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泡沫  作者: ふくマカロニ
終章
16/16

潮風

 柔らかなブレーキ音を鳴らして路肩に車が停まった。


「ありがとね、帰りは私が運転するよ」

「まだまだそんな年齢じゃないさ、ゆっくりしてきなさい」


 父に礼を言って助手席から抜け出し、近くの階段を降りると砂浜が広がっている。


「ふふっ、一人だけの海か」


 海水浴のシーズンは過ぎ、この辺りに人気は無い。するっとパンプスを脱いで柔らかな砂に足先が沈んでいく感覚を楽しんだ。歩き疲れたところで錆びついたベンチに腰を下ろす。

 

 あと何時間で太陽は完全に水平線の向こうへと沈むのだろうか。それを見届けるのも良いかもしれない。


「そうだ、指輪…」


 私は左手を斜陽にかざした。

 紅と橙の色彩が混ぜ合って目の前に広がる景色の彩りを濃くした。

 陽を思い出すたび、夕暮れの海を見るようになったのはいつからだろう。

 彼の余命を知ってから、私達の関係に名前を付けるべきか真剣に話したことがある。


 指輪を貰った時、あれは婚約の儀礼のつもりだった。

 お互いが暗黙の内にそう認識していた。


 ただ、急に変動した関係が気恥ずかしくて婚約という言葉にはしなかった。お互いが立派な大人なのに、自分達の関係性に名前を付けなかった代価は唐突な余命宣告で支払った。


「俺のわがままで式を挙げてあげられなくてごめんね、夕ちゃん」

「私はいいの…それが陽の望みなら」


 陽は私の人生を縛りたくないと言った。

 この一年が最期になってしまうなら籍を入れようと言ったが、彼は私を優しく拒んだ。


 結局、私の苗字は【潮日】のままとなった。


 陽が最期まで私のことを家族と思って一緒に居てくれるならそれでいい。そうは言ったもの、拗ねた感情を隠し切れない女をなだめながら彼は言ったのだ。


 今でも、その一言一句を覚えている。


「苗字はあげられないけどさ」

「…うん」


 膨れっ面の私は子猫が甘えるように陽の首元へ擦り寄り、じっと頭を撫でられていた。


「俺の名前、貰ってよ」

「…えっ?」


 こくんと首を傾げる私に彼は微笑んでいた。


「夕ちゃんの【夕】と。俺の【陽】で。二人合わせて【夕陽】でしょ」

「うん」

「結婚とか記録に残したら、それは夕ちゃんを縛ってしまうけど。もし望むなら記憶に残しといてよ」

「…うん。夕陽を見るたびに思い出すから」


 そう言って、今日のように海岸へ車を走らせたのだった。

 この上なく幸せだった記憶が懐かしくて。ぐっと堪えていた涙腺が緩んでくる。


「あはは…」


 私を縛りたくないと言っておきながら、とても独占欲の強い彼氏だ。

 これから【夕陽】を見るたび、自分を思い出してくれだなんて。


 本当に優しくて、自分勝手な恋人だなぁ。


「…っ」


 嗚咽と声にならない独り言が風にさらわれる。


「そういえば…」


 ふと疑問が生まれて、そっと薬指の指輪を外した。


 陽は目に見える形で私を縛ることを避けようとしていた。故人に縛られて生きてきた自分への悔恨もあったのだろう。でも、それ以外の理由があった気がする。


 ずっと寄り添ってきた私にだけ見せた、優しい表情の裏に隠した甘い独占欲。


 死者の声を聴くことは出来ない。

 死者の意を汲むことも出来ない。

 判断材料になるのは生前に交わした言葉だけだ。


 私も自分勝手なことをしようと決めた。


「えいっ」


 外した指輪を海へと全力で投げる。思っていたより遠くまで飛んだので、指輪が水に沈んだ音は聞こえなかった。


「これでどうかな?」


 答えのない問いを虚空へ投げかける。


「私を遺品とか苗字で縛りたくないって言ってたよね」


 いつぞやは私が餌をやっているペット相手にまで嫉妬するような恋人だ。

 私を縛りたくないというのは建前で、彼の本意は別にあったかもしれない。


「勝手な想像だけどね」


 父が待つ車に戻りながら、海に投げ捨てた指輪の行方を考えていた。


 指輪を貰ったばかりで浮かれていた頃、水槽の掃除中に指輪を落としてしまった記憶が蘇る。


 あの水槽と眼前の海は違う。だから、ぷくぷくと蟹の出す泡沫なんて聞こえるはずがない。

 それでも多分、この海底にも赤い蟹は暮らしていて、その内の一匹が紅の指輪を今度こそ拾うのだろうか。


「なんてね」


 そんな想像に苦笑しながら一歩ずつ砂を踏みしめる。


 その時、私の耳元で乾いた潮風が囁いた。


「えっ…?」


 美しい夕陽が映える砂浜を見渡しても、ここには私一人だけで。他には誰もいなくて。


 きっと、これは幻聴なのだろう。


「陽、私と一緒にいてくれてありがとう」


 それでも届くといいな。私は涙を拭って歩き出した。

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