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泡沫  作者: ふくマカロニ
三章
11/16

どうして、そんなに優しい顔できるんだろう

「陽、今日も父さんのところに行くの?」 

「そうだね、でも夕飯までには戻ってくるよ」


 お盆休みに帰省してから、陽は調理学校だけでなく、父の診療所にも顔を出すようになった。

 その理由を尋ねると、合成食材を使った献立の試食提供の為だと言っていた。


「じゃあ待ってるね、いってらっしゃい」


 父と陽の仲が深まっていいなとそんな呑気なことを考えていた。明らかに頻度を増している往来も彼の仕事熱心な性格によるものだと考えていた。


 一件の着信が事態を急変させた。


 その日は朝から胸騒ぎがしていた。何か良くないことが迫っている予感があった。


「夕、明日は時間作れるか」


 父からの着信があり、陽と一緒に診療所まで来て欲しいと頼まれた。電話越しでも伝わるトーンの重さに軽口を返す余裕はなかった。

 仕事とプライベートを区別する父が、集合場所を実家ではなく診療所にしている時点で変だった。

 通話が切れても携帯電話を片手に立ち尽くしていた。その様子を蟹だけが眺めていた。


「ただいま…どうしたの?」

「えっと、さっき父さんから連絡があってね」


 帰宅した陽に診療所へ行く旨を伝えた。了解、と返す普段通りの微笑があった。

 ただ、彼の瞳によぎった戸惑いと諦観を見逃さなかった。何かを覚悟しているかのような表情で。


「おやすみ、夕ちゃん」

「…うん、おやすみなさい」


 就寝前の挨拶を交わして布団を被った。


 こうして同じ空間にいるのに。


 こんなに近い距離なのに。


 何も言葉を発せなかった。 

 

 明日に告げられるだろう不安から目を背けたいと感じていた。陽が布団の中で身じろぎした。灯りの消えた静寂が人の気持ちも知らずに演奏を続ける鈴虫の存在を際立たせる。


 無言のままに背中を合わせた布団の膨らみを欠けた月がじっと眺めていた。

「おはよう」

「…うん、おはよう」


 昨夜は物思いに耽るうちに気付けば眠りに落ちていた。


「食欲なかったら残しても大丈夫だよ?」

「ううん、平気。これ美味しいね」


 私より先に起床していた陽が二人分の朝食を作ってくれていた。こんがりと焼けた大豆製ソーセージを噛み切る。幼い頃に食べていた豚肉のソーセージと大して変わらない味に時代を感じた。


「…父さん、何で急に呼び出したのかな」

「さぁねぇ」


 どこか誤魔化すような返事。恋人が浮かべる曖昧な笑顔。


 陽は呼び出された理由に感づいているのだろう。以前なら、こうした彼の態度に不安を感じていたかもしれない。でも、私だって成長しているのだ。

 陽が言いにくい理由なら聞かない。それが一晩悩んだ私の結論だった。


「ごちそうさまでした」


 食べ終わった食器を持ち上げて席を立った。


「ねぇ」

「?」


 陽の後ろを通るとき、前屈みして彼の耳元で囁く。まだウィンナーを咀嚼中で返答できない彼に笑ってみせた。


「私がついているからね」


 シンクに食器を重ねる。剝き出しの手を濡らす流水が痛みを感じるほど冷たかった。

 潮日診療所と大きく書かれた建物。父の職場に訪れるのは久々だった。


「単刀直入に言うが、陽君の病状はかなり進行している」


 カーテンを閉め切った病室で待っていた父はこう告げた。


「君の母親と同じ病気で間違いないだろう」

「…そうですか、覚悟はしていました」


 陽が寂しそうに笑う。


「日常生活に支障はあるか?」

「今のところは手の震えだけです。特に支障はありません」

「…そうか」


 私を置いてきぼりに進められる会話。慌てて口を挟んだ。


「ど、どういうこと?二人とも説明してよ」


 険しい顔で眉を寄せる父。


「陽君の母親の病気は遺伝性があったようでな。それが発症する確率は零に限りなく近いはずだったが。どこか見覚えのある初期症状を感じた彼はここで検査を受けていた。それで結果は…」

