歌を教えよう
物心ついたときには、俺は孤児院にいた。
本当の両親のことは一つも覚えてないし、ルークスって名前も、院の人達が付けてくれたらしい。
そこがクレイグモア家傘下の300年近い歴史のある孤児院で、そのクレイグモア家が凄まじい資産家だって知ったのは、俺の引き取り手が見つかって院を出る少し前だ。
というか、その養父さん養母さんも、クレイグモア家が探して俺に紹介してくれた。
院のマザーは親のことを知らない俺でも母親だなって思う良い人だったけど、〝俺の〟っていうより〝みんなの〟って感じだったから、養親の話はかなりうれしかったのを覚えている。
孤児院では色んな事をやった。
チャリティのバザーのための小物作りとか、コンサートや演劇、料理なんかもした。
最初は寄付を集めるためかと思ったけど、多分それだけじゃなくて、俺達にどんな才能や適性があるかを推し量るためだったんだと思う。
実際俺は今、自分で言うのもなんだけど、数あるライバルから頭一つ以上出て、人気天才子役として役者人生を歩んでる。楽じゃないけど、充実した毎日だ。
クレイグモア家の孤児院事業を、しがらみの無い才能を採掘して都合良く原石を量り売りする偽善だとか批判してる人もいるみたいだけど、どうせそういう連中は、孤児の世話もしないし援助もしないし金も出さない。世界を助けが必要じゃなくなるように変えもしない。
偽善だろうが、俺達を生かして、真っ当な世界や人々と繋いでくれた。それだけで、俺達が感謝するのは当たり前だし、充分だ。口だけの批判なんてそれこそなんの利益も無い自己満足……ってこれは愚痴だな。ったく、ゴシップ記事なんて読むもんじゃないな。
まあだからってわけじゃないけど、クレイグモア家からミュージカルのメイン子役のオーディションの話が来たとき、他の仕事を全部蹴って、俺は本気で役を取りに行った。
◇
「弟達も紹介しましょう」
爪の先まで洗練された流麗な手に促されるように視線を移せば、自分と同じか少し下程度の少年が現れた。いや、ようやく視界に入った、って言った方が正しい、かな。
気のせいか、その少年からは同業者みたいな匂いがした。
どうであれ、沢山の……それこそピルール先輩みたいな最前線にいる美貌を持つ女優の方々と共演することもあった俺から見ても、グレナダ様──自然と“様”付けになってしまう──の存在感が大きすぎて、その少年も最初からいたんだろうけど、言われるまで全く意識に上ってこなかった。
……主演級俳優の覇気に霞まされ、背景にされた昔の自分みたいだ。
と苦い思い出が舌先に滲み始めたところで、少年の方が口を開いた。
「僕はマルク。あそこで見学してるのが末っ子のディルと侍従のカールです」
フリルがあちこちについた貴族の子供っぽい(絶対高いやつ)ふわふわした服を着てる……着せられてる? マルクよりさらに小さい子供が、部屋の隅の椅子に座ったまま若干目を逸らしつつ小さくお辞儀をして、その脇に立つ黒の礼服を纏った青年も合わせて会釈をしてきた。
俺も軽く挨拶を返しておく。
グレナダ様はそれを見て、満足そうに頷いた。
「さて、お二人は既に説明を伺っていると言う事でしたね。早速ですが、その新曲を聴いていただきたいと思います」
クレイグモア家本邸の大ホール。
200年以上昔の革命で国内各地の多くの貴族の邸宅が打ち壊されたりバラバラに売りさばかれたりした中、数少ない現存する貴族制時代の建築物の一つ。
あのフロスト邸と並んで文化財にも指定されていて、『グレンデール作品』の始まりの場所としても有名だ。
そこでクレイグモア家の当主から直々に新譜を頂くとか、この業界で一生自慢できる。っと、舞い上がるのは仕事が終わってからだ。
受け取った譜面に目を通す。
構成は、弦楽の伴奏と混声四部のバックコーラスに、メインがピルール先輩と俺のパートによる重奏。
歌詞の所々がこの国の言葉じゃなく発音記号で書かれているのは、事前に聞いていた『竜の巫女』の歌の原詞を引用したところか。
ただ、これも事前に話では聞いてはいたけど、音程は全く読めない。無理に読むとなんか変な音だ。ま、それは今から聴いて覚えれば……ん?
もしかして俺のパートはマルクが歌う?
