* ミサコの奮闘 *
「……婚約者だって?」
低く、冷ややかな声が応接室に響く。
その一言に、空気が凍りついたような気がした。
(ですよね……! それは驚くわよね……!)
ミサコは内心で冷や汗をかきながらも、外面だけは落ち着いた微笑を浮かべた。
クラリッサとしての礼儀と振る舞いを忘れず、ゆっくりと一歩前に出る。
「ええ。ですが、これは仮初のものでございます。世間体を保つためだけの関係……恋慕や情愛を交わすことは一切、求めません」
「……なぜ、そんな提案を?」
ミサコは小さく息を整え、姿勢を正す。
「貴方様が、日々ご令嬢方からの過剰なご厚意に戸惑っておられるようにお見受けしました。
であれば、たとえ仮初めのものであっても、わたくしが傍に在ることで、幾ばくかの抑止力になるのではと――そう考えた次第ですわ」
「……」
レオの視線が一瞬、ミサコを値踏みするように流れる。
「その代わり、条件がございますわ。貴方様にご迷惑をかけることはいたしません。私情を挟むこともいたしません。それを破った場合、即刻この関係は解消し、二度と貴方様の前に現れることはございません」
(……全部言った。これでダメなら潔く引くしかない)
沈黙が落ちる。
冷たい風がカーテンを揺らし、部屋の隅で時計の秒針が静かに音を刻む。
(……やっぱり、ダメかぁ。そうよね、そんな簡単に受け入れてもらえるわけ――)
「……分かった。よろしく頼む」
ミサコの呼吸が一瞬止まった。
「……お、お受けくださるの……ですか?」
信じられない思いで問い返すと、レオは「ああ」と頷いた。
ミサコは、これ以上動揺を悟られぬよう、慌てて背筋を伸ばす。
「ありがとうございます、ヴァルシュタイン様。誠心誠意、この役目を果たしてみせますわ」
深々と一礼するミサコ。その声音は静かに澄み、まさに令嬢そのものだった。
レオはしばし黙って彼女を見つめていたが、ふいに口を開いた。
「……レオだ」
「……え?」
一瞬、ミサコの思考が止まる。
「婚約者を名乗るのなら、名前で呼べ」
その声に感情はない。けれど、決して冷たいわけではなかった。
そう言うとレオは、音もなく一歩、こちらへ歩み寄った。
目の前まで来て、ふと身をかがめ――まるで何かを確かめるように、真っ直ぐにミサコの瞳をのぞき込む。
「……呼んでみろ」
低くて静かな声。けれど、すぐ近くで聞くと、息がかかるほどの距離で――危ういほどに甘く聞こえる。
瞳は深い湖のように澄んでいて、吸い込まれそうだった。
(え、ちょ、なにこの距離……目が……やば……)
心臓がうるさい。顔に出さないように笑みを保つだけで必死だった。
「……承知いたしましたわ、レオ様」
なんとか絞り出すように呼びかけるが、レオは目を離さない。
深く静かな湖のような青。感情を押し殺したその奥底に、焦がれるような熱が、確かにゆらめいている。
切なさと孤独、そして微かに滲む求めるような眼差し。
その視線がまっすぐ自分を射抜いた瞬間、ミサコの中を電流のようなものが走り抜けた。
(……っ!)
時間が一瞬、ゆっくりと流れ出す。
世界の音が遠のき、ただレオの視線だけが心を占めていく。
息をするのを忘れてしまいそうだ。
レオはわずかに瞬き、静かに息を吐いた。
「……それでいい。これからは、そう呼んでくれ」
淡々とした声。でもその響きが、妙に耳に残る。
ーー。
(な、なんだったのーー!?)
思わず心の中で叫ぶ。
体の芯がじんわり熱い。鼓動がまだ落ち着かない。
(ちょ、なにあの目……落ち着けあたし!)
あの視線、あの間――
ミサコの倫理センサーがガンガン鳴りだした。
(いやいやいや、無理無理無理! あんな見つめ方されたらドキッとするに決まってるでしょ!? だめだって、17歳だよ!? 日本なら完全にアウト案件よ!? ああもう、オバチャンをからかうんじゃありませんレオ様……!)
