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泡沫  作者: ふくマカロニ
一章
4/16

惹かれたのは

 たまに私たちの馴れ初めを思い出しては懐かしくなる。


 校舎外の木々に新緑が芽吹き、初夏の匂いが爽やかな風に乗る季節。桜の花弁が自らの役割を終えて、舞台裏に戻ろうとする花の散り際の時期。


「こんにちは、君が噂の後輩だよね」

「多分…先輩ですよね。何の用ですか?」


 調理学校に入って二年目の梅雨入り。


 じめっとした空気を追い出すように窓を軽く開けた調理室で陽と出会った。すっと室内に入って来るや否や、声をかけてくる先輩に向けた怪訝そうな表情を覚えている。


 調理の腕やセンスは抜群に秀でているが、使う食材は蟹に固執する変わった後輩がいるとの噂に興味を持ち、直接会いに行ったのが私達が出会うきっかけとなった。


「なんで明石君は蟹にこだわるの?」

「美味い蟹料理を作るって約束したからです」


 言葉に気持ちが乗るとはこういうことなんだろうな、と思った。


「誰と?」

「俺の母親です」

「家族のために頑張っているんだね。喜んでもらえるといいね」

「そうですね、もう母には会えませんが」

「…えっ…?」


 陽は母子家庭で、彼を女手一つで育ててきた母親は若くして持病で亡くなったらしい。初対面で彼の心の柔らかい場所に無遠慮に触れてしまった。

 それでも慌てて謝罪する私に怒ることなく、朗らかに笑った陽は母親との思い出話をしてくれた。短くとも素敵な思い出があったのだと教えてくれた。

  

 そんな器の広さと柔らかな微笑に心をぎゅっと掴まれた。この胸の高鳴りが目の前の彼に惹かれていると気付いたのは、もう少しだけ後の話だったが。


「…それで最後に約束しました。絶対に蟹料理のシェフになってみせると」

「そうだったんだ…」


 彼の母親が病室で告げた最期の言葉は、二人で一緒に食べた蟹を懐かしむものだったらしい。 

 あの時の蟹は美味しかったねと寂しそうに笑う母親へ、蟹料理のシェフになってみせると涙を流しながら約束したのだと教えてくれる陽。

 ぽつぽつと幼少期の思い出を語る彼に相槌を打ちながら、この不思議な後輩のことをもっと知りたいと感じていた。


「まぁ、ここまで一つの食材にこだわるのは変ですよね」

「…変じゃないよっ!」


 どことなく寂しそうに笑う陽の手を思わず握ってしまったことが懐かしい。それから二人きりで話すようになり、放課後には共同で調理をするなど距離が縮まった。


「あの、すぐ追いつくんで。卒業まで待っててもらえませんか」

「約束だよ、卒業したら一緒に住もうね」


 陽が卒業してからは同棲生活が始まった。


 調理学校に在籍する間からシェフとしての才能を買われていた彼は、とんとん拍子で蟹料理を振る舞うシェフになるという夢を叶えようとしていた。


 今年、【食の革命】が起きるまでは。

「ただいま」


 きぃっと玄関のドアが開いて、微睡みの中にあった意識が途端に覚醒した。

 同居人と出会った頃の記憶を思い返すうちに、いつの間にか眠っていたらしい。


「あっ、おかえり」

「ごめん、すごい汗かいてるから先にシャワー浴びちゃうね」


 疲れた様子で帰宅した陽がリビングに入ってくる。今日、彼が帰ってくるのは事前に連絡が入っていた。こうして顔を合わせるのは三日ぶりになる帰還だった。

  

