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* クラリッサの心 *

この後の記憶は、おぼろげだった。

気がついたときには、もう自室のベッドに倒れ込んでいた。


「……これで、良かったのよ」


ミサコは胸の奥で、誰にともなく言い聞かせるようにつぶやいた。


ストーカー行為自体、そもそも褒められたものじゃなかった。

特に最近は、執拗にマルグリットの邪魔をして――


ふと、さっきの出来事が頭をよぎる。


(マルグリット様、明らかに……おかしかったよね)


いつもの知性にあふれた、礼儀正しい彼女とはまるで別人。

あんなふうに男の子に強引に迫るなんて、ひどく品性を欠いていた。

もし、あれが本当の姿だったとしたら……?


――クラリッサが、それに気づいていたのだとしたら?


彼女はマルグリットの“本性”を直接見たわけではない。

けれど、あの尋常じゃない観察力で、マルグリットとレオのやり取りから“何か”を感じ取っていたのだとしたら――


『最近のレオ様は、お顔色が優れないご様子』

観察日記の一文が頭をよぎる。


その原因がマルグリットにあると、もしクラリッサが確信めいたものを抱いていたのだとしたら。

あの行動も……完全に間違っていたとは、言い切れないかもしれない。


「クラリッサ……あなたは、レオ様を……守りたかったの……?」


その言葉は、自分でも気づかないうちに口をついて出ていた。

ひとりきりの部屋の中。返事はない。けれど、ミサコの胸の内はざわつき続けていた。


(知りたい……)


クラリッサのことを。

あれほど一途に、静かに、ただひとりの存在を見つめ続けていた彼女の心の奥を。


あの時、クラリッサがどうしてあんな行動に出たのか。

どうして、レオを監視し、想いを告げなかったのか。


――どうして、彼女は消えてしまったのか。


思考の波に呑まれかけたそのとき、不意に視界の端に机の引き出しが映る。

ミサコは、何かに導かれるようにそっと歩み寄り、ゆっくりとそれを開けた。


底板をそっと外し、一冊のノートを見つめる。

――レオ様の《観察日記》。


まるで答えがそこにあるとでも言うように、ミサコの手は自然とノートへと伸びていた。


ページをめくる指先が、わずかに震える。


(……こ、これは……)


1ページ目を開いた瞬間、思わずミサコは目を丸くした。


そこに、丁寧な文字で書き記されていたのは――



―――――


《レオ様をお見守りするにあたっての心得》


一、レオ様がご不快に思われる行動は、いかなる理由があっても慎むこと。


一、無礼にあたる恐れのある場面――とくに肌の露わなご様子を目にすることのなきよう、心して行動すること。


一、レオ様のお暮らしに支障をきたすような接触や、行動は断じて行わぬこと。


一、自身の心情を悟られることのなきよう、慎みをもって距離を保つこと。


一、この行いが決して周囲に露見せぬよう細心の注意を払い、レオ様はもとより、ご家族や関係者にご迷惑をおかけすることのなきよう努めること。


―――――



(……ストーカーに“心得”!?)


思わず心の中で叫ぶミサコ。


(いやいや、どこからどう見ても観察日記なのに、本人は本気で“見守っている”つもりなんだ……)


その真剣さが伝わってくるからこそ、突っ込みようがない。

五箇条の内容だけ見れば、なんなら“推し活の心得”として通じる気がしないでもない。


(……いや、でもほぼ毎日、観察してる時点で、やっぱりアウトだろう……)


ミサコは額を押さえ、ため息をひとつ。


でも――不思議と、胸の奥に温かい何かが残った。

好きだからこそ、自制して、自分の中だけで守ろうとしていた。

その姿勢が、少しだけ、愛おしかった。



* * *



ミサコは、手元のノートをそっと閉じると、ふと周囲に目を走らせた。

――もしや、これだけではないのでは?


そんな予感に駆られ、部屋の隅、本棚の奥まった場所を探ってみる。


すると、あった。

隠すように、けれど丁寧に整頓された小さな空間。

そこには、同じ意匠の革張りのノートが、端から端までぎっしりと並べられていた。


「……これ、全部……?」


恐る恐る取り出し、背表紙に記された日付を追っていく。

初めの年、次の年、その次の年――


「……十冊……?」


手にしていたノートが震えた。

彼女は一冊ずつ、確かめるように指先を滑らせる。


「まさか、十年分……ずっと……?」


愕然とした。

呆れるしかないような――けれど、そこに込められた執念の強さに、言葉を失った。


「この子、十年間、毎日のように……」


レオを、見続けてきたのだ。


(執着、ってレベルじゃないわね……)


