隣国ザフィーラ
メーストル子爵は朝から頭を抱えていた。
一つ目の理由は、数えきれないほどのプレゼントが子爵家に届いたことだった。
今までも家に突然プレゼントが届くことはあった。舞踏会の翌日は決まってミーナの気を引くためにたくさんのプレゼントが男性から贈られていたからだ。しかし、ミーナはもう婚約した。相手は皇太子だ。流石にもうプレゼントをする人がいるはずがない。
まさかニーナ宛にプレゼントが来るとは思えず、子爵は首を傾げた。これは一体誰宛てのプレゼントなのか。
そこで、プレゼントをよく確認してみると、どの箱にも隣国ザフィーラの王家の紋章が入っていたのである。
面倒なことになったと子爵は思った。ミーナが婚約したことを知らないのだろうか。婚約式の招待状は出したはずだったが。これではまるでミーナが浮気をしたようではないか。このことが皇室に知られれば、何を言われるかわかったものではなかった。
しかもザフィーラである。ザフィーラは他の国から隔絶された島国だった。しかし、最も問題なのはそこではない。ザフィーラは普通の国ではないのである。
二つ目の理由は、事前に何の知らせもなく皇帝自ら子爵家に現れたことだった。ミーナの婚約が内うちに決まった時ですらこんなことは起きなかった。余程の大事があったのか。理由がさっぱりわからなかった。何にしても、隣国の王家の紋章が入ったプレゼントを見られるのはまずかった。
結果、メーストル子爵は大忙しで玄関前にあるプレゼントの箱を片付けたあと、汚れた服を変える暇すらなく皇帝を迎え入れることになった。
お世辞にも広いとは言えない応接室に皇帝と二人、向かい合って椅子に座っている。
額から流れる汗が止まらないのは、果たして動き回ったせいなのか、皇帝を前にした緊張のためなのか、子爵自身にもわからなかった。
「陛下、本日はこのようなむさ苦しいところにわざわざお越しいただき、ありがとうございます」
望んでいない来客であっても頭を下げなければならないところが弱小貴族の辛いところだ。弱小でなくとも相手が皇帝ともなれば、ほぼ全ての貴族がそうしなければならないだろうが。
「苦しゅうない。さて、今日は卿に知らせがあって来た。ミーナはどこだ?」
「ここですわ。陛下」
子爵は驚いて後ろに首を回した。呼んだ覚えなどないのに、ミーナが子爵の後ろに立っていた。いつ部屋に入ってきたのだろう。全く気配がなかった。
子爵の首筋に冷や汗が流れた。いつからだろうか、この娘のことを得体がしれないと思い始めたのは。
最近のミーナには気配もなく唐突に現れる。まるで魔法か呪いでも使っているかのようだ。
「そなたの言ったとおりになった。これを見よ」
皇帝が子爵との間にあるローテーブルの上に一通の封筒を置いた。
子爵は封筒を手に取った。封は開いていた。プレゼントにあったのと同じ紋章が押してある。つまり差出人はザフィーラだ。中にある便箋に綴られた内容を見て、子爵は息を飲んだ。
「これは……信じられない。うちのニーナに婚約を申し込むと? ザフィーラの王子殿下が」
ということは、あのプレゼントの山はニーナ宛ということになる。
「そうだ」
皇帝が満足げにうなずいた。
「これで謎に包まれた彼の国にとうとう切り込める」
「と、言いますと?」
「まさか卿ともあろう方が私の言っていることがわからない訳ではあるまい」
皇帝が席を立った。皇帝が立っていると言うのに、子爵の自分が座っている訳にはいかない。子爵もすかさず腰を浮かせたが、皇帝がその動きを制した。楽にしていてくれ、私は歩きながらの方が頭が回るのだ、と言いながら。
「次の目標は彼の国だ」
「なんと……あの魔法の国に侵攻するおつもりですか?」
ザフィーラが普通の国ではない理由、それは彼の国には魔法が根付いているところだった。
皇帝が口の端から笑い声を漏らした。
「そうだ。はるか昔、魔法使いたちはそろって大陸から去り、国を作った。大方、魔法の力を独占し、自分たちだけが利益を得るためだったのだろうが……強欲な奴らだ」
ミーナがゆっくりと皇帝の言葉にうなずいた。
「その力、是非とも我が国のものにしたいものですね」
皇帝がうむ、と静かに唸った。
「ところがあの国は島国だ。しかも、普通の島ではない。魔法で守られた島だ。我が国はこれまで何度も間諜を送ったが、上陸できなかった。それどころか近年は彼の国の王族が社交の場に出てくることすらない。国内の状況すらわからぬ」
「私の婚約式に王子が来たのは、私が招待状に少し細工したからですわ」
(私のって……皇太子の婚約式ではないのか)
