6話 不登校児と、母と、弟と
ひすいはるひ、と書かれたワッペンをとり、保育士エプロンをぬいだ。
午後5時すぎ。パートだからこの時間に帰れる。
「おつかれさまでーす」
「ひすいさん、おつかれさま〜」
はるひは軽自動車のエンジンをかけた。
(やっと金曜の仕事終わり……明日から休みだワッショイ)
玄関の鍵をあける。スーパーに寄ったので大荷物だった。
「たいま〜」
返事はない。時刻は午後6時半。
(太陽、今日は遅めか。友だちとお話してるとか?)
リビングに荷物をおろす。手洗いうがいをし、自室で着替え、リビングにもどって冷凍庫、野菜室、冷蔵庫に食材をしまう。パンや菓子を台所の棚に置こうとしたときだった。
「母さん」
声にふりかえる。キリが立っていた。
はるひは目をまるくする。
「キリ、どうしたの」
両手のパンをひとまず台所に置いた。
「あ……ちょっと相談っていうか」
ダイニングキッチンのテーブルでむかいあってすわった。
「で、相談って」
「ん、うん、と、あ、ゲーム友だちが、近くに住んでて、それで、あの、あれ……と、泊まりにいきたいと思って。えと、が、学校もいけるように、リハビリもかねてなんだけど……だめかな」
「ゲーム友だち?」
「うん」
「へぇ……いきなりだね。泊まり? いつから。何日ぐらい」
「きっ今日から。できれば一週間」
「今日から一週間?」
はるひの声が裏返った。
「できればだけど」
「だいじょうぶなの。会ったことない人なんでしょ」
「や……今日会って」
初対面はおとといだけど。
「今日? いつ」
「マンガ買いにいったときついでに。悪い人じゃないよ。年齢もそんな離れてないし」
「何歳ぐらいのかた?」
「あーたしか、19っていってたかな」
「そんな若い人なんだ。ご両親もいたの」
「あー」
そういえば、家族のことはなにもきいてない。
「ひ、ひとり暮らしっぽい」
「大学生?」
「んーにはいってないかも。ゲーム実況で稼いでるらしくて」
「ゲーム実況。それで生活できてるの」
「た、たぶん。けっこう人気の人で、ぼくも好きな人で。ぐうぜん近くに住んでて」
「へぇ。なんて検索すればでてくる」
「あ、と……『シュタインブレイド ゲーム実況』で調べればたぶん」
はるひはスマホをとりだした。
「この、シュタインブレイドのひきこもりゲーム実況、って人?」
「あーうん」
「……ほんとだ。チャンネル登録者けっこういるね。ゲーム実況ってこんな再生されるんだ」
「人によると思うけど」
「たしかに。要約系もばらつきある。じゃあこの人やっぱり人気なんだ」
「うん、おもしろくてうまいから。ぼくが今やってるゲームもその人の影響で」
「……そか」
はるひはスマホを見つめ、テーブルの上に置いた。
「うーん。うん。じゃあ一週間ね」
「え」
「泊まり。一週間でしょ」
「い、いいの」
「ちょっと心配だけど、キリが友だちと遊ぶのはママもうれしいし、それが学校にいくためのリハビリにもなるっていうならね。その代わり毎日連絡はしてね」
「連絡」
「今日なにしたか、とか。寝る前とかに。いいたくなかったら、おやすみとか、おはようだけでもいいけど、ずっと連絡がないと不安になるから」
「……ん」
「ちゃんとわかった?」
「わかったって」
チャイムが鳴った。
「あ、太陽かも。ちょっと待ってて」
母が廊下にでていった。
キリの心臓はバクバクといいはじめる。
(太陽が、くる)
玄関の会話がきこえてきた。
「ママはキリと話してたよ。今リビングにいてさ」
余計なこというな、とキリは脳内で母をなぐる。
いそいでこの場を離れようとしたが、自分の部屋にいくには廊下を通らねばならず、廊下にでれば鉢合わせる。結果動けず、ひざに置いた両手をにぎりしめた。
「あっほんとだ」
背中に声がぶつけられた。できるだけ自然にふりむく。
太陽はまっすぐキリを見すえていた。
「顔あわせんのひさしぶりだな」
その眼差しに耐えられず、目をそらしてしまう。
「あ、うん」
「ゲーム友だちんち泊まりにいくんだって。すげえじゃん」
なんでもかんでもしゃべんなよ、とキリは内心で母をにらみつける。
「おれ、リアルの友達としか遊んだことないから、そういう大人っぽいのあこがれるわ」
そうやって無自覚にマウントとるところが嫌いなんだ。ゴキブリより会いたくない。自分で輝ける太陽に月の気持ちがわかるか。1ポリゴンもわからないだろうな。理解できない相手に気を遣うのがどれほど相手を傷つけるのかも。
「今日は夕飯いっしょに食べれる?」
食べたくはなかった。けど、ここで断って母親を悲しませることに少しの罪悪感もあった。どちらともこたえられず、沈黙せざるをえなくなる。
「どお。おじいちゃんとおばあちゃんは先に夕飯すませてるからいないけど」
「……いいよ」
言葉にだした瞬間から後悔がはじまる。
断っていても後悔していたかもしれないけど。
「おお」
「やった。楽しみ」
はるひはご飯の用意をはじめた。
「あ、手洗うのわすれてた。洗ってくる」
太陽の足音が遠ざかった。
リビングにはシャカシャカと米をとぐ音が流れていた。
「……ゲームしてくる」
キリは階段にむかった。背中越しに母の声がきこえた。
「あ、うん。できたらよぶね」
「いただきます」
「いただきまーす」
「……ます」
食卓には三人分の料理がならんでいた。
茶わんに米、おわんに味噌汁、中鉢にドレッシングをかけたサラダとトマト、大皿にからあげ。
「ゲーム友だちってどんな人なの」
太陽の問いにキリは黙した。なんといっていいかわからなかったからだが、相手からは無視しているようにうけとられるだろう。それで焦ってよけいに言葉がゲシュタルト崩壊してしまう。
代わりに母がいった。
「人気のゲーム実況の人だって」
「えっ配信者? すげぇえ」
「しかもそれで生活してるらしい」
「マジ。えーやば。なんて名前」
「えっとぉ」
母と弟の会話の音が遠ざかっていく。
(ここに、ぼくの席はない)
キリは黙って食事を進める。
(教室にも、ぼくの席は用意されてない)
目をつむると小学校の教室がうかぶ。みんなが席につくなか、自分だけが出入口の前で立ったまま。そんなイメージがこびりついて離れない。
(なんとなく感じる。この社会に、ぼくの席はどこにもないんじゃないかって)
そのイメージが拡張し、地球からはじきだされる。ひとりで暗い宇宙をただよう。
(ぼくは、この世界のどこにも)
地球に一番近い星、月のイメージがあらわれる。
「おっす」
午後8時半、仮面姿の白夜にむかえられた。