思わず溜め息が漏れた。けれどその中に、ほんの僅かな敬意のようなものも混ざっていた。

一人の相手に、ここまで心を注げるものなのか――


ミサコはノートの背表紙を指で撫でながら、ぽつりとこぼした。


「……これはもう、信仰って言ってもいいんじゃない……?」


けれど、そこまで一途に想い続けているのならば。

あの時、あの場でクラリッサが見せたあの行動も――


「……分からなくも、ないのかもね」


静かに、そう呟いた。



* * *



「まぁ、なんて可愛いの……! ねぇ、あなたも見て!」


母の弾んだ声に、クラリッサはくるりと一回転してみせた。

淡い桃色のドレスに、金糸であしらわれたレース。小さな肩には白いショールがかけられ、髪もふわりとカールしている。

鏡に映る自分は、いつものクラリッサとは少し違って見えた。


「まるで、お人形さんみたいだ。

とっても可愛いよ。きっと今日は、お友達がたくさんできるね」


父の優しい笑みに、クラリッサの胸はふくらむ。

ドキドキと高鳴る鼓動。緊張もあるけれど、それ以上に、今日という日が待ち遠しかった。


──わたしにも、きっと、お友達ができる。


そう信じていた。

深呼吸しながら、クラリッサは胸の中で何度も言い聞かせる。


初めてのお茶会。初めての社交の場。

どんな子が来るんだろう。何を話そうかな。

期待に頬を紅潮させて、クラリッサは両親に手を振り、屋敷を後にした。


けれど――その期待は、ほどなくして裏切られることになる。



* * *



「なに、その目……」

「気味が悪い。血みたい」

「悪魔の子みたいだね!」


周囲の子どもたちは、クラリッサの赤い瞳を見て、あからさまに顔をしかめた。

彼女が話しかけようとするたび、後ずさる。背を向ける。ひそひそと囁かれる声。


クラリッサは俯き、口を閉ざし、そのまま一言も話さずに屋敷へ戻った。



* * *



それ以来、彼女は心を閉ざした。

家族や使用人以外と接することを拒み、屋敷の外に出ることすら嫌がるようになった。

人前に立つことが、怖かった。目を合わせるのも、声をかけるのも。

すべてが、自分を否定する声に聞こえてしまう。


けれど、そんな彼女を心配した父は、ある日、そっと声をかけた。


「今日はお祭りだ。……少し、気分転換に外へ出てみようか。お父さまと一緒なら、安心だろう?」


半ば抱きかかえるようにして連れ出された街の中は、人で溢れ、色とりどりの飾りで賑わっていた。

屋台の匂い、笑い声、音楽、きらきらと揺れる光。

クラリッサは父の手をぎゅっと握りしめ、懸命に人混みをかきわけて歩いた。


――その時だった。


人波の向こうから、ゆっくりと歩いてくるひとりの少年が、クラリッサの視界に入る。

年の頃は、クラリッサより少し上だろうか。

深いローブに身を包み、フードで顔を隠していたその少年が、ふとすれ違いざまに顔を上げた――


「……っ」


白金の髪がさらさらと揺れ、深い青の瞳が人混みを静かに見渡している。

まるで絵本から抜け出たような、完璧な容姿。


クラリッサは思わず息を呑んだ。


「……きれい……」


心の中に言葉が浮かぶより先に、視線が引き寄せられていた。


気づけば、彼の姿を目で追っていた。

遠ざかるにつれ、ローブのフードが再び深く顔を覆い隠す。けれど――


その瞬間、クラリッサの視界が変わった。


ローブの布地がふわりと、まるで霞のように透けて見え――

その奥にある少年の顔が、鮮やかに浮かび上がった。


「……え?」


クラリッサは思わず瞬きをした。

けれど、その幻は消えなかった。

むしろ視界の方が、ますます澄んでいく。


気づけば、少年の姿を遮っていた人々までもが、まるで霧のように透け始めていた。

行き交う大人たちの背中、肩越しの景色、そのすべてがクラリッサの目を邪魔しない。

まるで“この人を見て”と、世界が彼にピントを合わせてくれているかのように。


(……どうして、こんなに、よく見えるの……?)


