16話 喧嘩別れ、そして……
「ぐぅっ」
尻もちをついたキリと対照的に、立ちあがった白夜は落ちた仮面を拾った。憤怒に満ちた表情は覆われたが、全身からほとばる殺気は隠しきれていない。
キリはふるえながらなんとか声を発する。
「あ、わ、わ、わかりました。わかりました。で、でてきますから」
声に少し涙がにじんだ。涙をこぼすのはこらえた。本気で殺されるかと思い、会話の試みは断念した。部屋にもどって荷物をまとめた。
玄関にむかう途中、リビングに立ったまま動かない白夜のうしろすがたを見た。
カチャリと玄関ドアが閉じる。
エントランスから外にでる。オートロックの自動ドアが閉ざされた。
高層マンションの影が覆いかぶさる。それを見あげる。
空には太陽が輝いていた。
★
「お、どうした、もう帰ってきたんか」
ソファにすわって刑事ドラマを観ながら祖父がいった。
「おかえり。早かったですね」
といったのは椅子にすわる祖母だった。
キリはどちらにも視線をあわせない。
「キリ、おばあちゃん、おかえりっていっとるがね」
「ほんなんいいって」
「キリぃい」
無視して階段にむかう。祖父は続ける。
「おい、昼食はこっちで食べるんか。はよ帰るんなら先にいっとかんと。おばあちゃんご飯の用意せにゃかんのわかっとるんか」
「っせぇ」
「うぉい、聞いとんのか。少しは太陽を見習ったらどうなんだ、ん?」
頭が沸騰した。
「っせえんだよ老害がっ」
「なっなんだその口の利きかたは。おい、キリぃい」
部屋に駆けこんで鍵をしめた。ドアをたたかれる。
「キリぃい。そうやってすぐ閉じこもる。いいたいことがあるならはっきりいわにゃかんだろう」
いってもわからねえだろうが。
ドアを強くたたかれる。
「きいとんのか。うぉい、出てこぉい」
キリはヘッドフォンをつける。大音量でスマホゲームをはじめる。
――だれにも見られず、ふれられず、雑音に悩まされることもない。静かな世界。
月のように、透明に。
★
はるひは玄関の鍵をしめた。キリの靴があった。
「はるちゃん、おかえり」
ふたりぶんの夕飯を準備しながら母がいった。
「ただいま。お母さん、キリ帰ってきてるの」
「部屋でゲームやっとるんだろ」
不機嫌そうにいったのは父だった。
こりゃなにかあったな、とはるひは察する。ひそかにため息をもらす。
「そうなんだ。帰るの早かったんだね」
「昼前に帰ってきたぞ」
「え、そうなの」
このふたりがいるかもしれないのに帰ってきた。あっちでもなにかあったのかな。もしトラブルがあって帰ってきたとして、落ちこんでるところに小言をいわれたら。
はるひは父母を見つめる。
(ほんと厄介だわ、この人たち。すぐいらんこというもんなあ)
荷物をおろして手洗いうがい。着替える前にキリの部屋へむかった。
コンコンとドアをたたく。
「キリ、ただいま」
返事はない。
「今いい。明日のことなんだけど」
返事はない。
「キリ、起きてる。でてこなくてもいいから、なにか返事してほしいんだけど」
スマホが鳴る。キリからのメッセージだった。
『なに』
とだけ。起きてはいるらしい。
「明日のことだけど、中学からあたしいスクールカウンセラーの人がきてくれるっていうんだけど、どう?」
スマホに通知がきた。
『スクールカウンセラー?』
「先生とか生徒の心理面をサポートする人。前に保健室で話した眼鏡の人おぼえてない? あれは感じ悪かったけど、今回の人は電話で話した感じ、いい人そうだったよ」
沈黙がかえってくる。
「無理そうなら断ってもいいからね。くるの昼過ぎにしてもらったから、明日の朝に『やっぱり無理そうです』って連絡すればいいから」
返事はない。
「夕飯はいっしょに食べれるかな、ママと太陽と」
返事はない。
はるひは大きなハートをもったスタンプを送った。
「用意できたらよびにくるね。またあとでね」
★
母の足音が遠ざかる。
キリはベッドで寝転がり、無表情でゲーム実況動画を見つめる。
月がしずみ、闇夜がきて、太陽がのぼる。
――3日前――
カーテンの隙間から朝日が射す。
キリは大きくあくびした。カーテンをあける。
「あ、アラームセットしわすれてた……ん。いや、いつもアラームなんかセットしてないじゃん」