芽生えかけた“何か”に蓋をするように、全力でツッコミ続けた。
その後どうやって帰宅したのか、まるで記憶に残っていなかった。
部屋に入るなり、酷く脱力して、うつ伏せでベッドにダイブする。
そのまま沈黙。数分後、ようやく心が静まっていく。
「……やっと、落ち着いてきた」
寝返りをうって、仰向けになった。
「とりあえず、首の皮一枚、つながったよ……」
天井を見上げながら、クラリッサに語りかけるように呟く。
心の奥にじんわりとした疲労と高揚が渦を巻き、混乱した思考がしばし宙を彷徨う。
(……あたし、平常心でいられるかな……。
いや、無理じゃない? ……いけるの? 本当に?
あの子、自分の容姿の良さ、絶対自覚してないでしょ!?
クラリッサならもうぶっ倒れてるよ!?
明日からの学園生活、どうなっちゃうのよぉおおーー!)
こうして――仮初の婚約劇は、静かに(?)幕を上げたのだった。
* * *
後日、二人は情報の共有を始めた。
仮初とはいえ婚約関係を結んだ以上、今後とも協力して立ち回るための下地が必要だった。
「……というわけで、彼女の手紙は、最初は月に一度くらいだったんだ」
レオは机の上に整然と並べられた封筒の束を、軽く手で示す。
どの便箋も美しく装飾され、仄かに香水の香りが漂っていた――が、その数と厚みに、ミサコは思わず目を見張った。
「まぁ……これはまた、随分と熱心ですのね」
「最初の頃は、まだ節度があったよ。自分の特技や美点のアピールとか、俺の好みに合わせた贈り物とか……。一応、配慮は感じられた」
ミサコは黙ってうなずく。
彼女の知るかぎり、マルグリットは容姿も才気も申し分ない令嬢だ。社交界でも一目置かれ、周囲の評判も決して悪くはない。けれど――
「けれど、だんだん変わってきた。頻度も、内容も」
レオの声には、かすかに疲れの色がにじんでいた。
「“一緒に街へ出かけましょう”とか、“夜会のパートナーになってください”とか。こちらに応えてほしい、という要求が、次第に強くなっていった。そして最近は……」
彼は数枚の便箋を抜き取り、ミサコの前に差し出す。
「“今日はどこにいらっしゃいましたの?” “私以外に親しい女性は?” “どうしてお返事をくださらないの?”――今はこんな調子だ。しかも、ほぼ毎日のように」
(うわぁ……それ、もうストーカー手前では……? クラリッサの方が、よっぽど控えめだったんじゃ……)
内心ではそう思いながらも、ミサコは表情に出さず、上品な微笑みを保った。
「それではもはや、求愛というより……詰問でございますね」
思わず口に出してしまったミサコの言葉に、レオはわずかに目を伏せた。
「そうだ。もちろん、返事はしている。ただ……毎日手紙を寄越されても、俺にも侯爵家や生徒会長としての務めがある。頻繁には返せない。せいぜい週に一度が限度だ」
その声には、静かな苛立ちと疲れがにじんでいた。
ミサコはふと、彼の心の重みに思いを馳せ、同情の色を浮かべる。
「……ラファニュ様に、一言はっきりお伝えするわけには?」
「彼女は侯爵家の令嬢だ。婚姻相手として家格にも申し分がない。周囲からは、なぜ即座に縁談をまとめないのかと、責められることすらある。……無下には、できない」
レオの声音には、明確な苛立ちや怒りこそないが、その感情の底にある“やりきれなさ”が、ミサコにはよく伝わった。
(まあ、いくら家柄や見た目が完璧で、立ち居振る舞いが完璧でも……あそこまで追い詰められたら、そりゃ婚約なんてしたくなくなるよね)
「ご事情はよくわかりました。ですが、仮の婚約者として私がそばにいることで、他の令嬢方の動きはある程度抑制できるかもしれません。……ただ、ラファニュ様には、それも効果が薄いように思えますわ」
レオが小さく頷いた。ミサコはそこで、少し躊躇したのちに打ち明ける。
「それで――この件に関しては、私の手持ちのスキルで補えることがございます。“透視眼”という術でして……視界を遮る障害物をある程度透過し、対象を拡大して捉えることができますの」
「……?」
「たとえば、建物の外からでも中の様子を把握できたり、遠くにいる人物の表情を読み取れたり……といった具合に。これで、ラファニュ様の接近を早期に察知することが可能かと存じます」
