雪が奇麗ですね
カレンダーの枚数も残り僅かとなって。
「うわぁ、すっごい積もったね」
冬の季節になって白い雪景色を窓から眺める日々が続いた。この地域に雪が降るのは珍しい。
今日は陽の出勤日だが積雪の影響で仕事は断念。休日と大差ない一日を過ごすことになるだろう。
「こう寒いと手の震えが病気か、雪のせいか、全然分からないね」
「うーん…手袋しても震えてたら、それはそれで病気より危ない寒さなんじゃないかな」
えいっと隣の陽に肩をぶつける。彼はびくともしなかった。
「確かに。夕ちゃんは冴えてるねー」
「そうなんだよ、実は冴えてるんですよね」
ベランダで二人、ブランケットを掛け合って寄り添う。珈琲を飲みながら取り留めのない会話を楽しんでいた。たまにはこんな平日があってもいいだろう。じんわりとカップを持つ指先が熱を帯びる。
ふらっと迷い込んだ雪の華が真っ黒で苦い液面に落ちて一瞬で溶けた。寒空の下で飲む珈琲は冬の味がするような気がした。
「あっ、もう魔法瓶が空になったよ」
「そろそろ戻ろうか」
暖かさの源が枯れたので室内へと退散する。体を暖める手段が毛布だけというのは心許ない。
窓から覗く空は鈍色のままで雪が大地を侵食し続ける。この積もり具合だと、明日も車を使うことは無理だろうな。
「うーん、どこにも行けないね」
「雪が溶けないと、私も運転する自信ないや。まさかここまで降るとは思わなかったけど」
「バスも運行停止の大雪だからねぇ」
ベランダからソファに場所を移し、二人でまた寄り添う。
「…今年は、本当についてないや」
「…」
何気ない言葉。
「…ついてない人生だったのかな」
「…」
珍しく、陽が弱音を吐露した。
同意の代わりに無言で頭を撫でてやると、彼が背中からもたれかかってきて溜息を零した。私の胸元に全体重が掛けられると、さわさわと首筋に悪戯してくる後ろ髪の感触がくすぐったい。むず痒さを我慢しながら背後から腕を回した。
「…自分でも分からなくてさ」
「…うん」
ぎゅっと陽を抱き締めながら続きを待つ。
「今年は、まず【食の革命】が起きた。俺は元の店を辞めることになって」
「…あったね」
苦い記憶が呼び覚まされる。この狭い部屋ですれ違っていた私達。
「俺にとっては不運でしかなかったけど、食糧問題を解決する方法としては良い策だよね。自分が受け入れられなかっただけで」
「…難しいよ」
生き様ともいえる夢を奪われたら。
それを自分の運命だったと割り切るのは、本当に難しいことだから。
「それでも、今では合成食材に携わる仕事に関わるようになった。俺の視野も広がって、蟹料理だけじゃなく新しい食材にも挑戦するようになった。これは【食の革命】によって成長した自分もいるってことだと思う」
「そうだね、そうなんだと思うよ」
私達の関係も前進し、陽のおかげで家族との確執も消えた。その起点は確かに【食の革命】だったかもしれない。
「でも、母さんと同じ病気になっちゃった」
「…」
「色々やりたいこと増えたのに。やっぱり、ついてないなぁ」
私の腕に伝わる微かな振動で彼の体が震えているのが分かる。まるで押し隠してきた不安が漏れているかのように。自分よりも大きな体が小さく見えた。
「まぁ、自業自得なのかもね」
「…自業自得って?」
聞き慣れない言葉を反復する。本人的には明るく取り繕っているのだろう態度は湿り気を帯びていた。
「俺さ、ずっと好きな人より早く死にたいと思ってたんだ」
こんなに早い余命宣告は望んでなかったけどねと自嘲気味な笑み。
「母さんを失ってからさ。身近な人を作るのが怖くなった。夕ちゃんと出会うまで、誰とも付き合おうとはしなかった」
「…うん」
寂しそうな独白に相槌を打った。
「夕ちゃんと一緒にいても、大人になっても、いつか置いて逝かれる恐怖は心の中にずっと巣食っていた。誰かを看取るなんて経験は二度としたくないと思っていた」
「…そっか」
寂しそうが、苦しそうに変わっていた。
「こんなことばかり考えていたせいかな、俺が病気になったのも。やっぱり自業自得だな…」
「…」
最後の方は消え入りそうな声色だった。
今まで私の前では優しい一面しか見せてこなかった陽、その彼が秘めていた心情を曝け出したのだ。
それを汲み取ってあげられるのは私の特権で。
陽は優しい。わざわざ本音を零したのは、自分を看取るであろう私への気遣いと懺悔の意味を込めているからだ。
大丈夫、私は人に寄り添う職業に就きたいと思っていた女だよ。
「…だから、ごめ…」
「分かった!」
謝罪に続くであろう彼の台詞を先んじて封殺する。言わせるつもりはないのだ。
「この雪が溶けたら。また手伝うからさ。いなくなっちゃう代わりに色んなレシピを教えてよ。料理が上手な恋人がいたって証明させてよ。溢れるばかりの思い出を残してってよ。そうしたら、私は笑顔で見送ってあげられるよ」
「夕ちゃん…」
「私も強くなったんだよ」
陽が私に向き直る。彼の眼に溜まった涙をそっとぬぐった。いつぞや、私が泣いた時のお返しだ。
「先に逝ってもいいよ。でも、ゆっくりいなくなってね」
結局は掠れてしまった湿り声ではっきりと伝えた。私の素直な気持ちが彼に届きますようにと心からの願いを込めて。目の前の濡れた瞳に温度が宿った。
「…ありがとうっ…愛してる…」
「…うん、私も愛してる…」
陽は私の胸に顔を埋めて号泣した。
赤子をあやすように、いつかの焼き直しのように、彼の背中をゆっくりとしたリズムで叩いた。
真っ白に染まった下界へ寝坊していた太陽が顔を出した。さっきまで灰色だった空が眩く照らされていく。
「ありがとう…本当にありがとう」
この部屋には降りしきる雪のような優しさが積もっていた。
*
次の年の冬、泡は静かに弾けていった。
私の恋人は二十四歳という若さでこの世界から旅立った。