35話 水素の音
白い空間。椅子がひとつになる前。
「問題はどうやって白夜さんを助けるか」
ミセリアのうしろでキリがいった。
「ひとつ思いついたのは、カピトリウムの聖権を使ってこの世界を四次元的にメタ認知する方法」
「……聖権か」
「そしたら任意座標に再ログインできる」
「わすれたの。むこうの世界の肉体は棄ててしまった。DNA情報をもったアバターの作成後、記憶を固相化して、生身を捨ててデータだけの存在になったから、ログアウトしてもむこうにはもどれない。こっちの世界のアバターでログインしても生体認証をクリアできない」
「でもまだ権限はぼくにある」
「権限があっても鍵がないよ」
「権限があればアクセスまではできる」
「……まさかだけど」
「認証なしで不正使用すればいい」
ミセリアは無限に白い空間を見あげた。
「可能といえば可能だけど」
「聖権の失効をうけいれたら実行可能だよ」
「ダーウィーズを怒らせるだろうね。ボクの死亡扱いで盟約を破棄された今、軍事行動も起こせる。あの戦闘狂のことだからまちがいなく戦争になるよ」
「そっちはあとでなんとかしよう。フルダイブでログインすれば会えるし。白夜さんは今日にでも殺されそうなんだよ。こっちが優先でしょ」
ミセリアは嘆息した。
「眠っていたら、悩むことも哀しむこともなかったのに」
★
章央の手から消えた指輪が、液体から肉体化したキリの指にあらわれた。
「次元者が指輪を身につけるのは、巫珠への身体拡張を自動化するためなんだ。集中力と認識力を訓練すれば、直接身につけていなくても自己効力圏内の巫珠とリンクできる」
身体拡張は、スマホや車など、モノを自分のからだの一部だと思う感覚。義手や義足も同じ原理。
自己効力圏は、パーソナルスペースともいう。自分の周りの空間に身体拡張している範囲のこと。
「神依を封じたいなら、巫珠を契約者の効力圏外にやり、その座標を知らせないこと。あるいは契約者か巫珠の次元力を遮断し、相互作用が起こらないようにしなければならない」
章央は目をみはる。
「お、オマエは、だれだ」
キリは微笑した。
「ミセリアだよ」
章央が大鎌をかまえる。
キリのすがたをしたミセリアはそちらを見ない。
「悪いけど」
章央がすさまじい速さでせまりくる。
「ログアウトさせてもらうよ」
ふるわれた大鎌は虚空をきった。章央は目をみはる。
消えた。霊感にもひっかからない。
「どこいきやがった」
★
0と1の数列が流れる。
聖権によって情報化したミセリアは、この世界のすべてを数字としてとらえる。宇宙全体のメタ認知。この四次元的な認識は、ゲシュタルトをほとんどつくらずに世界をとらえなければならず、人間の認識能力では不可能だが。
「”逆流の創世“」
次元法式を使うさいの認識能力をさらに拡張。これで脳機能のエントロピーをさげず、無意識状態のまま思考し、世界を複雑のまま認知できるようになる。今のミセリアにとって、一歩先も宇宙の果ても距離的に等しくなった。この世界が仮想現実だから可能なことだが。
数列に少しずつ五感的要素が加わっていく。
認識機能が拡散したあとはそれを収斂させる。如月白夜というゲシュタルトを定義し、そのタグにむかって認識能力が無意識から意識へ秩序化していく。
白夜が危機的状況なのが見える。
狼牙の裏切りも知る。
如月白夜という観測点から認識機能が収斂し、情報化したミセリアの存在が三次元の世界に再定義された。
★
炎をまとった美烏が、手のひらを白夜にかざす。
その真横に神体のミセリアがあらわれた。
前触れなくあらわれた存在に、気絶した暁以外、美烏をふくむ四人の集中力が一瞬途切れる。
無詠唱の”叢雨“で美烏を押し流し、白夜の周りの三人にも水を浴びせかけた。それだけでは攻撃力に乏しいが、ゆえに四人は緊張感をとりもどすのに時間がかかる。
「“氷刃化”」
ミセリアが唱え、刹那に水が凍った。
身動きを封じられた四人は、そこではじめて危機感をいだく。
ミセリアは白夜に意識をむける。気絶している。
守りながらの多対一は無理。
あえて詠唱した氷はそう簡単に砕けず、抜けだすのに苦戦する四人に手をかざす。
「”霧“」
詠唱によって場持ちと範囲をひろげた霧で四人を覆った。
ミセリアは白夜を抱えて逃げる。地理情報は脳内にマップ化されている。最短距離を走る。
氷がやぶられた感覚。次元力の付着した人形もあちこちに感じる。
白夜はこの森に転移させられた。
