かないレオの声を背に、真っ直ぐホールの中央へ。

敵の視線を一斉に集めながら、ミサコはひるむことなく歩を進めた。

堂々と姿を現したその姿に、周囲がざわめく。


「……ここまでされるとは、お見事ですわ。降参いたします。」


静かに、しかし確かな声音でそう告げる。

その口元には微笑みすら浮かんでいた。

敵の男たちは一瞬たじろぎながらも、やがて彼女を取り囲む。


「連れの男はどこだ?」


「さあ? わたくしがここへ来たときには、誰の姿もありませんでしたわよ?」


「そんなはずはない」


男たちは慌てたようにホール内を見回すが、レオの姿はどこにもない。


「目的はわたくしなのでしょう? でしたら、それで十分ではありませんの?」


凛とした声音に、男たちが一瞬言葉を失う。


やがて、ミサコは、後ろ手にロープで厳重に縛られた。

さらに、首に冷たい金属の感触が触れる。カチリという音とともに、首輪が装着される。


「……あんたは妙な魔法を使うからな」


低い声が皮肉を含んで呟いた。


「この首輪はな、付けてるだけで魔力をじわじわ吸い取っていく代物だ。下手に魔法でも使おうもんなら、すぐに魔力切れで昏倒だ。……せいぜい大人しくしてな」


ミサコは奥歯を強く噛み締める。


首輪からじわじわと魔力が吸われていく。胸の奥がじんわりと重くなる感覚に耐えながら、ミサコはじっと集中を続けた。


(……扉が開くまで、何とか持たせなきゃ)


こっそりとレオが隠れている方へ意識を向ける。


(レオ様……お願い、どうか無事に逃げて)


麻袋を頭からすっぽりと被せられ、視界は完全に閉ざされた。

だが、聞こえる足音の数、重なる気配の動きから、数人が近くにいると分かる。


肩に担がれた身体が大きく揺れる。重くのしかかる圧迫感に息を詰まらせながらも、ミサコは神経を研ぎ澄ませた。


そして――ギイ、と鈍い音が響く。

木製の扉が、音を立ててゆっくりと開かれた。


(……今よ、レオ様。逃げて)


ミサコは声を出さず、心の中でそっと叫んだ。

魔力は、少しずつ、確実に削られていく。

それでも――彼が逃げ切るまで、耐えてみせる。



* * *



運び出される最中も、ミサコの思考はレオのことだけを追っていた。


しばらく揺られるうちに、(ああ……ちゃんと逃げられただろうか)と、ふと思う。


けれど、その願いとは裏腹に、身体は少しずつ重くなっていく。

魔力の消耗が限界に近づいていた。


(もう……残りが……少ない……。でも、まだ……もう少し……、もう少し、だけ……)


