終わらない幻想
いらっしゃいませ。
はぁっ、はぁっ、はぁっ、
炎天下の校庭で、ただひたすらにトラックを走る。
「…おーい、湊人ー!遅いぞー!」
前から親友の声がする。
「分かってるよ!」
ぶっきらぼうに返すと、少し相手が速度を落として下がってくる。
「大丈夫か?今日調子悪いのか?」
「いや…そんなことないと思う」
…そういや、こいつの名前だれだっけ。
「ん、そっか、まあ頑張れよ!」
そう言って彼は再び速度を上げる。自分もそれに着いていこうと速度を上げるが、ふと重心のバランスがズレる。慌てて足を出し、足が絡まる。そのままの速度を維持して前に傾いていく。手を前に出そうとするが間に合わない。
そのまま、顔面から地面に突入した。
「…おい!大丈夫か!湊人!」
あいつが駆け寄ってくる。先生や他の生徒が駆け寄ってくる音がする。
大丈夫だ、つ…つ……
待てよ?あいつの名前はなんだったっけ?
———あいつは、誰なんだ?
ふと目が覚めた。
周りを見渡すと、電灯に照らされた薄暗いカフェの様子が目に映った。体を起こし、椅子から立ちあがろうとするが、なんだか体が重い。
「…あっ起きたんですか?お客様?」
後ろから突然声をかけられ背筋が凍る。
カウンターからパタパタとやってくる音がする。「大丈夫ですか?」「あっ…はい、大丈夫です…」「それは良かった!…ところでお客様、あまりお見かけしないお顔ですが、もしかして旅行にいらっしゃったんですか?」店員がニコニコと愛想のいい笑顔で言う。「…まあそんな感じです」「そうですか!それはいいですね!宿はもうお取りになられましたか?」
…宿……あぁ、まだとってないな…
そう思ってふと窓の外を見ると、ふと身の毛がよだった。いや、窓の外に何かがあったわけではない。窓に映ったものに恐怖を感じたのだ。
「……あの、すみません」小さな声で店員に話しかける。「…えっと、はい?」店員は返事を待っていたところに突然の言葉をかけられ、一瞬フリーズしたが、彼も何かを察したのか小さな声で返す。
「…カウンターの下にいる……なんて言うんですかね、あれ、は?」その言葉を聞いた店員がカウンターの方を振り向いた途端、いきなり痙攣し始めた。
「えっ?!」
慌てて手を掴んで押さえるが、痙攣は収まる気配もない。しばらくそうしていると、突然地面に倒れ込んだ。口からは泡を吹き、呼吸をしていない。普通なら急いで心配蘇生法をするべきだが、そんな精神状態ではなく。恐怖が頭を完全に埋め尽くし、這々の体でどうにかカフェから飛び出す。
「死にたくない」
そのことだけが、頭の中を占有していた。
はずだったのに。
口をついた言葉はまったく違った。
「玲唯!」
なぜなのだろう。いや、いつからなのだろう。自分が玲唯を好きでいたのは。
「ずっと!ずっと!好きだった!」
伝わることのないその言葉は、静かな夜の闇に吸い込まれていく。
「僕は…僕は…ずっと、ずっと!玲唯のことが好きだった。愛してたんだ!」
そんな場違いな言葉を叫ぶ。
だが、その言葉は無駄ではなかった。「無駄」ではなかった。
ずぅぅぅぅ……………ん…
地下から響くような音が街中にこだまする。
石畳の間が少しズレたのか、ところどころで断裂音や破裂音が聞こえる。
それは何か悲痛な孤独感を体現化したような音で。
少し、自分の影と音が重なったような気がした。
それっきり、再び街には静寂が訪れた。
「…玲唯」
今考えれば、この時が分岐点だったのかもしれない。あの時に、あいつを抹殺していたら。
ザラザラとした石畳の上を、少年がぽつぽつと影を落として歩いている。声をかけるのも憚られるような陰の気を発して黙々と歩いている姿は、まるで仕事終わりの死神のようだった。次の瞬間、そんな陰鬱な空気が一瞬にして斬り飛ばされた。
「っ!?」
