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魔法の霧

 皇帝が家に来てから一ヶ月後、ニーナは船の上にいた。

 この船に乗る帝国人はニーナ一人きりだ。普通、令嬢が他国に嫁ぐときは、自分の家から何人か侍女を連れていくものだが、ニーナにそれは許されなかった。

 ザフィーラ王国がニーナ以外の帝国人を入国させることを渋ったせいだと父親から説明を受けたが、本当のところはわからない。今までだって、両親がニーナに何かを準備したことなどなかったのだから。

 支度金についてもそうだ。

 婚約が決まったために王国からは高額の支度金が届いた。しかし、子爵はその金を、ニーナの嫁入り準備ではなく、今までミーナを飾り立てるために作った借金の穴埋めに使った。残った分は屋敷の修繕に回すという。

 ニーナが帝国から持って出たものといえば、自分の下着とミーナが餞別として譲ってくれた数枚のドレスとアクセサリーだけだった。支度金とは別に王国からはプレゼントも贈られていたと使用人が噂しているのを聞いたが、あくまで噂だけだ。ニーナが受け取ったプレゼントはなかった。

 心細くないといえば嘘になる。外国へ行くというのにこれでは身一つで向かうのと変わらないのだから。

 しかし、ニーナに断るという選択肢などないのだから、いつも通り粛々《しゅくしゅく》と受け入れるより他なかった。

 むしろ、今まで家のお荷物でしかなかった自分が最後にお金だけでも両親の役に立ててよかった、というのがニーナの考えだった。


(一生、国を出ることなどないと思っていたのに)


 ニーナは甲板から海の果てを見つめた。船の舳先が向く方には一つ、島が浮かんでいる。その島こそザフィーラ王国だ。

 ニーナが船に乗るのは生まれて初めてだった。馬車で港に着いたとき、波止場に浮かぶ船を見て、こんなに大きな乗り物が世界にあることに驚いた。

 海を見たのも初めてだ。深い群青色の水面が絶えずうねっている様子はニーナの目を釘付けにした。この波はどこからやってくるのか不思議でならなかった。

 それをザフィーラの騎士に話すと、少し笑われた。相手に悪気がないのはわかっている。ニーナがものを知らなさすぎるのだ。


(こんな私をもらってくださるだなんて。しかも王族の方が。一体どんな方なのかしら……名前はルイというみたいだけれど)


 異国の人と聞いて思い出すのは、ミーナの婚約式で一緒に踊った青年のことだった。名前も聞かなかった。どこの国の人かもわからない。こうして嫁いでしまえば、もう二度と会うことはないだろう。


(相手がどんな方だったとしても精一杯お仕えしなければ)


 不意に、海の上に深い霧が立ち込めた。遠くまで続いていたはずの水平線が消え、視界は真っ白になる。あまりに突然でニーナは周りを見回した。これでは自分がどこにいるのかもわからない。しゃがむとかろうじて甲板の木の目が見えた。


「ニーナ様、大丈夫ですか?」


 ニーナの斜め後ろから女騎士の声が聞こえた。彼女は旅の始めから何かとニーナに声をかけてくれる。おかげで見知らぬ土地にいくというのに随分と気が楽になった。


「すみません、先にお声かけするべきでしたね」


 女騎士がニーナの隣にしゃがんだ。温かみのある茶色い髪がニーナの視界に入る。


「この霧を抜ければザフィーラです」

「急に真っ白になったから、驚いたわ」

「この霧は普通の霧ではありませんから」


 ニーナは首を傾げた。


「どういうことです?」

「この霧は魔法の霧なのです。害意のある者からザフィーラを守っています。船に一人でも不心得者があれば、この霧にまかれ、島を素通りすることになります」


 ニーナの瞳が不安で揺れた。

 女騎士が微笑んだ。余裕を感じさせる笑顔だった。彼女の顔を見ていると気持ちが落ち着いてくる。


「大丈夫ですよ。我々は通れます。ほら、もう霧が晴れてきました」


 騎士の言う通り、さっきまでの真っ白な景色が嘘のように青い海と空が戻ってきた。舳先の向こうにあった島はすでに目前だった。さっきまでは遠くて見えなかった港がすぐそこに迫っている。

 後ろから船長の大きな声が響く。


「面舵いっぱい!」


 にわかに船上が騒がしくなってきた。船員たちがバタバタと甲板を走る。


「さあ、もう少しで上陸です。一度船内に戻りましょう」


 ニーナは女騎士に手を引かれ、甲板を後にした。


 * * *


 船を降りると、港にはすでに迎えの馬車が来ていた。

 長く船に揺られていたせいだろうか。下船したというのにまだ地面が揺れているような感覚がして、うまく歩けない。右へ左へ、ふらふらと足がさまよった。

 女騎士がニーナの手を取った。


「陸酔いですね。私におつかまり下さい。しばらくすれば元に戻りますよ」

「ありがとうございます」


 他の船員たちが忙しそうに荷物の上げ下ろしをするなかを、女騎士の手を借りてゆっくりと馬車まで向かった。

 やっとのことで馬車の入り口まで来ると、女騎士が言った。


「それでは王都に参ります。ここからはまた馬車での移動になります」

「王都へはどれくらいで着くの?」

「天気に恵まれれば三日くらいですよ」

 

 ニーナが馬車に乗ろうとした、そのときだった。

 急に港が静かになり、さっと人混みが二つに割れた。割れたところにできた道を一頭の馬が歩く。


「あ!」


 馬の背に乗っている人物を見て、ニーナは目を丸くした。黒髪に褐色の肌。細長い手足。婚約式の夜に一緒に踊った青年にそっくりだ。

 女騎士が馬上の人物に対して膝を折った。


「殿下。迎えにいらしたのですか?」

「一刻も早く会いたかったのだ」


 女騎士の言葉に馬上の青年が答えた。


(殿下……? あの夜に出会った人が私の婚約相手だったの? 王子様だったなんて)


 こんなに嬉しいことがあるだろうか。さっきまでもう二度と会えない憧れの人だと思っていたのに。

 ニーナは馬車にかけていた足を元に戻し、その場でカーテシーを行った。

 ルイもニーナに気づいて馬から降りた。


「ようこそ。ザフィーラへ。また会えて嬉しい」


 ルイがニーナの前に立った。


「私も嬉しいです」

 

 ニーナはゆっくりと顔を上げた。目前にあの夜見上げたのと同じ優しげな灰色の瞳があるはずだった。

 ところが、そこにあったのはルイの訝しげな表情だった。


「あなたは誰だ」

「え?」


 突然のことに固まっているニーナを無視したまま、ルイは再び馬に跨った。


「……馬車に乗せろ。行くぞ」


 不機嫌そうに一瞥を投げたあと、ルイはニーナに背を向けた。

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