だが、無情にも意識はゆっくりと沈んでいく。


身体が硬い床に降ろされ、馬車が動き出したことをかすかに感じたその瞬間――

ミサコの意識は、ふっと闇に沈んでいった。



* * *



――パシン。


「……っ!」


その衝撃で、ミサコは目を覚ます。頬が熱い。意識が霞みながらも、目の前にいる人物の輪郭だけは、すぐに理解できた。


「お目覚めかしら? おヒメサマ」


マルグリッドが、軽蔑と勝利に満ちた笑みを浮かべ、手にした扇子をひらひらと揺らしていた。 


魔力封じの首輪が、じわじわとミサコの体力と意識を削っていく。視界は揺れ、頭も重い。けれど、彼女の声だけはやけに鮮明に響く。


「ふふ……ようやく捕まったのね。なんてしぶといのかしら。

高額の“ご褒美”を払ってあげてるのに、これでは割に合わないわね」


マルグリッドはその場に控える闇ギルドの男たちを一瞥すると、不満そうに男達を睨みつける。

が、すぐに気を取り直した。


「ま、いいわ。レオ様はこれで私のもとに戻る。……そして、あなたに奪われた屈辱も、こうして晴らせるのだから」


そう言って、彼女はミサコの顔を扇子の先でぐいと持ち上げる。


「よくお聞きなさい。レオ様は選ばれしお方。容姿も、家柄も、すべてが特別なの。

だからこそ、その伴侶に相応しいのは、完璧な私だけ。

そんな私に恥をかかるなんて――身の程知らずにも程があるわ。死んで償いなさい」


狂気じみた声でそう言い放ち、マルグリッドは笑い出した。腹の底から、心の底から楽しんでいるように。


「……」


――以前、レオになぜ婚約者を持たないのかと尋ねたことがあった。


あのとき、彼は何も言わなかった。ただ――

返事の代わりに向けられたまなざしは、言葉以上に雄弁で――でも、どうしようもなく空虚だった。


見つめ返したミサコの胸に、冷たいものがじわりと広がる。


(……あの子、ずっとこんな気持ちでいたの?)


胸が締めつけられる。

誰にも気づかれないまま、ただ「理想の令息」として扱われ、欲望や見栄の視線を向けられ――

「誰か」ではなく「何か」としてしか見られてこなかった。


(そりゃあ……笑えなくもなるわよね……)


クラリッサの日記に書かれていた、些細な所作のひとつひとつが、痛いほど心に刺さる。


――夜、使用人から湯飲みを受け取るとき、そっと目を伏せて小さく会釈したこと。

――庭の花が咲いたのを見つけて、ほんのわずか微笑んだように見えたこと。

――誰もいない部屋で、月を見上げて、どこか遠くの記憶を辿るような眼差しをしていたこと。


(まだ17歳なのに……彼の抱えるものは、あまりにも重すぎる)


胸の奥がきゅっと締めつけられた。

誰よりも気高く、誰よりも美しく、完璧に振る舞っているけれど――

その裏にある静かな孤独と、絶えず背負わされる“役目”という名の鎖を、どれだけの人が本気で見ようとしてきただろう。


声にならない想いが、胸の奥から突き上げる。


「……そんな考えで……あの子の隣に立とうっていうの? それで、あんたは、虚しくないの……? ほんと……バカげてる……」


息がうまく吸えない。魔力の枯渇に加え、言葉を絞り出すのもやっとだった。


けれど、言わずにはいられなかった。


「黙りなさいッ!」


怒声とともに、扇子が再び振り下ろされる。


――ゴンッ!


硬い芯が頭に叩きつけられた。視界がぐらつき、世界が歪む。


「もういいわ!さっさと片付けてちょうだい!」


マルグリットの怒鳴り声が、冷えた空気に突き刺さる。

その場にいた者たちが一瞬たじろぐほどの苛立ちを含んだ声。


次の瞬間、バンッ!

重く硬い扉が乱暴に閉じられる音が響いた。

空気が揺れるほどの勢いで、部屋の中の静寂が一変する。


――マルグリットは立ち去った。


扇子で殴られた頭が、じんじんと痛む。視界は揺れ、端がかすかに滲んでいる。

首にかけられた首輪が、じわじわと力を奪っていく。

まぶたが重く、手足は痺れたように動かない。


けれど、その中でも、ミサコの思考は細く静かに続いていた。


(……クラリッサは違った)


無表情の奥に隠された優しさや、誰も気づかない小さな感情。

それを、言葉にして記録していた。レオという人間を、真正面から見つめていた。


(クラリッサも、あの子にとっての――“希望”だったのかもしれないね……)


そんな事を考えながら、ミサコの意識は、ゆっくりと闇に沈んでいく。

静かに、まるで深い眠りへ落ちていくように。



* * *



「――おい……おい、起きろ」


男の声が、遠くから響いてくる。

ミサコは重いまぶたをわずかに開けた。

視界に、見覚えのない男の顔がぼやけて浮かぶ。


「飲め」


強引に口元に瓶が押し付けられ、ぬるい液体が流れ込んできた。

拒むより先に、渇いた喉が受け入れていた。

数瞬後、霞んでいた意識が次第に明瞭になっていく。


「魔力回復の薬だ。とはいえ、ごく少量。逃げられるほどじゃあない。

だが、頭は冴えるはずだ。……話ができるくらいにはな」


男がにやりと口の端を上げた。

男の意図が読めず、ミサコはしばし無言のまま様子をうかがった。


「取引しないか?」


ミサコが視線を鋭く向けると、男は淡々と続けた。


「お前の魔法のことは、仲間から聞いてる。

魔法の詳しい仕組みまでは知らねぇが、訓練積んだ連中が手こずったってんだ。相当だろ。

……お前なら、屋敷のひとつやふたつ、簡単に忍び込めるんじゃないか?」


「しかも侯爵の娘だろ?