ミセリアはキリの記憶から、罪咎義団のアジトで人形を見つけたのを思いだす。
人形と入れ替わる能力。
まずい。霧の外に出られたら一瞬で追いつかれる。
ミセリアは足をとめる。霧に意識を集中させる。これは使いたくなかったが。
霧から抜けだすために走る四人の気配を感じる。
ミセリア/キリの次元法式は水をあやつる。
霧の次元力が急激に高まる。
水をあやつるとは、つまり水素を振動させること。
水は振動数によってその性質を相転移させる。
少ない振動なら氷(固相)。
まずまずの振動なら水(液相)。
激しい振動なら蒸気(気相)。
世界のほとんどの物質は、これら3つの基本状態にあてはまる。
そして第4の基本状態。水素が激しく振動し、数千度以上の高温に達したとき、その熱エネルギーによって電子は原子核から離れて飛んでいく。
これを電離(イオン化)という。
負電荷の電子が離れ、正の電荷を帯びた原子は陽イオンとなり、電子と陽イオンが自由運動している状態――それが電離気相。
陽イオンとなった原子は電子に守られておらず、原子核同士が衝突する可能性が生じる。その衝突を核融合という。たとえば4つの水素原子が衝突すればヘリウム原子となり、そのとき減少した質量がエネルギーに変換される。自然界には、それによって爆発的なエネルギーを生みだしているものがある。
太陽である。
同じ原理の核融合発電はまだ実用化されていないが、核融合を使った科学技術はすでに人類は手にしている。重水素と三重水素の核融合反応。
ミセリアの無詠唱の次元法式が発動された。
”水爆“
四人が霧から脱出する直前、彼らを凄まじい爆発が襲った。小規模の水爆。
音より速い爆風の衝撃波。
ミセリアは目をつむる。爆発に巻きこまれた植物や虫や動物たちを感じる。涙を流す。
「……ごめんね」
白夜を抱えて走る。
かなり次元力を消費したが、むこうのも神依を維持できなくなるぐらいけずれたはず。
真横から大鎌がふりおろされた。
白夜を庇ってミセリアの左腕が斬り落とされる。斬撃が地面ごとえぐる。回復に次元力が吸われる。
大鎌をかまえた章央が嗤った。
「オマエ、どんな手ェ使って跳びやがったァ」
ミセリアは顔をゆがめる。
こんな短時間でこれる距離じゃない。人形と入れ替わったのか。けずりきれなかったか。
霊感を使って周りの人形を調べる。
人形の次元力が消えていた。章央を喚ぶのに使いきったのか。
章央が迫る。ミセリアは”叢雨“を放つが、それを大鎌の怨念に斬られる。斬り落とされた水を通じて”氷刃化“を使って足元から章央を凍らせる。すぐにヒビが入って壊されそうだ。
ミセリアは白夜をおろし、自分の頭を押さえる。これ以上の維持は無理。
神体が解け、霊体にもどった。
”流冷の鎖“は凍らせる力。本来、固相状態を維持するのに次元力が消費される。が、キリに転生したときに記憶が固相化された状態が正常だと定義された。そのため固相状態では次元力を消費せず、融解状態を維持するのに消費するようになり、次元力がきれるとミセリアは眠ってキリにもどってしまう。
目つきが変わる。ミセリアからキリになった。地面に横たわった白夜を見下ろす。
氷が砕かれた。章央が大鎌をふりあげる。
キリは状況を把握しきれていない。
章央を炎が包んだ。全身に炎をまとった美烏がきた。
章央は”死霊の怨念“で炎をふりはらう。
「テッッメェ。邪魔すんじゃねェ」
「ヨルはあたし以外に殺されちゃだめなんだよ」
怨念がまとわりついた大鎌を、美烏は炎で熱して素手で砕いた。章央は目をみはる。
美烏のあとから狼牙もくる。その手に武器はない。
「なにをしている。早く標的を殺せ」
「わかってるよ。きゃはっ」
美烏は章央を蹴り飛ばし、キリと白夜に手をかざす。
キリは白夜を連れて木陰に隠れた。美烏の炎は木にぶつかる。木は燃えず、炎が消える。
キリの呼吸は荒れ、心臓が早鐘を鳴らす。
木陰にまわりこもうとする美烏だが、とっさに飛びのいた。
漆黒の剣が地面に刺さった。
キリの背後に気配。ふりむくと気配が消え、地面に刺さる漆黒の剣をにぎった。
小学生の伊藤太郎だった。すでに神化している。右手の甲に漆黒の紋。
美烏、狼牙、起きあがった章央の警戒心と敵意が彼に集まる。
「出でよ、“影雄戦隊”」
太郎が唱えると、漆黒剣の影から三つの人型の影があらわれた。
影たちに太郎がよびかける。
「ゆくぞ、シュヴァルツ」
『ヤーヴォール』
影たちが応えた。