子爵が冷や汗を流している隣で、ミーナはにっこりと艶やかに笑っている。
皇帝が気安い調子で笑い声を立てた。
「その細工が何かは教えてくれないのだろう? 皇太子妃よ」
「ええ。秘密ですわ」
ミーナが人差し指を口元に立てた。この一言で皇帝を納得させる者がいるのかと、子爵は恐ろしい人を見るような目をミーナに向けた。知らない間にミーナは皇帝とかなり仲が良くなったようだ。
子爵は額の汗をハンカチで拭った。
「つまり、婚約という体にして、ニーナをスパイとして送り込むということでしょうか? いずれはザフィーラを征服するために」
あの愚鈍な娘にそんなことが務まるとは思えないが、と子爵は思った。ニーナはミーナと比べると容姿も知性も明らかに人並みの娘だった。大した教育を施してやってもいない。スパイの真似事をさせたところで、すぐに気づかれ送り返されるか、悪ければ殺されるかするだろう。
「まあ、あの子には無理でしょうね。私がニーナに期待したのは王子の気を引いてくるところまでですわ」
ミーナが子爵の心を読んだかのように言った。そして、皇帝の隣まで歩みを進めると、その腕にしなだれかかった。
「あの子は彼の国が自ら引き入れた毒となります。数ヶ月ののち、必ずや私が国境を開いて差し上げましょう。その後は彼の国を蹂躙し、魔法を手にすることも可能となりますわ」
「期待しているぞ。では、私は皇宮に戻るとしよう」
皇帝がミーナの腰を抱き、返事をした。その様は息子の妻への態度というより、愛人に対するものだった。
皇帝が部屋から去ったあと、ミーナは肩を震わせて笑い始めた。
「あの子ってば、どんな顔をするかしらね。愛されたがりで待つことしかできない女が、王子に選ばれたと知ったら……見ものだわ」
ミーナのニーナに対する態度は明らかに礼儀を欠いたものであったが、子爵は注意しようと思わなかった。今更だった。そもそも子爵自身が二人をそのように扱ってきたのだから。美しいミーナだけに入れ込んできたことについて子爵は自覚があった。
とはいえ、ここまでミーナを増長させるつもりもなかったのだが。
子爵にとって二人は用途の違う道具に過ぎなかった。凡庸なニーナは跡取りを手に入れるための道具、美しいミーナは婚姻を利用して自分たちの地位を上げるための道具だ。だから、借金をしてでもミーナの美しさを磨くために金を使ってきた。ニーナにはその必要がないから使わなかったに過ぎない。
皇帝とのやり取りを見て、いつの間にか自分には到底手の負えない娘にミーナが育っていることを子爵は思い知った。
「しかし、不思議な話だ。お前ならいざ知らず、ニーナに一目惚れするとは。ザフィーラの王子殿下は変わった趣味をしていらっしゃる」
「ふふふ……満月の下で見るあの子の美しさは格別ですから。あの子は夜出かけませんから誰も知らないでしょうけどね」
子爵の言葉に、ミーナが笑い声を漏らした。
言われてみれば確かにニーナが夜で歩いているところを子爵は見たことがなかった。社交に疎い娘だから、パーティーに呼ばれることもないのだ。しかし、昼間見て凡庸な娘が満月の元なら格別と言えるほどに美しく見えるという道理は子爵には理解できなかった。薄暗い場所なら誰でもそれなりに綺麗に見える、ということはあるものの、それなりでしかない。月夜だから相手に一目惚れする、などということが本当にあるのだろうか。
そのとき、ふと子爵はミーナの表情が目にとまりギョッとした。
ミーナは口の端を歪め、目を細めている。
(笑って、いるのか?)
それは一般的には笑みと思うはずの表情だった。
しかしなぜだか、もっと別のものに子爵には見えた。その笑みからは恐ろしいほどの執着と怒りが透けて見えた。ミーナほどの歳の娘が浮かべる表情には値しない、長い年月を感じさせた。まるで、自らの人生を全て踏み躙った者を殺す直前のような凄みがあった。
唾を一度飲み込んだあと、子爵はミーナに問いかけた。
「それで私はどうすればいい? スパイの話はニーナにするのか」
ミーナが首を振った。少し顔がゆるむ。
「必要ありませんわ。あの子には何も知らないまま隣国に行ってもらう。それでこそ毒になるというものよ。お父様はニーナに婚約が決まったとだけ伝えればいいですわ」
「そうか。お前の言うとおりにしよう」
子爵は深くうなずいた。やはりこの娘は尋常ではない。たとえ自分の娘といえど、皇帝のお気に入りに口答えするなどと愚か者のすることだ。長いものには巻かれるというのが子爵の処世術だった。
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