予兆
がちゃん、と住宅街に響く不協和音。
「あら、やっちゃったわね」
とある一軒家でエプロン姿の主婦が洗い物をしているところだった。泡で濡れた手から食器が滑り落ち、シンクに叩きつけられる音が響いた。
「母さん?」
「ごめんね、手が滑っちゃったみたい」
食器の破砕音がリビングで本を読んでいた息子の興味を惹く。おずおずと心配そうに見上げる彼に微笑みかける母親。よく見ると彼女の両手は今も小刻みに震えていた。
母親はどこか達観したような表情でシンクに散らばった破片を片付ける。彼女の瞳がそっと伏せられた。長い髪が俯いた顔を覆って、沈んだ表情を息子の視線から隠した。
「陽。ちょっとお母さん病院に行ってくるから。その間のお留守番を任せるわね」
「はーい」
孤独になった部屋で母の帰りを待つ少年。蝉の鳴き声が喧しい夏の日のことだった。
*
「はっ!」
悪夢でも見たかのように飛び起きる青年。
枕元に置いた時計の文字盤を確認すると丑三つ時だった。掠れた喉が乾きを訴えている。
冷蔵庫に水を取りに行こうとして自分の服の裾を掴む存在に気付く。
隣で安らかな寝息を立てる愛しい彼女。
可憐な外見で思いの外、力強く裾を掴んでいる彼女に苦笑した。どこにも行かないよと艶やかな髪を優しく撫でつける。
初めて彼女に出会った時、記憶の中の母親と再会したような気分になった。
これは神様がくれた奇跡と思ったのだ。
それから視野が狭くなって、好意を寄せてくれた彼女に母の面影を投射した。相手の感情を考えない自分勝手な行動だったと反省している。
心に孤独を植え付けてしまった彼女。改めて素直な想いを伝えて、彼女の不安を取り除くことに成功した。
「陽…」
無邪気な微笑交じりの寝言。この穏やかな表情を崩してまで喉を潤そうとは思わなかった。
冷蔵庫に行くことは諦めて布団を掛け直す。寝付くまで、羊の代わりに天井の模様を指折りして数える。
「…きゅう、じゅう…もう誤魔化せないなぁ…」
十匹数えたところで握った掌を眼前に持ってきた。不自然なまでに指の一本一本が小刻みに震えていると気付いてしまう。
いつかは来る運命だと思っていた。
「ごめんね、夕ちゃん」
彼の独白は誰にも届かずに闇へと溶けていく。鈴虫の音色が響く秋の夜のことだった。