レオの表情が微かに固まった。何かを思い出すような、そして戸惑いを隠しきれないような視線。
(……あれ? なんか……変な雰囲気)
「……君。毎晩、そのスキルを使って、俺を“外から”見てただろう」
「……え?」
「見られてる感覚は、わかる。俺には“視線を感知するスキル”がある。ずっと……毎晩、感じていた。」
レオの声は淡々としていたが、その声にはわずかな困惑がまぎれていた。
「視線には、個性がある。強い好意も、敵意も――それなりに雰囲気で分かるようになってる。
あれは……たしか、七歳のときだった。ある日突然、その感覚が芽生えて、それ以来ずっと、毎晩感じてたんだ。お前の“視線”を、な。けれど、最初からずっとあるものだから、視線だとは思っていなかった。精霊の加護か何かなのでは、とすら思っていた」
そこまで語ったレオは、一拍置いてミサコを見た。
「でも――入学式で、お前と目が合った瞬間に分かった。ああ、あの“視線”は……お前だったんだって」
その一言に、ミサコは息を飲んだ。
(……そうだったのね。ずっと、気づかれていたんだ……)
クラリッサに悪意があったわけではない。けれど、それはあくまで“本人の中だけ”の理屈。観察するという行為が、相手にとってどれほどの負担になるかを思い知らされた瞬間だった。
しかも、入学してからは昼間まで……。
(……倒れる前、彼があれほど疲れていたのは……私たちのせいだったのかもしれない)
不可抗力ではあったものの、クラリッサを止められなかったことに、ミサコは深く罪悪感を覚えた。
「申し訳ございません……、レオ様。本当に、心から……申し訳なく思っております。クラリッサが……いえ、私がしてきたことは、許されることではありませんわ」
頭を下げ、ミサコは誠心誠意、謝罪の言葉を紡いだ。
「……もう、二度といたしません。どうか、今は安心してお過ごしくださいませ」
そのまま、ミサコは長く頭を下げていた。
しばしの沈黙の後――
「……そこまで思い詰めなくていい」
低く、けれど不思議と落ち着く声だった。ミサコが顔を上げると、レオは少しだけ視線を外しながらも、どこか柔らかな眼差しを向けていた。
「謝罪の言葉は、もう受け取った。……それで十分だ」
その目はいつものように冷静で、けれどどこか、微かに揺らいでいるように見えた。威厳を崩すことはないが、まるで――少しだけ安心したかのような表情。
「君がそれほど悔いているなら、俺はそれを信じる。それ以上、責める気はない」
その一言が胸に落ちた瞬間、張り詰めていたものがふっと緩んだ。
「レオ様……」
そっとレオを見つめると、彼の瞳にはわずかに優しさが滲んでいる気がした。
胸の奥がじんと熱くなり、思わず目の奥が潤みそうになる。
レオは静かに、ミサコの手に目を落とした。
そのまま指先をそっと取ると、
――ふいに、彼の唇がその肌に触れた。
ほんの一瞬。
温もりは儚く、けれど確かにそこに在った。
ミサコの思考が、止まる――。
(……え?)
一拍。
二拍。
(――――え??)
三拍。
頭が、真っ白になった。
(いま……なに……された……?)
ぽかん、としたまま思考が空転する。
状況が、飲み込めない。
が、ようやく、現実を追いかけるように脳が動き出した瞬間――
倫理センサー、稼働シマス。
!!緊急警報、発令中!!
(ちょ、ちょ、ちょっと待ってーー!?
なにその行動!? なんで唐突に“指先に口づけ”なの!? 落ち込んでた相手を励ますにしても、選択肢、もっと他にあったでしょ!? 肩に手を置くとか! 声をかけるとか!! なんで一番“ときめき”そうな選択肢選んでくるの!?!?!? しかも、君がそれほど悔いてるなら信じるとか言っておいてそれ!! 完全に乙女ゲームのスチルイベントじゃん!!! だめだってそんなの!! 絶対勘違いするやつ!!)
脳内で真っ赤なアラートが鳴り響く中、ミサコは必死に表情を取り繕った。
顔色は変えず、視線を伏せ、ただし心はフル回転で暴走中。
(やばい……今、笑った? レオ様、ちょっと笑ったよね!? うわぁ、優しい笑顔だぁ〜……ハッ……やばい……好きになっちゃう……!! だめだってば私ィィィ!!!)
