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月下の白バラ

 庭園へつながる扉を開くと、バラの香りが鼻腔をついた。

 ミーナの言葉通り、月に照らされた庭園は真夜中にも関わらず明るかった。

 庭園の中央には噴水があり、まっすぐに遊歩道が伸びていた。遊歩道の両脇には白バラが植えてある。白バラは満月に照らされ、暗い景色の中でもくっきり浮かんで見えた。

 ダンスフロアが近くにあるにも関わらず、人混み独特の騒がしさはない。会場で演奏されている音楽だけが庭園へやわらかく流れていた。

 ニーナは深いため息をついた。

 やっと緊張から解放された。ここには悪口も追いかけてこない。苦しい思いに耐えようと身構えなくていいのだ。たとえ今頃、会場にいる貴族たちがニーナの陰口で盛り上がっていたとしても。

 ニーナは遊歩道に足を進めた。新たな曲が始まっていた。


(あの二人はまた踊っているかしら)


 楽しそうに踊る二人の姿が目に浮かんだ。見つめ合い、想いを交わし合う様子は幸せそのものだった。普段、妹に嫉妬だけはすまいと心がけているニーナでも、羨ましく思う気持ちを止められないほどに。

 結果、見つめていたせいで、ミーナに気取られてしまった。

 いつも通り下を向いていれば、声をかけられることもなく、周りの貴族からけなされることもなかったのに。

 どれだけ蔑まれ、バカにされる存在だったとしても、心だけは美しくいたい、とニーナは思っていた。賢いわけでもなく、外見の美しさすら失ってしまったニーナには、もはや心しか残っていなかったからだ。心さえも醜くなれば、本当になんの取り柄も無くなってしまう。


(いつか私も結婚する。けれど、ミーナのように望まれることはない)


 子爵家に子どもは二人しかいない。ニーナは婿をとることになるだろう。

 爵位を金で売るような結婚になることは容易に想像できた。そこにニーナの意思が介在する隙はない。


(でも、もし、私も叶うなら……望まれて結婚したい。恋をしたい)


 人に優しく、誰かを恨まずに生きていれば、ニーナを好きになってくれる人が現れるかもしれない。しかし、心さえも醜ければ、そんな奇跡だって起きようもなかった。

 好かれたいから、善き人であろうとしている。そんなものは偽善かもしれなかったが、それでもニーナがすがれるものは今やそれしかなかった。だとしたら、善き人であるよう努力するしかないではないか。


(もし、誰かが私を見つけてくれたら……)

 

 ニーナはまるでそこにダンスを誘う手があるかのように、手を空中に置いた。


(こうやって手をとって、見つめあって、一緒に踊るの)


 そして、遊歩道の上でステップを踏み始めた。スカートをはためかせ、軽やかに足をすすめる。


(目と目で通じ合って、お互いの気持ちを交換できたなら、なんて素敵だろう……ミーナと皇太子がそうしていたように)


 バラがニーナの動きに合わせて微かにゆれた。香りが周囲にふわりとただようような心地がする。ふわり、ふわりと月の光を浴びて輝くバラがニーナのダンスを飾った。


「誰か来たのか?」


 男の声がした。ニーナはぴたりと動きを止める。

 一人で踊っている姿を見られただろうか。だとしたら恥ずかしすぎる。笑われるか、あるいは、冷たい目で見られるか。

 しかし、いくら待ってもニーナに声をかけてくる者はいなかった。考えてみれば、さっきの声はニーナに対して言ったというより、独り言のような調子だった気がした。

 ニーナはゆっくりと首を回し、声の主を探した。


「あ……」


 ニーナの目は噴水を囲う階段の上に吸い寄せられた。

 階段には背の高い男が一人腰掛けていた。

 見慣れない容貌の男だった。褐色の肌と少し癖のある黒髪に目がひきつけられる。ニーナの国では白い肌が一般的だ。外国の人だろうか。顔の彫りも深く、男性にしてはまつ毛が長い。

