ごめんね
二人でキッチンに立つと少しだけ狭いような。その狭さが安心するような。
私が使っているのと同じシャンプーの匂いが鼻腔をくすぐってくる。
「…これ…」
「俺が買ってきたんだ」
すっと取り出された食材に驚いた。目の前にあるのは市販のカニカマで。
「…陽は…いいの?」
「なんで?」
変に意識させてしまうと思って買い物中に陳列されているのを見つけても、頑なにカゴに入れることはしなかった食材。その避けてきた紅と白の色彩が蛍光灯の光を反射する。
「…なんでもない」
「…そっか!」
上手い言葉が見つからずに口を閉ざしてしまう。そんな挙動不審な私の様子を笑いながら、人差し指で頬をつついてくる陽。
ねぇ、手に包丁を握っているの。危ないからやめなさい。
元先輩として心の中で注意しながらも微笑が零れる。なんだか楽しくなってきた。
「はい、カニカマ切れたよ」
「ありがとう。じゃあ、ここから俺の出番だね」
とんとんと包丁で薄く裂いたカニカマを手渡した。湯気を立たせるフライパンには既に野菜が炒められていて相変わらずの手際の良さだと感心する。
カニカマも投入されて色鮮やかさを増すキッチン。じっと見ているのも暇になってきて、彼の背中に軽く抱きついてみる。
「あっ、今はフライパン握っているから。危ないから、人に抱きつくのはやめなさい!」
「はーい、先生」
「はーいじゃなくて、はいでしょ」
「はいはい」
「はいは一回だよ」
久々に陽と楽しく話せている気がする。ここ数か月、まともに話せていなかった反動で少し涙が出てきてしまった。炒め物の煙が目に沁みたせいだと心の中で言い訳する。
すぐに目元の水分は引っ込んだが、はしゃいでいた私が黙ったせいで不自然な沈黙が流れる。
さっきまでの楽しい雰囲気が名残惜しくて、無理矢理にでも会話を繋ごうとした。
「…あ、あのね」
「夕ちゃん」
適当な話題を振ろうとした瞬間、フライパンの火を止めて振り向く陽。あまりにも真剣な表情で私の名前を呼ぶので何も言えなくなってしまった。
「………」
少し言いづらいことなのか、言葉を選んでいる陽。
何を切り出されるか怖くなってしまって、上手く目を合わせられない。
「夕ちゃん…今までごめんね」
急な謝罪。それは何に対してなんだろう。
私はそっと恋人の表情を窺った。
「最近、蟹の世話も水槽の掃除も、全部を夕ちゃんに押し付けていた。蟹の姿を見ると、八つ当たりしそうな弱い自分がいて。ずっと気を遣わせたと思う。本当にごめん」
そんなことない。私の方こそ、彼女なのに上手く支えてあげられなくてごめん。
そう笑ってみせながら言いたいのに。弱い自分を見せたくないのに。
堪えきれなくなった涙が床に一粒落ちる。それと一緒に零れた本音は自分本位で醜いものだった。
「…水槽…」
「うん」
スポンジを握り締めるたび。
「……水槽、一人で掃除するのっ…寂しかった…」
「うん」
水槽の中で餌を待っているペットを見るたび。
「…一人で…餌やりするのも嫌…。ま、また一緒に餌やりしたい…」
「うん、するよ」
一人でソファに座り込むたび。
「…蟹でも、お母さんでもなくて。…私だけをっ…見ていてほしいっ…」
「…うん。一人にさせちゃってごめんね」
「んぅぁぁぁぁぁっっっ……!」
堪えていた涙腺が限界に達して、陽の胸に顔をうずめて赤子のように泣いた。彼は着替えたばかりのシャツが涙で濡れるのも構わずに私が落ち着くまで抱きしめてくれた。
こうして触れ合うのも、彼の体温を感じるのも久しぶりだった。