笑顔
彼女を隣に乗せて、海沿いの道を車で走る妄想をしていたら、約二時間が経っていた。
慌てて意識を現実に引き戻す。気がつくとそこには、燦々と輝く海の景色も、潮の香りも波の音も存在しない。そもそも、僕は彼女もいなければ、免許すら持っていなかった。机の上には車の運転に関するテキストが開いたままになっていた。窓の外には雪が降っている。
試験の前にスパートをかけて勉強するつもりが、どうしてこうなってしまったのだろう。集中力が足りない。昔から言われてきた言葉だ。無尽蔵のため息をつく。
テキストから顔を上げ、ぼうっとしていると、向こうに人影が見える。
三上さんだ。
その時、どっと心臓が脈打ち、その振動が身体全体に響いた。眠っていた神経の全てが呼び覚まされたかのような感覚だった。顔の辺りが熱くなっていく。
満員電車に乗客を押し込む駅員のように、溢れる動揺を外に出すまいと努めていたが、一つだけ失敗があった。それは、三上さんに向けた視線を、そのままにしてしまったことである。つまり、どのくらいの時間そうであったか定かではないが、思い出すのも恥ずかしいくらい、僕の目は三上さんに釘付けだったのだ。
案の定、三上さんに気付かれてしまった。三上さんが僕を見ている。僕も三上さんを見ている。
三上さんは笑った。陳腐だと思うかも知れないが、三上さんの笑顔は薔薇のようであった。その時の、表情が和らいで笑顔を作るまでのグラデーションは、バラの蕾が大輪を開くように、輝きと美しさで満ちていた。