唇を結び、ミサコは静かに拳を握りしめた。
耐えろ、理性。踏ん張れ、倫理。
(負けるな……これは、完全なる無自覚ハニートラップ……!!)
* * *
マルグリットへの対策は、ミサコとレオのスキルを組み合わせた、極めて慎重なものとなった。
「……また来てる。どこかから、強く見られてる気配がする。マルグリット嬢のものだ」
ミサコはすぐに“透視眼”であたりを見回す。
空間の向こう側が透けて見え、すぐに、気になる影を一つ捉えた。
「見つけました。この先のメインホールの東、肖像画の廊下にラファニュ様がいらっしゃいます。このままでは接触の恐れがありますわ」
柱の影に隠れて、接触しようとしているのだろうか。
「了解。進路を変えよう」
レオはすぐさま身を翻し、ミサコの指示に従って別の回廊へ足を運ぶ。
「万が一にも、二人きりの場面は避けましょう。危険ですわ」
「わかってる。……頼りにしてる」
レオが短くそう言った時、ミサコはほんの少しだけ胸が熱くなるのを感じた。
それを表に出すことはなく、平然とした表情のままうなずく。
最近、マルグリットはレオの向かう先で待ち伏せしている光景が増えてきた。
偶然に見せかけて通路に立っていたり、あらかじめレオの授業予定を把握していたのか、曲がり角でばったり鉢合わせる“偶然”が何度も続いた。
(……完全に狙ってるわね)
ミサコは静かに、しかし確実に危機感を強めていた。
マルグリットは明らかに“接触”を試みている――それも、偶発的な会話のきっかけではなく、二人きりで話せる時間を作ろうと意図しているように思えた。
下手に出れば、また何か療養室のときのようなことが起こりかねない。
それだけは絶対に避けなければならない。
「彼女、動き出しました。西廊下、第三温室の前に向かっています。……そちらのルート、今は避けた方がよろしいかと」
ミサコの報告を受けて、レオは小さく息をつきながら頷いた。
「了解した。じゃあ、講堂を抜けて裏庭側から回ろう。あの距離なら、間に合うだろう」
二人は阿吽の呼吸で進路を変更する。
その陰で、未然に防がれた“偶然”がまたひとつ、静かに崩れ去っていた。
* * *
学園の授業が終わると、ミサコは正門の前で待っていた黒塗りの馬車に、レオとともに乗り込んだ。
目的地は――ヴァルシュタイン邸。
今回の訪問は、レオの父であるヴァルシュタイン侯爵に、「婚約者」としての立場を認めてもらうためのものだ。
「緊張してるのか?」
向かいに座るレオが、ふと声をかけてくる。
「ええ。……少しだけ。でも、覚悟はできておりますわ」
ミサコはクラリッサらしい微笑みを浮かべて答える。しかしその内心では、慎重に言葉を選びながら、自分に言い聞かせるように思考を巡らせていた。
(レオ様の仮初めの婚約者とはいえ、侯爵家当主に認められなければ、本格的な“盾”とはなり得ない。――うまくいけば、マルグリットに対しても、明確に一線を引けるはず)
レオもまた、馬車の窓越しに遠ざかる学園を無言で見つめながら、短くため息をついた。
「父は形式を重んじる人だ。立ち居振る舞いに気をつけてくれ。……まあ、君なら問題ないと思うが」
「心得ておりますわ。こう見えて、礼儀作法にはそれなりに通じておりますの」
そのやり取りのあと、二人の間にしばし静寂が流れた。
(大丈夫。私は“クラリッサ・フォン・エルフェリア”――令嬢としての振る舞いも、家格も、申し分ない)
ミサコは深く息を吸い、表情を整える。
馬車は石畳の坂道をゆっくりと進み、やがて重厚な鉄の門の前で停止した。夕暮れに染まるヴァルシュタイン邸が、その壮麗な姿を現す。
「行こう」
レオが先に立ち上がり、扉を開けて手を差し出す。
ミサコはその手を取って馬車を降り、二人は並んで邸の門をくぐった。
(この一歩で、ようやく――レオ様の“盾”になれる)
決意を胸に、ミサコは静かに歩を進めた。
* * *
重厚な扉が静かに開かれ、赤絨毯の敷かれた広間へと通された二人。
