いいんだよ
いつしか太陽が沈み、父が診療所を閉める時間となった。
「どんな些細な事でも困ったら連絡しなさい」
「…うん、ありがとう」
父に別れを告げて車に乗り込む。助手席に座る陽に問いかける。
「最近になって運転しなかったのは、やっぱり手の震えが原因?」
「そうだね。後は運転中に発作が起きたら大事故になるって理由もあるよ」
溜息を吐いた。
「はぁ…気付けなかったなぁ」
「気付かせなかったからねぇ。杞憂だったらいいと願って検査を受けたんだ。遺伝する病気とは言っても確率は一割にも満たないからね。結果はこうだったけど」
陽も溜息を吐いた。また質問を投げかける。
「月曜からまた学校とか行くの?」
「うん、いずれ教授にも伝えないといけないけどね。しばらくは今と変わらずに働くつもりだよ」
私は深く息を吸い込んだ。
「…明日からは私が送迎するよ」
「えっ、それは助かるけど。いいの?」
本当にいいのかと。
送迎以外の確認も含めただろう言葉だった。
ちょうど赤信号になって、助手席の方を見つめた。
「うん、いいよ」
少しでも余命を伸ばすか、最期まで料理人として生きるか。
彼の選択は後者で。それは本当に悲しいけど、嫌いになるほど自分勝手だとは感じなかった。
ハンドルに添わせた左手の薬指。紅の宝石が夕焼けに反射した。
「俺にとって夕ちゃんは誰の代わりにもならない大切な人だよ」
指輪を貰った日、私を特別にすると言ってくれた。その言葉を証明するなら、私と過ごすための時間を少しでも伸ばして欲しいと思うだろうか。いや、思わない。
私は、どんな時でも、余命僅かな状態でも、自分の生き様を優先する彼の在り方が好きで、それに寄り添える理解者でいたい。そういう意味で特別な存在でいたいのだ。
だから、悲しくはあるけど。
「いいんだよ」
信号が青に変わる。もう、涙で視界が歪むことは無かった。
*
それから一ヶ月が経った。
「夕ちゃん、タイマーお願い!」
陽は相変わらず元気にしている。調理学校や診療所でも平気な顔で歩き回って、自分の仕事に励んでいる。
送迎で付いてきたはずが、彼のひたむきな姿勢は一緒に料理をしたくなるほどの熱量だった。
「はい、時間になったよ」
私も教授や診療所の方々の厚意に甘えて、陽の助手として仕事を見守っている。
「このタイミングでお湯から出すと、ほらね」
「うわぁ、艶が出た!」
「うん、綺麗な赤色になりました」
今日はカニカマの茹で加減を観察しているところだ。
しゃぶしゃぶ鍋といった蟹本来の味を楽しむ料理にカニカマを調和させる工夫。合成食材でもリッチな雰囲気を出す手法を探っている。
「やっぱり蟹を食べる魅力って、その身を剥くことにある気がするね」
「確かに抵抗なく剥けた時の達成感とかもあるかも」
ふと思いついて発言する。
「陽、例えばだけど。蟹の脚を模したプラスチック容器とかにカニカマを入れて容器ごと一緒に茹でる。茹で上がったらカニカマから容器を剥いて食べる。こういうのはどう?」
「それなら天然の蟹の身を食べている雰囲気が出るかもね、面白い!」
「やった!」
陽に褒められて嬉しくなる。意外と私には発想力があるのかもと調子に乗って、さらなる提案を頭の中で組み立てた。
「じゃあ、こういうのは?」
「よし、一個ずつ考えてみようか」
それから試行錯誤するうちに時間を忘れていた。学校が閉まる時間まで調理場の灯りは点いたままだった。閉館時刻を告げにきた教授に二人とも学生時代から変わらないねと苦笑されてしまった。
「すいません、すぐに帰るので!」
慌ただしく調理場を片付けながら学生時代を回想した。陽と遅くまで学校に残ったことは何度もある。でも料理についての議論をここまで激しく交わしたのは最近になってのことだと気付いた。
「ふふっ」
あの頃の教授の立ち位置に私がいる。施錠を待っている教授を見ながら少しばかりの優越感に浸っていると、早く片付けなさいと小言を言われた。反省して片付けに集中する。
「陽、そろそろ冬だね」
「そうだね、寒いから駐車場まで走ろうか」
季節は秋と冬の境目を迎えた。室温に慣れた体を容赦ない夜風が冷やしてくる。
三日月に見下ろされながら、小走りで駐車場へと向かった。
*
いそいそと帰宅し、遅めの夕食や入浴も済ませた後。
お互いにソファでくつろぐ時間になる。
「陽、体調は平気?」
「大丈夫、ぜんぜん心配ないよ」
陽が両手を握ったり開いたりする。今のところ彼の震えが仕事に支障をきたすことは無い。
これから身体の異変を感じたら隠さず教えてほしい。そう一ヶ月前に告げた。
それから就寝前は健康診断のような憩いの時間になっている。
「ほら、ちゃんと指も動かせるよ。かにー」
「ふふっ、それは関係ないでしょ」
指をハサミの形にする陽。かにー、と水槽に向けている姿がくだらなくて笑えた。毒にも薬にもならない会話が楽しかった。
つん、と振り向いた陽が人差し指で頬をつついてきた。
「なぁに?」
きゅっと彼の首に腕を回して、おでこ同士をくっつける。
いつかは泡のように崩れてしまう日常だとしても。
ここより将来、絶対的な別れが来ることを知っていても。
私と陽は気負うことなく生きていた。