上流の繋がりもあるし、王宮で動くのもそう難しくないってわけだ」


肩をすくめ、口元に笑みを浮かべながら続ける。


「……あの女には“始末しろ”と言われてるがな」


男は肩をすくめ、どこか楽しげに続けた。


「違約金を払ったとしても、お釣りがくる。

お前は今まで通りの暮らしを続けて、たまに依頼を受けてくれたらいい」


視線をじっと向け、わずかに声を落とす。


「悪くない取引だろ?」


――ミサコは静かに唇を開いた。


「お断りします」


その声音は穏やかでありながら、決して揺らがない。

男は驚いたように眉をひそめ、なおも食い下がる。


「分かってるのか? 命が助かるんだぞ」


しかしミサコは、静かに――けれど確かに頷いた。

瞳には怯えも迷いもなく、ただ澄んだ決意だけが宿っていた。


「そんな下賤なことをしてまで、生き永らえるつもりはありません。誇りを売るくらいなら、私は喜んで死を選びます」


凛とした美しさをまといながら、ミサコは静かに目を閉じた。


「……チッ……生意気な!」


男の声が低く唸るように響く。

歯向かわれた屈辱と、鼻先で断られた怒りが一気に噴き出した。


「――お望みどおり、やってやるよ」


怒りに燃えた目でミサコを睨みつけながら、振り返って怒鳴る。


「おい!」


即座に斧を持った部下の一人が動き出す。

無言のまま、ミサコのもとへと足音も荒く近づいていった。


目を伏せたミサコは、そっと呟いた。


「クラリッサ……ごめんね。

あんたの想い、レオ様に伝えきれなかった」


小さく息を吐き、目を閉じる。


「でも――」


脳裏に、日記の一節が浮かぶ。

『一、レオ様のお暮らしに支障をきたすような接触や、行動は断じて行わぬこと。』


「仮初とはいえ、婚約者の身。

……アンタだって、断るでしょ?」


凛とした声音と共に、ミサコは覚悟を決めて瞼を閉じた。


静寂が降りる。



「――動くな! 治安部隊だ!」


扉が爆音と共に吹き飛び、数名の黒衣の兵士たちが雪崩れ込んだ。

部屋の空気が一変し、男たちの動きが凍りつく。


ミサコは呆然と、その光景を見つめていた。

何が起きたのか、理解が追いつかない。


だが、次の瞬間。


「クラリッサ……!」


その声が聞こえたとき、ミサコの心臓が跳ねた。

足音を蹴って現れたのは、――レオだった。


「クラリッサ……良かった……!」


彼は荒い息を吐きながら、真っ直ぐミサコのもとへ駆け寄った。

ひどく傷ついた彼女の姿を目にした瞬間、レオの顔がゆがむ。


「……っ……」


震える手でそっと彼女の頬に触れ、

レオはミサコを強く――その細い身体を壊してしまいそうなほど、強く抱きしめた。


「クラリッサ……っ、クラリッサ……!」


繰り返し、名を呼ぶ声は、これまでミサコが知るレオのものではなかった。

冷静で、隙を見せず、いつも一歩引いていたあのレオが

――今、完全に取り乱していた。


「……レオ……様……?」


思わずミサコが呟く。

あまりの変わりように、戸惑いと驚きが入り混じる。


だがレオは、その声にも返事をせず、ただ彼女を抱きしめる腕に、なお力を込めていた。

ご覧いただきまして、誠にありがとうございました。


次回のエピソードは、

* レオの心 *

です。


よろしくお願いいたします。

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