呪術の助けもあって、反射的に刀で受けたが、衝撃で後ろ向きによろける。その隙を逃さんと刺客が切り掛かってくるが、どうにかしのぎ切る。体勢を立て直し、顔を上げる。
「……なんか見覚えが」
前にいたのは白い上衣に黒い袴を履き、剣を構えている町田だった。
「…お前…まだ何か言いたいことでもあるのか?」
喧嘩腰で突っかかると、町田は少しため息をついた。
「いちいち突っかかってこなくてもいいだろ」
若干疲れたような声でいいながら、懐から何かが書かれた紙を取り出し、読み始めた。
「罪状を読みあげる。一に、国王陛下の所望する人物を素直に引き渡さなかった旨に関して公的義務不履行・公務執行妨害罪。二に、国王陛下の特別保護下の人物に対する不敬に関して国家侮辱・不敬罪。三に、王国領への不法侵入及び住居侵入、また器物損壊、無差別殺人などに関して王国領侵犯・侵害罪、国民財・社会財損壊罪、殺人罪、暴行致死罪、過失致死罪。四に、公的機関からの許可なしでの大規模な魔法の行使、およびその結果に関して、無許可魔法行使罪。五に、許可のない性交に関して強制性的行為等傷害罪。六に、許可のない物質の錬成、許可のない魔法の習得、修得に関して無許可物質錬成罪、無許可魔法会得罪。七に、王宮内への不法侵入に関して、第三分類施設不法侵入罪。八に、原則禁止されている精霊、亜従者等の魔法型下僕の錬成、構築、召喚に関して精霊等召喚罪。その他40余の罪において、貴公は指名手配および即時抹殺許可勅令がでている。したがって、ここで貴公を処刑し、その首を国王陛下に献上する。」
長々とした前置きが終わり、町田が再び剣を構える。
だが、自分はそんなことに気づく余裕もなかった。ただ、怒りが腹の底からボコボコと湧いてきただけだった。
「……言いたいことはそれだけか?」
「…は?」
右手に持ちっぱなしであった刀を再び構える。
「そんな嘘っぱちをベラベラとまあよく喋れるもんだな?!その国王だか何だかは知らないが、お前の持ってる正義は偽物だよ!お前は偽善者だ!ぎ、ぜ、ん、しゃ!大体お前に玲唯の何が分かるんだよ?言ってみろよ?おい?」
町田は押し黙ったままだった。いや、沈黙が答えと言ってもいいかもしれない。次の瞬間、町田は剣を構えて突っ込んできた。こちらも刀を合わせて…
「…ブレ・スカール・リミーラ」
町田が詠唱し、一瞬にして距離を詰める。予想外の速さに刀を構え直す余裕もなく、剣が思いっきり刀を弾き、刀が地面に転がった。
町田が目の前に立ち、剣先をこちらに突きつけてくる。
「お前じゃ、玲唯を幸せにできないんだよ」
その言葉で、怒りが突沸した。反射的に手を前に翳し、唱える。次の瞬間、視界が一瞬で真っ白になった。石畳どころか地面を思いっきり抉っていく音が街中に響きわたる。徐々にその音さえも遠くなっていく。次に目を開けた時には、周りには文字通り何もなかった。ただ、王宮の一部と、塔の一部が残っているだけなのであった。
「…何が幸せにできない、だよ」
足場がなくなり、自由落下を始めながら叫ぶ。
「お前には絶対に分からないんだよ!」
相手のない言葉が虚空に広がっていった。
風を切る音がうるさく鳴り続ける。
胃がぐぅぅんとなるような感覚を味わいながら、この世界線をやり直したいと願う。
だが。
「…戻ら……ない…?」
いくら願っても、祈っても、戻らない。
「何でだ?おい!何でなんだよ!」
怒りに任せて叫ぶと、頭の中に誰かが話しかけてきた。
「あなたはもう記憶を使い切ってしまったのですよ」
記憶?いやまだ残ってるに決まってるだろう。例えば…そう…例えば…………
「あなたはさっきの魔法で過多なマナを要求したために無意識のうちに力を使っていたのですよ。」
…なんで思い出せないんだ。
「あなたのその力は、元の世界の記憶と引き換えです。より大きなものを望めば大きなものを失う、ただそれだけですよ?」
……記憶と、引き換え?