寝ぼけてるんだろうか。頭をふり、スマホを見る。まだ8時になっていない。
昨日はゲームする気分じゃなかったから、動画を流してるあいだに寝落ちしたんだっけ。
トイレにいき、一階におりる。
リビングには祖母と太陽がいた。
「おはよう」
祖母がいうと、太陽もこちらに気づいてスマホから目をはずした。
「あ、はよ、キリ兄。今日は早いな」
無視してお茶を飲む。
「おじいちゃんは散歩いってます」
祖母がいった。
きいてねえし。どうでもいいし。
「キリくん、りんごいりますか」
「……いらん」
「おにぎり小さめでよかった?」
うなずくだけで答える。
アニメを観ながらソファでおにぎりを食べる。
祖母の視線を感じる。
「これなんてアニメですか」
「うっさい。きこえなくなる」
「あーこれは」太陽が教えた。「っていう漫画原作のやつなんだけど」
視聴中に母がおりてきた。
「はるちゃん、おはよう」
「おはよう」
「母さん、はよっす」
「はよっす」
母の視線に気づかないふりをする。
「キリ、はよっす」
きこえないふりをする。
「どう、今日」
「はるちゃんはりんごいりますか」
「うん、いる」
「おにぎり温めますか」
「あーもう自分でやるからちょっと静かにして」
「ばあちゃん、お口チャックタイム」
太陽が口をしめるしぐさをした。
はいはい、と祖母は不服そうに口を閉じ、眼鏡をかけて新聞を読みはじめた。
冷たいおにぎりに海苔を巻いた母がとなりにすわってきた。
「で、キリ、どう。きてもらっていいならいいけど、もし断るなら、昼すぎからいいですよっていってあるから、早めにいってもらったほうがいいんだけど」
沈黙を続ける。
「太陽は、今日も友だちと遊ぶ約束してるんでしょ」
「まあ」
「だから太陽もいないし、おじいちゃんとおばあちゃんは部屋にいてもらう。おーい、聞いてる?」
「ちょっと黙って。考えてる」
「それなら早くそういってよ」
「だから今いったんじゃん」
ムカついてきた。一回話してみようと思ってたけど、やっぱりやめたくなってきた。
「きてもらうだけきてもらう? 話すかどうかはそのとき決めればいいから」
からになった皿を見つめる。
「それでいい?」
キリはしぶしぶうなずいた。
「どっち」
「だからそれでいいって」
「ちゃんといわなきゃわかんないよ」
「だから今いったんだろうが」
空気がピリつく。これ以上はけんかになると思った。
「ちょっとトイレ」
「なんで急に怒ってんの」
「そっちが先に怒ったんだろ」
母がなにかいっているのを無視してリビングをあとにした。
影のむきが変わる。
チャイムが鳴った。キリは緊張で硬くなる。
「はーい」
母がインターホンにでた。
「あーはい、はいそうです。少々お待ちください」
インターホンをきる。
母の視線。心臓がバクバクする。深呼吸。
「キリ、いけそう?」
鼓動がうるさい。いやだ。やめろ。そうささやく。
やっぱりやめよう。今回もどうせ無理だ。学校にいこうとして、やっぱ無理ってことをくりかえしたみたいに。そう思っていた。なのに。
一時停止したアニメのエンディング曲。
夜の星空に三日月のイラストが描かれていた。
なぜだろう。それを見ていると、
「……いける」
どこからか勇気がわいてきた。
母が玄関をあけた。
「こんにちは」
「こんにちは。どうも、はじめまして」
若いスーツの男は視線をこちらに移した。
「そちらがキリくん、ですかね」
「あ、はい、そうです」
母が答えると、スーツの男は笑みをたたえた。
「こんにちは、キリくん、新しく弥生中学のスクールカウンセラーに赴任した山崎章央です」
キリは答えない。動揺を押し隠す。
さっきまでの緊張は消え、べつの緊張に置き換わっていた。
「今日は話をうかがいにきました。よろしくね」
山崎章央と名乗った男が右手をさしだす。
その中指には、巫珠の指輪がはめられていた。
★
白夜はトイレで吐く。
流したあと、鏡を見ないように手洗いうがい。
暗い眼差しで顔を押さえ、痕が残らない力で、ひたいから頬にかけて自分をひっかく。
キリのおびえた表情がひらめいた。
自分の頭を自分でなぐる。
「くそ。バカタレが」