 藍色の礼服に身を包み、長い手足を持て余したように折りたたんで座っている様は、まるで、暁の直前に乙女を攫いに来るという神話の神様のように神秘的だ。


「誰だ」


 今度こそ、男の声はニーナに向けたものだった。灰色の瞳がニーナを見据えている。

 途端、ニーナは男を見つめてしまったことを後悔した。今日二回目だ。男は視線のせいでニーナに勘づいたのだろう。逃げようとしてももう遅かった。


「私は……ニーナ・メーストルという者です」


 震える声で男の誰何(すいか)に答える。口の中が乾いていた。怖くて顔を上げることもできない。

 男の声は怒気をはらんでいた。庭を一人で楽しんでいたところを邪魔してしまったのかもしれなかった。さっきまでのニーナが庭で踊っていたように。

 男が立ち上がり、ニーナの方へ影が伸びた。影がニーナに近づいてくる。ニーナは顔を青くしながら、男の次の言葉を待った。

 ところが、先ほどの様子とは異なり、男は穏やかな声でニーナにたずねた。


「メーストル? 今日の花嫁か。式で見た姿と雰囲気がまるで違うな」

「いいえ。花嫁はミーナ……私は姉です」


 正しくは花嫁ではないが。異国の人から見れば、帝国の婚約式は結婚式のようなものなのかも知れなかった。


「そうか」


 思いがけず声が優しかったので、驚いてニーナは顔を上げた。男は微笑んでいた。それも、なぜかとても嬉しそうだ。口の端からのぞく白い歯がまぶしい。


「ミーナ殿には姉がいるのか。すまない。この国の人間ではないから、事情に疎いんだ」

「そうですか」


 自分のことなど別に知られていなくてもよかった。というよりむしろ目の前の男が自分の評判を知らなくてよかった、とニーナは思った。

 神様のようなこの人の前では、ダメで馬鹿にされてばかりのニーナではなく、普通の貴族令嬢でいられるのだ。

 そのとき、ダンスホールから流れる曲が変わった。ワルツだ。

 男がニーナに手を差し出した。


「踊ろう」


 ニーナは目を丸くした。


「ここで、ですか?」


 男はニーナの驚いて身を引く様子を見ても意に介さず、懇願するように膝を折った。


「どうしてもあなたと踊りたくなった」

「でも、私、殿方と踊った経験がなくて……」


 デビュタントのときですらニーナは一人きりだった。普通、親族の男性がついてくるものなのだが。まるで捨て子のようだとどれだけ陰口を言われたことか。

 一人で踊るように身体を動かすことはあっても、実際には誰とも踊ったことがないのだ。


「そうなのか? 貴女の初めてのダンス相手になれるなんて光栄だ」


 男に引く様子は全くなかった。期待を込めた眼差しがニーナを見つめる。ニーナは男の手に自らの手を重ねようとしたが、その手は途中でピタリと止まった。


(私なんかがこの手を取ってもいいのかしら)


 手が止まったのを訝しんで、男が首を傾げた。


「どうした、何か気になることでもあるのか?」

「あ、あの…… 誰かに見られたら、困ったことになるのではないかと……」


 もし、この様子を他の帝国貴族に見られたらどうなるだろうか。

 自分なんかと踊っているところを知られたら、この神様のような男の評判を汚してしまうかもしれない。そうすれば、ひどい迷惑を男にかけてしまうことになる。釣り合いが取れないとニーナだって攻撃されるだろう。

 外国から来たために何も知らないこの男を、自分の持つ評判の悪さに巻き込んでいいのだろうか。

 今度は男の方が目を丸くした。

 