 シェフを辞めてからの彼は人生の目標を失ってしまった抜け殻のようだ。いつだったか、水槽を掃除した際に発見した蟹の抜け殻をどうしても連想してしまう。

 あの時、後で捨てようと放置していた抜け殻はいつのまにか水中で崩れて消えてしまった。


「陽…」


 浴室までは届かないと知りながら、ひっそりと彼の名前を呼ぶ。


 そんな抜け殻になって欲しくないと思っている。私の前で泡のように崩れて消えてしまうのが怖いから。

 ただ、今の彼をどう支えればいいか分からない。ちゃんと私は彼の支えになれているのだろうか。

「何で、あそこまで蟹に固執するのかねぇ」


 学内でも目立っていた陽に向けられる同級生の心無い揶揄。心配の意味を込めた彼の元同僚からの言葉。


 忘れていたわけではない。


 彼が蟹料理に固執する本当の理由。私達の最初の出会いには誰にも語っていない続きがあった。


「さっきは、本当にごめんなさい!」

「大丈夫ですよ、初対面で気づくようなことでもないですし」


 故人について触れてしまったことを謝罪すると、彼は寂しそうに笑って言ったのだ。


「先輩は、ちょっと母に似ていますね」

「え、そうなの?」


 きょとんと首を傾げる私。


「はい。潮日先輩といると母と話しているようで、少しだけ懐かしい感じがします」


 私と陽の母親は似ていたらしい。陽が見せてくれた写真では全く外見が似ているような実感は無かったが、彼が私に母の面影を重ねているのは事実だった。


 私の陽に対しての気持ちは一目惚れから始まったが、初対面の先輩である私に陽が懐いてくれたのはそういうことなのだと思う。

 きっと、母親に届けられなかった料理を渡す相手を求めていて…。


「夕ちゃんに俺の蟹料理を食べてもらいたい」

「夕ちゃんに美味いって言ってもらいたい」

「夕ちゃんに笑顔になってもらいたい」


 恋人からの純粋な気持ちはとても嬉しい。目を合わせて言葉を交わすだけで、胸の奥が陽だまりのように暖まるのを感じる。

 でも、この言葉は、本当は彼の母親が受け取るはずだった。


 私は彼の母親を連想させるだけの存在にしか過ぎないという妄想も、素直に彼の愛情を受け止めることが出来ない自己嫌悪も心に渦を巻いている。


 静かな部屋で孤独を実感すると、こんな思考回路に陥ってしまう。


 私には陽の暖かさを受け取る資格なんて無いのだろうかと重い感情を抱いてしまう。


 もし、陽が母親に自分の蟹料理を食べさせられなかったことを悔いていたとしたら。


 もし、母の代替として私に蟹料理を食べさせたかったのだとしたら。


「私は…もう必要ないんだよね」


 陽は蟹料理のシェフの道から外れてしまった。彼の蟹料理を料亭のテーブルについて食べる機会はもう現れない。


 いつも朗らかだった陽も流石に落ち込んだ様子で、どんな言葉をかけて良いか分からない。だから、彼が帰宅するたびに会話を繋ごうとしても変に途切れてしまう。


 ここ数か月の部屋の雰囲気は、どこか寂しさを感じるものだった。


「シャワー終わったけど、今日の夕飯はどうする?」

「ごめん、少しぼうっとしてたから。今から作らないと!」


 陽が浴室から顔を出す。もう時刻は午後七時を回っていて。


 水槽を掃除した後、ぼんやりと眠ってしまったから。せっかく陽が帰ってきてくれたというのに食材の買い出しを忘れていたことに気付く。冷蔵庫には何が残っていただろうかとソファから焦って立ち上がる。


 昨日から余っている大豆肉のそぼろと()()()()()()()を合わせて肉じゃがなら作れるかも。ポテトパウダーとは片栗粉のように水で溶くとじゃがいも風味の生地になるという合成食材だ。安価で大量に袋詰めされているので家計に優しい。

 

「夕ちゃん、まだ作ってないならさ」

「うん?」

「久々に二人で料理しようよ。ね、夕先輩?」

「…っ……うんっ!」


 少しおどけた陽の言葉に心が躍る。学生時代の放課後の記憶。二人きりで談笑しながら様々なレシピの研究をした思い出が蘇った。


 もう一度あの日々に戻れるなら。何度そう考えたことか。

 

 もしかしたら最近の気まずい雰囲気に気を遣ってくれたのかもしれない。

 この後輩のこういう性格が好きなのだろうな。


 我ながら気分の変化が単純で思わず苦笑した。ふふっと緩んだ表情が見られないように、足早にキッチンへと向かった。


 だから、陽が水槽をじっと見ていたことに気付かなかった。

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