不思議に思う気持ちはあった。だがそれ以上に――

“ちゃんと見えてよかった”という、妙な納得が胸に広がっていた。


遠ざかる少年の姿が、まるで目の前にいるかのように、くっきりと映し出されている。

白金の髪が光を反射し、揺れるたびに輝く。

青い瞳はこちらを見ていないけれど、その横顔が、脳裏に焼きつくようだった。


その時――


人混みの少し先、背の低い子供が誰かに押されて転んだ。周囲の人は見て見ぬふりをする中、少年が動いた。


迷いもなく歩み寄り、泥だらけになった子供を助け起こし、袖で顔の汚れをぬぐってやる。

そんな子供に女性が駆け寄ってくる。

母親だろうか。

少年は、一言も話さずに、その場を立ち去った。


それはまるで、風が一輪の花にそっと触れていくような優しさだった。


(……この人を、ずっと見ていたい)


小さな少女の冷たい胸の奥に、小さな火が静かに灯った。



* * *



少年の正体を突き止めるのは、思ったよりも簡単だった。

侯爵家の息子であり、あれほど整った容姿を持つ者が噂にならないはずがない。


彼の名は――レオ・ヴァルシュタイン。


クラリッサは、自分の中で「レオ様」と呼ぶことにした。

本来、貴族社会において他者の名を呼ぶには本人の許可が必要だが、五歳のクラリッサにとって「ヴァルシュタイン」はあまりに発音が難しかったのだ。

それに、社交の場に出ることもなくなった今、直接名を呼ぶような機会など最初からないのだから。


レオ様のことを、もっと見ていたい。


その想いが日に日に募り、ある晩、クラリッサはこっそりと部屋を抜け出そうとした。

けれど、玄関に足を踏み出した瞬間、警備の使用人に見つかってしまう。


「こんな時間にどこへ行くのです、お嬢様?」


叱られたわけではなかったが、厳しく制止されたその手の温かさに、クラリッサははっとする。

このままでは、レオ様の姿は二度と見られないかもしれない。そう考えた彼女は、別の手段を探ることにした。


──魔法なら、なんとかなるかもしれない。


クラリッサの家、エルフェリア家は代々魔法を受け継ぐ名門であり、屋敷の書庫には膨大な魔導書が眠っていた。

その日から、クラリッサの“書庫通い”が始まった。


誰にも見られずに移動するための“認識阻害”。

子どもの足では到底たどり着けない距離をカバーするための“高速移動”。

夜に明かりがなくても移動するための“暗視”。

そして、自分が発する音を消す“音封”


彼女はそれらを習得するだけでなく、魔法を安定して長時間使えるよう、魔力量を増幅させる訓練を始めた。そして、長距離移動に耐えるための体力作りも日課に加えた。



* * *



一ヶ月後――


ついに、クラリッサは自力でレオの屋敷までたどり着けるようになった。

満天の星空の下、初めて魔法だけで移動したその夜のことを、彼女は今でも忘れていない。


柵越しに、遠くから見えたレオ様の姿。

整った顔立ち、落ち着いた所作、そしてどこか寂しげな横顔――


心が震えた。


その日から、クラリッサはレオを見に行くことを密かな日課に加えた。


そして、目に焼き付けたレオ様の姿を、決して忘れてしまわないように。

いつか曖昧になってしまうかもしれない仕草や、微かな表情まで、全部――きちんと記しておきたかった。


推しの彼を、永遠に心にとどめておくために。


クラリッサは、こっそりと一冊のノートを用意した。

レオの姿を見た夜は、眠る前に必ずページを開き、細かく思い出してはペンを走らせる。

「今日のレオ様は少しだけ眠たそうだった」

「髪がいつもより長く感じた。きっと切っていない」

「立ち方が少しだけ変わっていた。足が痛いのかな?」

些細なことでも、クラリッサにとっては大切な記録だった。


そのノートは、彼女にとって誰よりも大切な“秘密の宝物”になっていった。



* * *



観察を始めた頃、クラリッサの視線は、ただその姿かたちにばかり向けられていた。


金の糸を紡いだような髪が、月明かりを受けてやわらかに揺れるさま。

凛とした横顔。涼やかな目元。

歩く姿も、静かに本を読む姿も、絵画のように美しく――彼女の心は、ただそれを追うことで満たされていた。


だが、毎夜のように足を運ぶうちに、クラリッサの目は次第に“それ以外”をも捉えるようになっていた。


たとえば、夜の静けさの中、使用人がそっと差し出した湯飲みを、彼がほんの少し会釈して受け取ったこと。

庭を散歩する時、咲き始めた花に足を止め、ほんのわずか微笑んだように見えたこと。

誰もいない部屋で、窓に映る月をじっと見つめながら、どこか遠くを思うような表情をしていたこと。


ほんの一瞬の、誰にも気づかれないような仕草や目の動き。

それらを見つけるたびに、クラリッサの胸の奥が、不思議な熱で満たされていった。


(……この方は、どんなことを考えているのだろう)


