両手で撫で続けよう
車両の出口の扉を抜け、駅のホームへと降り立つ。
出発から4度の空間跳躍を経て辿り着いたのはニルギリ南西部に位置する農業都市、サイレントバレー。
緑の薫る風が、俺に続いて降りる息子達の頬を撫でた。……羨ましい。
髪を梳き、襟を整えたが、頬は撫で損ねていた。何と愚かな失態。
あ〜クソッ、ちょっとだけ撫でよう。
一陣の風が俺の首元を吹き抜け、ヒヤシンスの刺繍があしらわれた淡青のスカーフを後方へと持ち去る。
「わっ、……と。はい、姉さん」
「ありがとう、マルク」
あぁ〜ナーイスキャッチ! 俺の心はカイルが生まれる前からキャッチされているがな!!
そしてすかさず頬を撫でる!!! マルクは全く嫌がる事無く、この手を受け入れてくれる──
ふぅ〜〜なぁんて瑞々しくぴっちぴちのもちもち肌なのかしらねえ〜〜〜↑↑
「んっ…えへへ……」
はい、この柔らかくも眩い微笑み!! 早速本日の最高得点をマーク!!!
「いやぜってえわざとだろ。何なら風も自分でやっただろ」
「あら、ディルったら拗ねないの。仲間外れになんかしないわ」
「うあっ?! ひむう゛ッ!」
ディルの身体を引き寄せ、同じようにその小さな頬を問答無用で撫でる。
ふにっふにじゃないの〜。筋肉の付いた体とのコントラストがとても趣深いわ〜〜。
「あ、姉さん。ここで万年筆買えるかな」
「そうねえ、買えない事もないけれど精々上等な事務用品店レベルよ。ここの特産は野菜や果物だもの」
「にい、ちゃんの、その、全、然、気にぅ、しねえで、話、進められ、る、とこ、すげえと、おも、う……」
「そうかな……?」
ふっ、ディルには頬を撫でられながら喋るというのはまだ難しいようだな。
サイレントバレーは農業を主産業とする都市だ。
長年の品種改良と魔道具による徹底した生育環境の最適化で、作物は季節を問わず安定して収穫される。旬を謳うだけの下手なものより味も香りも栄養も上質な上、収量も膨大。実に国内需要の3割超がこの地で生産されているらしい。魔道特急が止まるだけあるというわけだ。
今も丁度、降車した停車中の特急車両の後部へ、青果を積み込んだ貨物車が新たに連結されている。
「んんー……マイス、お金持ちだし、普通にお店で買える程度のじゃ格好がつかないかなあ」
「そうね。国内でお金を積んで用意できる物なら、彼が家人に一声掛ければ即日で手に入れられると思うわ」
「やっぱそうだよね」
「ひむっ、ぐ、体、動かねえわけでも、つかまれてるわけでも、ねえの、にっ……なんで、手からっ、離れ、られねえっ?!」
◇
ただ、魔道特急がサイレントバレーに止まる理由は、何も新鮮な食材をニルギリ全土に送り届けるためだけではない。
ここには極めて曲折しているが、大陸を南北に隔てる山脈を越えられる峡谷が存在する。国外へと繋がる数少ない場所の1つというわけだ。
検問所と大山脈を越えれば、ニルギリから出国。山脈の向こう、大陸の中央部から南側にかけて広がる、通称〝亜人連邦〟と呼ばれている地帯に入る。
その名の通り、様々な獣人やエルフ、ドワーフ等による多くの小国、里や縄張りが密集している。遺跡や魔獣も多く、それらに群がる冒険者も多い。
管理の甘い人口集中地というのは、色々と紛れる上で役立つ。身なりの良い女子供だけの集団のままでの移動は、ニルギリほど治安の良くない場所では無駄に絡まれるリスクも高くなる。適宜変装し直していきたいところだ。
「もう出国の事前手続きは済ませてあるわ。それで国境を抜けてあの山を越えるのだけれど、そこに丁度ドワーフの里の入口があるの」
「ドワーフ……?」
ドヴェルグとも呼ばれる岩と炎に長じた種族で、武具、金属加工、宝飾品の制作において極めて優れた技術を持っている。
代わりに植物とは極めて相性が悪く、食べれば大半は腹を下すし(これは単に肉食だと言える)、物によっては直接触れるだけで腐らせてしまう……これを利用して腐敗の方向性を調整し酒を造る奴がいるぐらいには酒好きでも有名だ。何故植物由来のはずの酒がイケるのか、はっきりとしたことは分かっていない。
ただ、仲が険悪だったエルフとも酒を通じて和解し、俺があちこちを見て回っていた頃には既に、互いに住み分ける形で両者の関係は落ち着いていた。