「まさかあなたには婚約者がいらっしゃるのですか?」

「いえ、そういうわけでは……私は……社交界での評判が悪いので……、あなたに迷惑がかかるのではないかと」

「なんだ、そんなことか。」


 男が快活に笑った。


「気にすることはない。私は気にしない」

「ですが……」


 それでもニーナがまごついていると、男の瞳がニーナをのぞき込んだ。


「大丈夫だ。ここには花と月しかいない」

「……!」


 男の顔が近い。ニーナは思わず息を止めた。息の音すら聞こえてしまいそうだ。心臓の音が大きくなっていく。胸がくるしかった。どうしてしまったのだろう。まるでミーナに見つめられた時のように身体が自由にならない感じがした。しかし、それとは心持ちが全然違う。嬉しいような、それでいて、今すぐここから離れたいような複雑な気持ちがした。


(断らなきゃ……私なんかが……でも)

 

 男はニーナが答えを出すのを待っている。真っ直ぐにニーナを見つめていた。その瞳は今夜の満月と同じ色をしていた。灰色だと思っていた瞳は、今や銀色に輝いている。満月は自らが夜の王だと言わんがばかりに空を照らしていた。その美しさに飲まれてしまいそうだ。


(きっと、こんな夜は二度と訪れない)


 ニーナは喉を鳴らした。


(私は踊りたい……!)

 

 ニーナは意を決して震える指を彼の手のひらにそっと重ねた。男が逃すまいというようにニーナの手を握った。

 ワルツのリズムに合わせて、二人は踊り始めた。まるで夢の中に迷い込んだように、ニーナはステップを踏み始めた。踊り始めてしまえば、さっきまでの緊張が嘘のように心が軽くなった。ワクワクした気持ちが胸の奥から湧いてきた。

 誘い方は強引だったにも関わらず、男のリードは穏やかだった。

 しかし、まるで教科書に載っている動きをそのまま真似しているだけのような動きだった。女性への気遣いに欠け、ダンスとしての面白みがなかった。少しでも社交に慣れた者であれば、この男にダンスの経験がほとんどないことはすぐにわかっただろう。

 もちろん、経験のないニーナにはわかるはずもなかった。

 ニーナにとって男の態度はただただ優しかった。


(こんなことって……夢みたい)


 ニーナは男の動きに必死で合わせた。迷いなくステップを踏む男に、踊り慣れていないことを悟られたくなかった。

 見上げれば男がニーナを見つめていた。月を思わせる、優しげな灰色の瞳。一度合わせてしまったら目が離せなく魔力がその瞳にはある。


(こんな綺麗な人に見つめられるなんて、どうしたらいいの?)


 ニーナはもう自分がどんな動きをしているのかよくわからなくなりつつあった。音楽も全然耳に入ってこない。それでも楽しくて仕方がなかった。

 ようやく男の動きが止まって、ニーナも足を止めた。


「曲が終わったな」 


 言われてみれば、演奏の音が聞こえない。男の身体がゆっくりと離れていく。思わずニーナはため息をついた。

 まだ次の曲も残っているだろうか。

 その時、白バラの生垣が揺れた。白バラの影に軽武装の女騎士の姿があった。女が男に向かって恭しく礼をとる。男はそれを見ると大きく肩を落とした。


「私はもう帰らなければならない時間のようだ」


 そして、深く頭を下げる。


「踊ってくれて、ありがとう」


 男は踵を返すと、皇宮へ向けて歩き出した。


(素敵な夜だった。こんなこと、私の人生には起こらないと思っていたのに。きっと私はこの夜のことを忘れない)


 庭園に風が吹いた。白いバラが風に揺れる。香りが飛んで、夜の冷たい空気がニーナの鼻をついた。

 ニーナは男の背中が見えなくなるまでずっと見つめていた。


 * * *


 婚約式の夜から約一ヶ月後、皇帝が自ら子爵家にやってきた。

 それだけでも大騒ぎだったのだが、さらにニーナの両親を驚かせたのは、皇帝が家に来た理由にあった。


「ニーナ嬢の婚約が決まったぞ」


 相手はなんと隣国ザフィーラの王子殿下だった。

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