ヴァルシュタイン侯爵は執務机の前に立ち、厳格な眼差しで彼らを出迎えた。
年齢のわりに背筋はぴしりと伸び、威厳あるその姿には、レオの父というだけでなく、一国の権力者としての風格が滲んでいた。
「父上、紹介します。こちらが――クラリッサ・フォン・エルフェリア嬢です。今日、この場にて、婚約者としてお認めいただきたく、参上しました」
レオの言葉に促され、ミサコ――いや、クラリッサとして立つ少女は一歩前に出る。
優雅にスカートを摘み、深く、そして淀みない動作でカテーシーを捧げた。
「クラリッサ・フォン・エルフェリアと申します。このたびは、このような機会を頂戴し、大変光栄に存じます。……何卒、よろしくお願い申し上げます」
凛とした声。隙のない礼儀。
ミサコの中に受け継がれた令嬢としての作法は、完璧にその場に生きていた。
公爵は無言で数秒、ミサコを見つめたあと、ふ、と鼻で笑ったような表情を浮かべる。
「なるほどな。ラファニュ家との縁談を、あれほどまでに頑なに拒んでいたのは、こういう事情だったか」
ヴァルシュタイン公爵の視線が、ゆっくりとミサコへと向けられる。
まるで何かの価値を測るように――品定めをするような眼差しだった。
ミサコはその視線を正面から受け止め、崩さぬ笑みのまま、深くカーテシーをした。
内心では、喉元に冷たい刃を突きつけられたような緊張が走っていた。
だが、怯むわけにはいかなかった。
ここで引けば、レオとの仮初めの関係すら守れない。
ゆっくりと身を起こしたミサコの背筋は、まっすぐに伸びていた。
「まあエルフェリア家なら、侯爵家の名家だ。家格としても申し分あるまい。我が家としても異を唱える理由はない」
形式的な口調。しかしその奥にあったのは、「身分さえ整っていれば、誰でも構わん」という――息子への無関心と割り切り。
ミサコはその言葉に表面上は微笑みを保ちつつも、冷たいものが胸に差し込むのを感じた。
そして隣のレオに目を向けた瞬間、彼の無表情の中にかすかに揺らぐものが見えた。
怒りとも、悔しさとも、寂しさともつかない、曇り。
それでも彼は、何も言わなかった。
ただ、侯爵の言葉を飲み込むように、黙ってその場に立ち尽くしていた。
(……レオ様)
ミサコの胸に、静かに疼くような思いが宿る。
それが“同情”なのか、“共感”なのか――自分でも、まだ分からなかった。
* * *
挨拶を終えた二人は、静かにレオの私室へと移動した。
「ここが俺の部屋だ。もっとも、君には見慣れた場所かもしれないが」
ミサコにとっては、心の古傷を鋭く抉るような言葉だった。
うつむきかけたミサコを見て、レオはすぐに気づく。
「いや……責めているわけじゃないんだ。ただ、君に聞きたいことがある」
ミサコはゆっくりと顔を上げた。
レオはわずかに間を置き、呼吸を整えるようにして――静かに問いを口にした。
「……どうして……十年間、俺を見ていたんだ」
視線はまっすぐに、ミサコを貫く。
もはや怒りではない。
ただ、真実を知りたいという強い願いだけがそこにあった。
――ミサコは、一瞬もためらわなかった。
「あなたは、わたくしの“希望”だったからです」
その言葉には、クラリッサの想いがそのまま宿っていた。
短く、けれど誤魔化しのない言葉だった。
「……希望?」
レオが小さく繰り返す。
「それは、どういう意味だ?」
ミサコは静かに目を伏せ、そして語り出す――
幼き日に背負った恐怖と、絶望。
その最中に出会った少年――
自分を救った、少年の行動。
「あのとき、レオ様がいなければ、わたくしは……きっともう、ここにはいなかった――」
(――いや、"あの子"はもう、いないんだ……)
言葉の最後を飲み込むミサコの胸に、疼くような痛みが走った。
それでも、今この瞬間だけは、あの想いを届けたかった。
レオは、しばらく何かを考えるように俯き、それから顔を上げた。
「君は――」
何かを言いかけた、そのとき。
