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泡沫  作者: ふくマカロニ
一章
3/16

泡沫

 ぷくぷく、ぷくぷく。


 さっき掃除したばかりの水槽から泡の弾ける音がした。


 水槽には赤い甲羅を背負った大きな蟹が一匹。透き通ったガラス越しに覗き込むと、どっしりと佇む姿が勇ましくも可愛らしいと感じる。


 この部屋の住人は私、潮日夕。それと今は外出中の彼氏の明石陽。そしてペットとして飼っている蟹。この二人と一匹が同居している。


「夕ちゃん。俺、蟹を飼いたい!」


 蟹を飼育するという話を切り出された時は驚いたが、もう一年間も世話をしていると自然に愛着が湧くものだ。

 でも、最近の陽が蟹に向ける視線には複雑な感情が乗せられるようになった。いつしか、彼が水槽に近寄ることは無くなってしまった。


 だから、この蟹の面倒を見ることは私の仕事になっている。


「自分で飼うって言いだしたのにね」


 拗ねるような声の響きが孤独なリビングに泡となって消えていった。

 正直、二人で飼っているペットへの態度に関しては少々の不満があるが、陽が変化してしまった原因も理解できる。彼は数か月前に職場から解雇されてしまったばかりなのだ。


「美味しい天然の蟹を味わってみよう!」


 こうしたキャッチフレーズで行きかう人々の目を惹きつける。日本でも有数の高級料亭、そこの若手シェフが私の恋人だった。幼少期から料理人を目指して遂に夢を掴んだ陽だったが、調理方法が絡むと熱くなってしまう彼の性格が災いした。


 半年前から導入された【食の革命】。


 人口増加による食糧不足の対策として、食材にかかる費用を抑えながら料理の質を保つことが飲食店に求められるようになった。

 それに伴い、天然の食材は合成食材に代替されるようになっていった。


 肉料理は大豆から作られる合成肉で。

 魚料理はアボカドなどのエキスを抽出した合成の切り身で。

 蟹や海老などの海鮮料理は安価な魚のすり身を用いたかまぼこで。

 

 天然の食材を人工物で代替する方が料理の費用が削減できるという理由で。


 一部の意見では昆虫食で食糧不足を賄おうという声もあったらしい。幼少期から虫が苦手で、大人になった今でも抵抗がある私からすれば背筋がぞっとする話だ。


 それと比較すると、【食の革命】は大衆にも受け入れやすい施策だと思う。


 ただ、料理人としてのプライドを持つ陽にとっては…。


 【食の革命】は多くの料理店の在り方、特に高級食材を扱う店舗のオーナーや、そこに所属する料理人の在り方を大きく変化させるものだった。それは陽の勤める高級料亭も同じことで。


「これから、ウチの料理は本物の蟹ではなくカニカマを使用する」


 仕入れ価格を抑えるため、天然素材の調理というコンセプトを捨てる。そういったオーナーの意向に彼は素直に納得することが出来なかったらしい。


 美味しい天然の蟹を振る舞う料理人が、ずっと追い求めてきた彼の理想だったから。そのために努力してきた匠だったから。

 上の意向に逆らった彼は追い出される形で店を辞めたのだ、と彼の元同僚がこっそりと私に教えてくれた。

 料理店の世界は支配人に逆らって店を追い出されたシェフに冷たい。ましてや、蟹という天然素材の調理に固執する料理人の居場所など存在するはずがなかった。


 こうして、陽は念願のシェフになって一年も経たないうちに無職となってしまった。


「暫く、一人の時間が欲しい」


 そう言い残して家を出た陽を引き留められなかった。ただ無言で見送った。


 以前の彼だったら、どんなに仕事で忙しくても毎日この部屋に帰ってきてくれたのに。

 三日ぶり、一週間ぶり、段々と彼が自宅を空ける期間も延びていった。


「ふふっ、今から餌あげるからねぇ」


 一人残された私の拠り所はペットだけだった。


 陽がシェフの採用試験に合格することを願って、ゲン担ぎとして飼い始めた蟹。

 二人で世話をすると決めた。沢山の思い出を作ったはずだった。


 夢から離れた彼にとって、もう見たくもない存在となってしまったのだろう。一緒に餌をやっていると自然に頬が緩むような記憶が遠い昔のものに感じた。

 

 過ぎ去った日々に未練を残すように、それでも水槽には汚れを残さないように。


 以前と変わらず綺麗な水槽を保つため、掃除は欠かさず行うようにしている。スポンジを握っていると、視界に滲んでくる水滴を拭うのにはもう疲れてしまった。


 どんなに拭っても、溢れてくるから。

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