まあ、山の向こうで国々が、戦力で外から、謀略で内から、次々潰し合い呑み込み合って大国が生まれつつある状況では、いがみ合っている場合ではないというのもあっただろうが。
「普段のように私が作った物では、公の場で使えないでしょう。かと言って無銘の品では、素材が良いだけで相手へのリスクが大きいの。
クレイグモア家は莫大な規模の資産運用とそれによって得た、多様の伝手、権益、信用を武器にしているわ。そのクレイグモアの最重要人物が、出処不明の物を持っていると知れれば、目敏い対抗派閥の者が後ろ暗い繋がりがあるだとか喧伝する攻撃を仕掛けるでしょうね。
まあ、その程度今の彼なら容易く躱すか潰せるでしょうけど」
「そっかあ……マイス、すごい偉い人になっちゃったもんね……そういうのも、ちゃんと考えなきゃいけないんだ……」
「めぬゅ、まぅ、もむふっ……やめぉ……!」
そう、俺の名で作って贈ったと知れれば、話が大事になる。かと言って私の名は無名も同然。偽装してそういう名家があるという風にするのも可能だが、その手の大きな偽装には継続的な保守が求められる。人員が割けない以上得策ではない。
「けれど上質な素材を使ったドワーフの名工の作品なら、今のマイスへの贈り物としても申し分ない。少なくとも、名工に話を通せるだけの人物からの物、という証明にもなるわ」
「それなら普段から使っても大丈夫なんだね!
職人さんにはマイスのイメージを伝えれば、似合う感じに作ってくれるかな」
「ええ、大丈夫よ」
「おぶ、べふぇうくぁ、ぉむぁえゎ、んめぅばょ」
「お金?……ドワーフならもしかしたらお酒とか素材じゃない?」
やだ、カイルってばもうすっかり天才になって!!
ディルにはもう少しおしゃべりの練習が必要そうね~。
「その通りよ。珍しい素材を提供すれば万年筆の1本ぐらいお願いできるわ」
◇
“小国”と言ったが、それはあくまでニルギリに比べればかなり小さいというだけだ。
ドワーフの里も、大半は地中だが山脈の麓沿いにかなりの範囲で広がっている。ちょっとした国よりもずっと大きい。
ただ彼らは、作品造りと素材と酒と肴以外は殆ど気にかけない。規模がどれだけ大きくなろうとも、政をできる人材が皆無で国体を成さないのだ。故にドワーフの“里”と呼ばれている。
最終目的地はその更に向こう。
インディアナ大陸のさらに南、海のど真ん中にある無人の大陸。
アカーラは「あまり待たせても怒りは増長する」と言っていた。だらだらと移動する訳には行かない。
どこかしらで空間移動を用いるか、何らかの高速な移動手段を見繕うべきだろう。
もしこれが最初に目覚める前のカイルのような普通の──その時の俺はそうだと思っていた──アンデッドだったなら、魔法の袋に入れて移動するのも有りだっただろう。
だが今の息子達はアカーラの修行もあり単なるアンデッドとはかなりかけ離れている。
入らないだとか袋の方が壊れる程度なら良いが、息子達に影響が出てしまう可能性も0とは言い切れない。検証にもリスクが伴う。
この手段は無しだ。
息子達を連れる以上、安全は絶対。
次点で追跡のリスクが小さい事。目的地に少しでも早く到着する事。しかし何よりも息子達の安全が第一だ。
現に、今取っているサイレントバレーから峠を抜けるこの経路は若干遠回りしている。俺の家があるクヌールからの最短で向かおうとすると、国外に出られるまで経路の途中に巨大な穴──いや、湖がある。
あの一帯は一応ニルギリの国土に編入されているものの、今でも人体に悪影響が無いとは保証できないとして、周辺を含め立入制限区域に指定されている。
……地形変化に伴う気候変動で年中霧が濃く、視界が悪い。
更に高濃度の魔素嵐が無秩序に吹き荒れ続け、300年前に俺が調査した時点では、生物が存在するのも困難な状況と判断できる程だった。
今でも300年前の時点で安全を確保できる距離に作られた観測所からの定期的な遠隔観測に留まっているらしい。
特に中心部の状態は、魔素嵐と濃霧によって遠方からの詳細な魔術的・光学的観測は難しかったはずだが、100年程前の世界的な熱波で霧が一時的に晴れ、その際の多重屈折望遠術式での光学観測で、そこが湖になっていると分かった。
その場所は〝メイルーア湖〟と呼ばれている。
妻と息子が攫われた忌まわしい国の、跡形も無く消滅した跡地。
つまるところ、好んで息子達を連れて通る必要も無いというだけの話だ。