「エルフェリア様。迎えの馬車が到着いたしました」
控えめなノックの音と共に、使用人の声が扉の向こうから届いた。
ミサコはレオに向き直り、一礼をする。
「それでは、失礼いたしますわ。レオ様」
「……ああ」
言葉は少なかったが、その声音には何かがわずかに揺れていた。
玄関先で馬車へ乗り込むミサコを、レオはただ黙って見送った。
夕暮れの陽光を背にして遠ざかるその姿が、やけに静かに見えた。
――そして、レオの胸の奥に、小さな灯がともった。
それはまだ名もない、淡い火種。
けれど確かに、それはそこに、存在していた。
* * *
応接室には、緊張した空気が張り詰めていた。
その中心に座るマルグリット・ド・ラファニュは、背筋をまっすぐに伸ばし、静かに二人を見つめている。
彼女の表情には笑みが浮かんでいたが、どこか硬く、研ぎ澄まされた刃物のような鋭さがあった。
「それで、本日は……どのようなご用件かしら?」
柔らかな言葉遣いでありながら、その声には明確な圧力が宿っていた。
レオが口を開く。
「クラリッサ嬢と、正式に婚約した。両家の承認も得ている。……だから、マルグリット嬢には、今後の接触を控えてもらいたい」
マルグリットの微笑は一瞬だけ揺らいだ。
けれど、すぐに取り繕うように唇の端をつり上げる。
「まあ……驚きましたわ。随分とご決断がお早いのね、レオ様。先日までは、学園にいる間は誰の手も取らぬと仰っていたはずでしょう?」
その目は笑っていない。
静かな声には、どこか刺すような冷たさがあった。
「あなたのご厚意には感謝しております、ラファニュ様」
ミサコが一歩前に出て、丁寧な所作でカーテシーを見せた。
「ですが、今後はレオ様の婚約者として、私がすべてに対処いたします。これまでのような親密なご連絡や接触は、貴女様のお立場を損なう恐れがございますわ」
マルグリットの微笑が、ほんの僅かに深まる。
「……あら、随分と“ご立派な”お考えなのね、エルフェリア様。ご自分がレオ様の隣に相応しいと、本気でお信じになっているのかしら?」
その声音はあくまで優雅で、口調も穏やかだった。
だが、空気の温度が一瞬で冷えるような重みを孕んでいる。
「ええ、もちろんですわ」
ミサコは一歩も引かない。
そして、そっと隣のレオを見上げる。
気配を察したレオも自然に顔を向け、視線が交わる。
ミサコは静かに微笑み、レオもわずかに表情を和らげた。
その笑みは滅多に見せないほど穏やかで、柔らかく、彼女の胸の奥をそっとかき乱す。
(――はい。キケンが迫っているため、緊急回避しますねー)
なるべくレオを意識しないように、マルグリットに視線を戻す。
「なにより、レオ様がわたくしをお選びくださったのですから」
レオは静かに身を寄せ、ミサコの肩に手を添える。
まるで彼女という存在を、ひとときこの腕の中に留めるかのように。
その所作には、言葉より雄弁な優しさが宿っていた。
――稼働シマス。
ミサコは思考をシャットダウンし、ひたすら優雅に微笑む。
(ほほほ、倫理センサーは今日も健在ですわよ〜)
そんな甘い(?)空気を受け、マルグリットが口を開く。
「……そう、でしたのね」
マルグリットは一瞬だけ瞼を伏せる。
その姿はあくまで気高く、崩れない。だが、指先がわずかに揺れた。
「事情は理解いたしましたわ。――レオ様がご自身で選ばれたというのであれば、もはや私の口から申し上げることは何もございません」
唇に笑みをたたえるが、その微笑にはわずかな張りつめた気配があった。
それでも背筋は伸びたまま、視線は高く、貴族令嬢としての威厳を失わない。
「どうぞ――お幸せに」
裾を翻す仕草さえ優雅に、彼女は踵を返すと、一礼もなく静かにその場を後にする。
ドアの閉まる音だけが、妙に冷たく響いた。
ご覧いただきまして、誠にありがとうございました。
次回のエピソードは
* マルグリットの影謀 *
です。
よろしくお願いいたします。