「ごめんね、ずっと言い出せなくて」


 唐突な情報の奔流に脳が悲鳴を上げる。

 何を告げられても動揺しないと覚悟していたはずなのに。


「そんな…そんなのって…」


 でも、今は臆病な小鹿のように震えることしかできない。私が俯いていると肩を軽く抱き寄せられて、呆然と彼の顔を見上げた。こっちを気遣う表情はどこまでも優しかった。


「余命はあとどれくらいでしょうか」

「…おそらく、一年程だろう」

「そうですか…母さんの時と同じくらいの期限ですね」


 すぐ近くで交わされる二人の会話を遠くに感じる。まるで溺れているかのように足元に力が入らなくなった。幼い頃、遊園地で家族とはぐれた記憶を思い出しているような。


 しっかりと繋いでいた手が外れてしまったかのような孤独。

 どんなに叫んでも喧騒に阻まれてしまうような隔絶。


「ただ、一つだけ提案がある」


 父がそう切り出した。暗闇で微かな光源に縋るように視線を向けた。


「私の診療所では力不足だが、都内の病院で治療に専念すれば余命は伸びるはずだ」

「それって!」

「伸びるだけだ。完治は不可能。そう断言するしかない程の難病だからな」


 医者としても、父親としても。

 患者に空虚な希望を与えることはしないと決めているような口調だった。


「…それでも。少しでも余命が伸びるならっ…」

「夕ちゃん」


 私の言葉を陽が遮った。ぎゅっと肩を掴まれ、お互いの視線が交錯する。

 彼の瞳に反射する女は泣きそうな表情だった。


「俺、入院はしないよ」

「…どうして?」


 咄嗟に理解できなかった。疑問符を頭に浮かべた私の頭を撫でて、陽は父の方へと目線をやった。

 二人は以前から話し合っていたのだろう。父も彼の意思を尊重しているようだった。


「治療に専念、つまり入院したら調理するための時間が少なくなる。残り少ない余命、どれくらいの時間が使えるか分からないけど。半年もあれば合成食材の研究には充分過ぎる時間だ。一秒たりとも無駄にはしたくない」

「君の母親は発作が起きた時を想定して入院生活を選んだのだろう。君も同じ病気なら、病室の外で発作が起きた時の危険性は跳ね上がるぞ。都合の良いナースコールも無いんだからな」

「分かっています。それでも、寝台の上で死を待つだけの生き方はできません」


 父が溜息を吐いた。この問答の結果が最初から分かっていたようだった。


「そうか。貴重な時間の使い方を医者が強制することは出来ない。それが君の選択なら尊重するよ」

「…ありがとうございます」


 そうだ。私の恋人はこういう人だった。

 学生の時から変わらず、自分の体調よりも料理を優先させる。


「夕は落ち着くまでここにいなさい。温かい飲み物でも淹れてこよう。今のお前の状況で運転するのは危険だからな」


 そう言い残した父が病室から抜け出し、私は陽と二人きりになる。

 いつもと変わらない元気そうな顔色。


 とても死神の鎌が首に添えられているとは思えなかった。

 いや、思いたくなかった。


「…ごめん」


 私がついていると言ったのに。狼狽えるばかりで何も役に立てなかった。ずっと病人である陽に気を遣わせてしまっている。


「ううん、ついていてくれて良かったよ」

「…でも私、何もできてない」


 隣に感じる鼓動、体温、横顔。

 その全てに例外なく死が迫っているという事実を前に。


「隣にいてくれたでしょ。それだけで救われているよ」

「っ、でも!」


 なんで、自分が死ぬと告げられていて、そんなに優しい顔できるんだろう。

 私には分からないよ。


「今日は傍にいてくれてありがとう、やっぱり、一人だと心細かったからさ」

「…っ」

 

 穏やかな表情、声音で感謝されると。

 さらに嗚咽が漏れるも、するっと絡まった感情が解けていって。


 か細く消えそうな声を振り絞った。


「…今日だけだから」

「うん」

「…今日だけ、泣かせて」


 それを言葉にしたら、くしゃりと自分の顔が歪んでいくのが分かる。

 陽が両手を広げた。


「おいで」

「…っっわぁぁあっっっ!」


 私は迷子になった子供のように泣きじゃくった。この腕の中の温もりが消えてしまう哀しみが心を埋め尽くした。ぽんぽんと背中を叩いてくれる優しい感触。


「夕ちゃん、夕ちゃん」


 もう、言葉にならなかった。

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