…そんな、まさか。だが一つおかしなことに気づく。
「…記憶と引き換えだってんなら玲唯のことを覚えてるのはおかしいじゃないか?」
「…それはあなたが絶対に手放そうとしないからですよ」
無意識の気持ちが無理やり押さえつけていたから玲唯のことは覚えているらしい。
「最後の選択肢をあげましょう。あなたの記憶から彼女との記憶を全て消す代わりに、あなたは助かるか、記憶を保ったまま、死ぬか。どちらがいいですか?」
「死にます」
こんなことは迷うはずもない。それだけを軸にしてこの世界で生きてきた。それがなかったら今頃死んでいたかもしれない。
「…本当にいいのですね?どうせ死んだら記憶など意味はないのですよ?」
「記憶をなくして生きたところで何も僕には残らないからな」
それしか言うことはないはずだった。
「…ちなみに彼女、玲唯はまだ生きていますよ?」
「———え?」
予想外の言葉に脳が一瞬フリーズする。
「…だとしても答えは変わらないな」
もしあの「町田」が本当にかつての友人で、ただ記憶を失っていたがために僕が受け入れられなかったのであれば、自分は玲唯にも同じことをすることになる羽目になるかもしれない。
その声の主、幻想の女神ミヌシューラは長いため息をついた。
「ほんとに、愚かな人間だこと」
そう言ったきり、もう喋らなくなった。
ぐんぐんと地面が近づいてくる。衝撃に目を瞑る。地面が大きく見えてくる。そしてそのまま、地面に激突した。
分かってはいたのだ。
自分は逃げていただけなのだと。
結局、玲唯を大義名分に掲げて、理屈云々をこじつけて、どうにか逃げようとして。自分はこの気の狂いそうな異世界を抜け出したかっただけ。蔑まれて然るべき人間。
ある意味、女神ミヌシューラは間違っていなかったのかもしれない。
僕は、救いようのない愚かな人間だったのだ。
———夢から醒める。
部屋の窓からは光が覗いていた。
なんだか嫌な夢を見ていたような気がする。内容は一切覚えていないが。
時計を見ると、6時ちょうどを指そうとしていた。
今日は何故だか学校に早く行ったほうがいい気がしたので、制服に着替えて、リビングに降りる。茶碗に炊かれている米をよそい、冷蔵庫から納豆を取り出す。テーブルに二つを並べてから、箸を取りに行く。ニュースでもやっているかと、テレビをつけると、ドキュメンタリー番組が放送されていた。中世の街並みの残るヨーロッパの都市を特集している。だが、あまり新鮮味を感じなかった。むしろ見慣れてすらいる気がする。
テレビを片手間で見ながら、納豆をご飯の上に乗せる。容器からも糸が引いている。適当に箸で巻取る。
朝食を食べ終わり、茶碗をシンクに置き、水を流す。納豆の容器は、ゴミ箱に捨てようとして、一瞬フリーズしたが、燃えるゴミに捨てた。いつもやっているはずなのに何故か思い出せなかった。
歯磨きを終わらせて、ブレザーを羽織った時だった。
「おはよ」
突然、声をかけられビクッとする。
「何でびっくりしてるの?湊人?」
後ろを振り向くが、誰もいない。
「…目を背けてもダメだよ?事実は事実なんだから」
声だけがする。
怖くなり、リュックを引っ掴んで玄関に急ぐ。
「———湊人?」
その日から、ずっと、知らない人の声がするようになった。
あの日からずっと。
覚えていない彼女を追いかけ始めた。
いるかどうかも分からない、
そもそも何なのかも分からない、彼女。
夢と幻想の狭間で、いつまでも。
ご愛読ありがとうございました!