姿だけでは満足できなくなっていた。

もっと深く知りたい――そんな想いが、夜ごとに募っていく。


気づけば、観察日記の筆致も変わっていた。

髪の色や服装のことだけではなく、レオがどんな表情をしたか、どんな目をしていたか、何に反応したか――

彼の「心の動き」を探るような記述が増えていく。


クラリッサのまなざしは、ただの“観察”を超えた。

それは、恋とも憧れともまだ名づけることのできない、けれど確かに温かく、ひたむきな想いだった。



* * *



観察日記をすべて読み終えるまでに、丸三日を要した。

逃げ出した"あの日"から、ミサコは体調不良を理由に学園を休んでいた。

三日間、ほとんどの時間をベッドの上で過ごし、外との接触も最小限にとどめられたおかげで――彼女は、その異様なほど熱のこもった記録に、静かに向き合うことができた。


ページをめくるたび、クラリッサの目を通してレオの姿が立ち現れていく。

彼女の感情が、年月とともに少しずつ深く、静かに広がっていくのを、ミサコはまるで自分の心に染み込むように感じていた。


そして、ようやくすべてを読み終えたその時――

ミサコの胸の中で、長く抱えていた問いへの答えが、はっきりと形になった。



(どうして、マルグリットを妨害していたのか……)


それは、それまで見逃してしまうほど、何気ない記述だった。


『レオ様が、一瞬だけ拒むような表情をされることがある。その場には、必ず“あの方”がいる』


短く、慎重に選ばれた言葉。

だが、そこに込められた違和感に、ミサコの背筋がぞくりとした。


(“あの方”…マルグリット、だ)


さらに、別の箇所にも気になる記述があった。


『夜、自室で手紙を開くたび、あの表情をされる。最初は月に一度、それが週に一度になり……最近では、三日に一度の頻度に』


たった数行の記録。

けれど、クラリッサにとってそれは“危機”だったのだ。

レオの、今まで見たことのない、曇った顔。

その変化の原因が、マルグリットにあるのだと気づいたとき――


クラリッサは、動いた。


―――――


一、レオ様がご不快に思われる行動は、いかなる理由があっても慎むこと。


一、レオ様のお暮らしに支障をきたすような接触や、行動は断じて行わぬこと。


―――――


このような信念を、幼い頃から頑なに守り続けてきたクラリッサにとって――

レオの心に、静かに影を落としていたマルグリットの行為は、看過できぬものであったに違いない。


妨害行為はクラリッサにとっては、愛ゆえの独占ではない。

“レオ様の安寧”を脅かす存在として、彼女はマルグリットを排除しようとしたのだ。


静かに、けれど確かに――

それは、クラリッサにとって「正しさ」の行使であり、

彼を守るために選び抜かれた、唯一の行動だった。



そして、もう一つの疑問。

どうして、クラリッサは気持ちを伝えようとしなかったのか――


幼い頃のトラウマ。

あの赤い瞳が「異質」だと嘲られ、傷つき、人との関わりを断ち切るようになった彼女。

絶望の中で出会ったのが、レオだった。誰にも見せない、ほんの些細な優しさに、彼女は救われたのだ。


それは“希望”だった。

ただ、そこに在るだけでよかった。

彼のそばに行きたいと願いながらも、それが叶わぬ夢であると、誰よりもクラリッサ自身が知っていた。

もし近づいて、思いを告げて、拒絶されたら――

その“希望”すら、永遠に失ってしまうかもしれない。

だから、話しかけなかったのだ。


これは、彼女の中だけにある、ひとつの小さな世界。

誰にも迷惑をかけず、ただ見つめて、記録することで満たされる、ひとりよがりの幸福。


(――これは、自己満足の世界だったんだ)


けれど、その“自己満足”が、どれほど尊く、切実なものか。

彼女には、痛いほどよく分かる気がしていた。


人に理解されなくてもいい。

分かってもらおうなんて、最初から思っていない。

ただ――誰かを想う気持ちを胸に抱えて、毎日を過ごせるなら、それでいい。

それが、どれほど穏やかであたたかい、かけがえのない幸福だったか。


40を過ぎても独り身の自分を、かわいそうだと同情する人もいる。

でもミサコには、ひとりでも心の奥に大切なものがあれば、人生はそれだけで十分幸せなのだと思える瞬間が、確かにあった。


(……クラリッサ。あなたの気持ち、少しだけ分かるよ)


