3話 夢から覚める
秒針の音がいやにひびいた。
「なんで」
「夜が明ければ、今日のことはわすれてるから」
チ、チ、
「なんで」
「そういう体質なのさ」
「体質ってなんですか」
チ、チ、チ、
「私は透明人間なんだ。あるいは妖怪かな。だれかの人生にたまーにあらわれる。それはシュタインブレイドっていうゲーム実況の配信者としてかもしれない。でも、ほんとうの私はどこにも存在しない」
「絶対わすれません。明日もここにきます」
チ、チ、チ、チ、
「敵対組織にねらわれる私が、なんでこんなマンションに住めると思う」
「なんの話ですか」
「彼らも妖怪には化かされるからだよ。どれだけ努力しておぼえていようとしてもわすれる。組織の力をもってしてもね。意思とかなんとかの力じゃどうにもならない」
チ、チ、チ、チ、チ、
「氷水桐です」
「ん、なに」
「名前」
スマホ画面を見せる。
「漢字はこう書きます」
チ、チ、チ、
「だからなに」
「名前教えてくれれば、おぼえてる確率あがるんじゃないかって」
チ、チ、チ、チ、
「本名は企業秘密です」
「そこをなんとか」
「命に関わる問題だからねえ」
チ、チ、チ、チ、チ、
キリは玄関ドアをあけた。
一歩外にでて、ふりかえる。
「じゃあ」
「んーばいばーい」
玄関ドアが閉ざされた。
ひとりで渡り廊下を歩く。
(あの人にとっては、今日の時間なんて大したことなくて)
一歩ごとに夢から覚めていくような感覚がしていた。
(ぼくがおぼえていても、わすれていても、どっちでもいいことなんだろうか)
★
「えらい遅かったな」
靴をぬぐ最中、リビングから祖父に話しかけられた。
「どこいっとったの」
「べつに。ちょっと散歩しただけ」
「ほうか」
キリは階段にむかう。
「はよ学校いくか、いかんでも勉強せにゃいかんよ」
「ん」
「返事はちゃんとしぃ」
キリは黙って階段を駆けのぼる。
「おーいキリぃ」
うっせえ死ね老害。
のどまでのぼってきた言葉は内心にとどめた。
自室にいってパソコンをひらく。シュタインブレイドからのゲーム内メッセージがきていた。
『如月白夜』
それだけが書かれていた。
名前、だろうか。
如月白夜、と紙に記しておく。今日の出来事も書く。
スマホのメモアプリにも同じことを書いた。
(絶対わすれない。明日は如月白夜さんの家に遊びにいく)
ヘッドフォンをつけ、窓の外を見やる。夕焼けの空がただよっていた。
(相手も楽しみにしている。そう信じて)
★
――シューズを隠した人は手をあげて。
小学校の教室。
生徒人形たちが机に伏せ、教員人形が全体に声をかけた。
小学生のキリはシューズをはいていなかった。
靴下の裏には床の冷たい感触がしていた。
――うんこマンじゃん。
生徒人形がほかの人形にそういったのをきいた。
キリはお腹を押さえた。トイレにはいけなかった。
――先生。寒いです。
夏、キリは上着をはおってふるえていた。
教員人形がクーラーの温度をあげた。
生徒人形たちの視線がキリに集まった。
――なんでもいいんだよ。
キリは黒板前でうつむいていた。
――日直のスピーチといっても、今日の朝ごはんとかでも。
頭は真っ白。目の前には生徒人形たち。数十個の視線。大量のゴキブリが蠢いているかのような視線。視線。視線。となりのクラスからは笑い声がきこえた。チ、チ、秒針の音。分針が数分、数十分とすぎ、チャイムが鳴った。視線。視線。
――シューズが見つかるまで帰れないからな。
視線。視線。視線。
――なにその髪。気持ち悪ぅ。
家の玄関。
キリは靴をはいたまま立ちあがれなかった。
ランドセルの重さがのしかかっていた。
お腹が痛かった。呼吸が荒れていた。
トイレからでたときには、登校時間ぎりぎりになっていた。
母人形がやってきた。
――学校は。
視線。目をあわせられず、キリは首をふった。
部屋のドアをしめた。
それから週に数回休むようになり
夏休み明け
玄関にランドセルを用意し
吐き気をこらえてパジャマを着替え
靴をはいてランドセルを背負い
立ちあがろうとがんばるふりをがんばり
ランドセルを背負って外にでることは二度となかった
★
――11日前――
寝起きの頭にアラームが侵入してきた。
アラームなんてセットしてないはずなのに。
顔に紙がはってあった。
なんだこれと思ったが、興味もなかったので見ずに捨てた。
スマホのアラームをとめる。
寝ぼけた目でスマホ画面を見る。アラームが大量にセットしてあった。
なんでこんなに。
全部オフにする。
おぼえのないメモアプリがインストールされていた。ウイルスかもしれない。ひらいたら感染するかもしれないので、メモは見ずにアンインストール。
スマホを再起動。
再起動を待つあいだ、ゲーム専用と化した勉強机を見やった。パソコンが置いてあり、その上にまたしても紙がのっている。紙をどけて捨てる。
あれ。マンガがない。昨日買いにいったはずなのに。
でも買った記憶はない。
寄り道でもしたのか。友だちもいないのに。
昨日なにしたのか思いだせない。運動不足で認知症が早まったんだろうか。
スマホの再起動が終わった。金曜日、と表示されていた。発売日は木曜。
日付は変わっている。夢オチではない。
「昨日、なにか、どこか」
そういえば、なんかいい夢を見たような。
「……ま、いっか。どうせ夢だし」
わすれるぐらいなら、たぶん、大した夢じゃなかったんだろう。
ドアがノックされた。
「起きてんのか」
今日はアラームがセットされていた。そのせいでこんな早くに起きてしまった。
「おーい、キリ兄」