好きになったのではなく、好きにさせてくれたんだよ
ちかっとポーチ灯が点滅する。私は車の前で振り返った。
「本当に帰っちゃうのね。泊まって行ってもいいのよ?」
「家でお腹を空かせたペットが待ってるからね。今日はもう帰るけど、また会いにくるよ」
「そう、気を付けてね」
父が咳払いをした。仏頂面のように見えるも温かい眼差し。
「いつでも帰って来ていいからな…二人とも。くれぐれも風邪に気を付けなさい」
「分かったよ、父さん」
「今日はありがとうございます、お邪魔しました!」
別れを惜しむ両親に手を振り、私は運転席に乗り込む。助手席の陽がシートベルトをしたことを確認して、ゆっくりとエンジンをかけた。
太陽はすっかり沈んで、夜道は街灯の灯りが存在感を放つ。
お互いに喋り疲れたのか無言のままで走り抜けた。
「…疲れた」
「いつもエネルギッシュな陽も流石に疲れちゃったか。先にシャワー浴びてもいいよ」
無事に帰宅した私達。食後の満腹感と蓄積した疲労で瞼が重くなるのを感じる。
「ふわぁっ」
眠気に抵抗しながら水槽に近づく。空腹を訴えるように忙しなく移動する蟹がいた。飼い主の接近を察して赤いハサミを振り回す。
「ごめん、ごめん。今あげるからね」
ペット用の餌が入った容器を手に取る。帰りが遅くなったことへの謝罪を込めて、少し多めの量を水槽に撒いておいた。一心不乱に口元へ餌を運ぶ姿が可愛い。とても一生懸命で微笑ましいな。
「…可愛いね」
心の中の声を読まれたかと驚くと、まだ髪が濡れている恋人が背後にいた。私の肩口に顎を乗せて蟹の食事を観察している。この体勢だと窮屈で重いし…正直、邪魔である。
「よいしょっ」
「ぐはっ」
餌やりを終えて勢いよく立ち上がる。背後から聞こえた悲鳴は無視した。まだ水槽は綺麗なままなので、急いで掃除する必要は無いだろう。
「今日はもう寝ようか。陽も疲れたでしょ」
「…うん」
既に意識の大半が眠気に侵食されている恋人を寝室まで引っ張る。彼が眠たくなると甘えたがるのは同棲後に判明した秘密だ。
「はい、そこに座っててね。さっと乾かしてあげるから」
「…うん」
ただ、どんなに眠くてもドライヤーはしてほしい。わしゃわしゃっと水気の残った後頭部をタオルで拭いてあげると、彼は一瞬で寝息を立てて横になってしまった。
「…陽も可愛いよ」
別に蟹に嫉妬しなくてもさ。
熟睡している陽に布団をかけた。戸締りと照明を消した後、彼の隣に潜り込むと。
「…夕ちゃん」
「うん?」
単なる寝言のようだった。続く彼の言葉に耳を傾ける。
「…家族っていいね」
「…うん」
また寝息を立て始めた恋人を起こさぬよう、そっと寄り添って目を閉じた。
帰省して本当に良かったと心の中で呟いた。
*
実家に帰省した翌日、私は陽より先に目が覚めた。
今日は休日なので彼は大学に出勤する必要がない。昨日の分も休ませてあげようと思う。
冷たい流水で顔を洗ったらキッチンへと向かう。二人分の朝食を作り、陽の分をラップで覆って食卓に置いておく。彼が起きたら気付くだろう。
「ふふんふーふふーふんー」
ご機嫌に鼻歌を歌いながら調理器具を洗った。もうじき流水の冷たさが心地良い夏も終わりを迎える。
それから約一時間ほどして寝室から物音がした。陽が前髪に寝癖を付けたまま出てくる。
「おはよう」
「んー、おはよう」
起床の挨拶を交わして、陽が洗面所へ行くのを見送った。すぐに彼は戻ってきて遅めの朝食に手を合わせる。
「そういえば、昨日の話なんだけど」
「うん?」
背後からの声、ソファに座っていた私は首を傾げた。
「夕ちゃんのお父さんと、診療所の患者さんの食事について話したよ」
「あぁ、食事箋とかあるよね」
食事箋とは、薬でいう処方箋が食事に対応したもの。
医師が患者の体調に配慮して、適切な献立を指示する紙。
「そうそう、食事箋。患者が最期にどうしても食べたくても、医者が許可を出せない料理は存在する。俺の母さんもそうだったし」
「…うん、そうだったね」
生きるというのはままならない。最期に近づけば近づくほどに。
「でもさ!」
突如として、陽の声が弾んだ。
「もし、衰弱した状態では食べられない食材の味を、体に負担の無い合成食材で再現出来たらさ。患者用の献立のレパートリーも増えるかもしれないよね」
「確かにそうかも!」
私も相槌を弾ませる。
「今までは、発癌性物質に成り得る動物性のタンパク質を避けるために、癌患者は自由に肉料理を食べたくても、牛肉や豚肉より低脂肪の鶏肉を食べることが推奨されてきた」
「牛丼とかハンバーガーが制限されるってことだよね」
ソファの背もたれから乗り出して、二人して顔を見合わせる。
「うん、でも【食の革命】で合成食材が導入された。まだ完璧な再現ではないけど、大豆肉の牛丼とかも大手のチェーン店で出せるようになった」
「…父さんの診療所にも導入されるのかな」
祖母はどうだったのだろう。病床に伏せながら、どうしても食べたい料理はあったのだろうか。
父はどうしていたのだろう。祖母に食べさせたくとも、医者として諦めた料理はあったのだろうか。
「息子に迷惑をかける訳にはいかないねぇ」
あの祖母ならそう言うのだろうな。どんなに歳を重ねても凛と佇んでいた姿が鮮明に浮かぶ。それでも、好きな食事をしたいというのは生きている人にとって当然の願望だ。
「陽…酷い質問するけど聞いてもいい?」
陽が黙って頷いた。
「【食の革命】についてどう思った?」
彼にとっては複雑だろうが言葉を選ばずに聞いた。ぼやかして聞くのは逆に不誠実だと思った。
彼にとっては酷な質問だと自覚していたけど、これを機に知っておきたかった。
「…今は、好きだよ」
深く考えこんだ後、彼はそう言った。
「嘘じゃない」
そう付け足して私に微笑んだ。私もお返しに笑ってみせた。
「そっか。じゃあ、私も好きだな」
お互いの視線が交錯する。心地の良い沈黙が二人きりの空間を占めた。
「夕ちゃん。今日はいい天気だし、どこかでデートしない?」
「うん!」
風に吹かれてカーテンがたなびくと、その隙間から覗く青空には雲一つなくて。
束の間の休息には最高の空模様だった。