そのひたむきさは、決して肯定されるものではないのかもしれない。

けれど、自分の中にだけある静かな幸せを大切にしていた彼女の在り方が、

どこか他人事には思えなかった。



そして、あの日――

クラリッサは、レオに拒絶された。


「頼む……もう、やめてくれ」


たったその一言で、胸の奥に灯っていた小さな火が吹き消された。

静かに、けれど確かに。

それは、彼女が十年ものあいだ大切に抱えてきた、たったひとつの希望だった。


叶わなくてもよかった。

知られなくてもよかった。

ただ見ているだけで、満ちていた。


けれど、あの言葉は――

《見ていることさえ許されていなかった》

それを突きつけた。


彼を見守ることすら、罪だったのだと。


その瞬間、クラリッサの中で何かが静かに崩れた。

執着ではない。恋しさでもない。

ただ、彼が生きていてくれるだけで良かったという、唯一の希望。


それを失った彼女にとって、この世界はもう、意味を持たなかった。

そして、気づけば――

ミサコが“外”にいた。


自ら後ろへと退いたクラリッサ。

もう、自分が表に立つ理由などなかった。


それが、入れ替わりの瞬間だった。


誰かに明け渡すのではない。

自ら、すべてを手放したのだ。


ただ――彼の世界から、

完全にいなくなるために。



* * *



(……こんなに大切に想っていたんだね、クラリッサ)


ミサコは、自分の胸の奥に広がるこの温かな痛みが、彼女の想いに触れた証なのだと感じていた。

そして、彼女が何を恐れ、何を願っていたのかを、ほんの少しだけ理解したような気がした。


この想いを、誰にも伝えず、何もなかったかのように封じてしまうことなど――

ミサコにはできなかった。

それは押し付けではない。ただ、レオに知っていてほしかった。


誰かが、こんなにも深く、静かに、彼の幸せを願っていたことを。

どこまでも一方通行で、報われることはなかったとしても――

それでも確かにそこに「愛」があったことを。


(……私に、何かできることがあるなら)


そう思った瞬間、ミサコの中に、迷いを振り払うような感情が湧き上がった。

それは、クラリッサの長い観察と記録を読み切ったからこそ生まれた、確かな決意だった。


ミサコはゆっくりと、胸元に手を添える。

誰もいないはずの部屋に、静かに語りかけた。


「……ねえ、クラリッサ。聞こえてるかは分からないけど……あんたの気持ち、読んでてすごく伝わってきたよ」


視線はどこにも向けず、それでも確かに、誰かに届くことを願うように続ける。


「でもね。あたしは、あんたと違うやり方をする。

あんたのポリシーには反するって分かってる。けど……あたし、伝えるよ。ちゃんと、レオに」


一瞬、少しだけ目を伏せる。その瞳は真剣そのものだった。


「自己満足じゃ、もう済ませられない。――誰かを大切に思うって、きっと、それだけじゃダメなときもあるでしょ?」


ぽつりと吐き出す言葉には、迷いとともに、確かな覚悟が宿っていた。


「……まずは、どうすればいい? 何から始めれば、彼にちゃんと届く?」


(今のままじゃ、無理よね……クラリッサは、レオ様に拒絶されたばかり。まさに、"詰み"の状況なのよね……)


そうして、また足が止まりそうになったそのとき――


「……っ!」


頭の奥が、突然焼けつくように熱を帯びた。

瞬間、ミサコの意識に――言葉では言い表せないほどの膨大な情報が、怒涛のように流れ込んでくる。


それは、**クラリッサが生きてきた世界の「常識」であり、「教養」**だった。


――この世界の歴史。

――高位貴族に求められる、礼節、作法、振る舞いのすべて。

――貴族社会における言葉の選び方、目線の使い方、立ち居振る舞い。

――そして、クラリッサ自身が研鑽を重ねてきた、魔術の基礎と応用。


まるで何年、何十年とかけて積み重ねた知識と訓練を、一瞬で頭の中に詰め込まれるような感覚。


「――っ、は、あ……っ!」


視界が揺れ、意識が遠のいていく。

痛みや混乱を通り越し、もはや身体の中に他人の人生が流れ込んでくるような――そんな錯覚すら覚える。


これは、「記憶」ではない。

クラリッサが何を思い、何を感じていたかは、ミサコには分からない。

けれど、彼女がこの世界で生きるために、学び、磨き上げてきたすべての**「知識」だけが、確かに今、自分の中に息づいている。**


そして、その膨大な情報に意識が追いつけず――

ミサコの身体は、静かにベッドへと崩れ落ちた。


――そして、目を覚ましたときには、さらに三日が経っていた。

ご覧いただきまして、誠にありがとうございました。


次回のエピソードは、

*  ミサコの奮闘  *

です。


よろしくお願いいたします。

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