「カール、楽団を出して。バックコーラスも頼んだわ」
カールの「承知しました」の声と共に突如現れたのは、30人程の弦楽団と20人程の合唱団。全員が薄手の布で顔を隠している。いや、よく見ると木の人形……?
危険なシーンを人形遣いの人形に代演させるのは観たことあるけど、これだけの規模、それも楽器の演奏なんて繊細な動作をさせるのは聞いたことない。
というかこの量を瞬時に出し入れできる魔道具とかそれだけで俺の給料何年分だって話だ。絶対に人雇った方が安い。
そんな貧乏臭さが滲む野暮ったい考えは、次の瞬間、真っ白に掻き消えた。
◇
「ɢʌː_ɻʂə_ɪ̈ʀ 猛き賢き 愛しき我が子__」
優しく暖かな、しかし同時に透き通った涼やかな独唱が、知る者のいない異国の言葉と旋律を響き渡らせる。
「hɪːʁəːʀʝa__ 翼 休めて__」
どこまでも届きそうな程に澄んだ声音は、けれどピアニッシモ。ただ我が子の未来を祈り、静かに慈しむ。
独特の息の音が強い子音。くぐもってるとも思える母音。
そんな聞き取りにくい囁くような詞にも拘らず、歌は耳まではっきりと届いている。
それがまるで枕元で歌ってもらっているような距離感を錯覚させた。
「ɢʌː_ɻʂə_ɪ̈ʀ 健やかに 安らかに 眠りを__
çɪːʁəːʀʝa_ 尾まで お休み__」
気付けば歌声に寄り添うような弦楽伴奏と共に、マルクの、俺が覚えるべきパートになっていた。
「ɳʌɪ-ɖʌɪ ʐʌɪ-ʂʌɪ 夜も夜明けも 瞼の裏に想い」
少年ならではのハイトーンなボーイソプラノが、穏やかな夜更けから色とりどりに輝く星々で煌びやかな夢の夜空へと、脳裏に映る情景を変えていく。
「ʈeɭɢœ hʌhɪɲʌ 瞳の奥_」「闇も_」「光も_」
「「あるままに__ 今は微睡みの中へ__」」
二人の重奏の余韻からバックコーラスと弦楽による間奏に入る。
間奏も自然と聞き入っていたけど、ハッと我に返った。よくよく考えたらこれ人形がやってるんだよな……めちゃくちゃ凄い人達じゃ……と、感じ入ってからかなりの時間差で俺の頭は理解し始めていた。
「焦がれ求め」「究め努める 愛しき我が子よ__」
「今は」「今日は__」「「おやすみ__」」
歌が終わり、俺は自然と拍手していた。ピルール先輩もだ。
これ以上のものが俺に歌えるかと尋ねられれば、正直即答できない。けれど一人の役者として、俺はこの感動の少しでも、俺を「カイル」として観に来てくれている人達に伝えたいと思った。
◇
まあ、思うだけなら簡単だって話だ。
「ɳʌɪ」「なァい」
「ɖʌɪ」「づぁい」
「ʐʌɪ」「じゃい」
「ʂʌɪ」「しゃい」
「ʈeɭɢœ hʌhɪɲʌ」「つぇぅぐぉ はァひにゃぁ」
「んー……違いますね」
「ぐ……」
音階も独特でハミングや母音で音を取るだけでも結構大変だったけど、一番難しかったのは歌詞の読み込みだった。
最初読んでいて、グレナダ様に真顔で「全く違うわね」と言われたときは、多分人生で一番心臓がヒュってなったし、初舞台で長台詞言い切った後油断して次の台詞すっ飛ばしたときよりメンタルに来た。
「口の上の硬い所、硬口蓋に舌の先を付けるような感じで舌を反らせると、[ɳ]、[ɖ]、[ʐ]、[ʂ]、[ʈ]、[ɭ]の音は綺麗に出せます。
[ɢ]は喉のかなり奥の方で出す音です。難しいですが、舌の根元を引いて喉を閉じるイメージで。口蓋垂を意識しながら、息を一気に解放して鳴らしてください。
ただ、今回はルークスが演じる〝カイルベッタ・フロスト〟の柔らかなイメージを崩さないようにしなければいけません。
慣れてきたら解放する息の量を減らして強く鳴らし過ぎないようにしたいですね。[ʁ]より少しはっきりした音という感じでしょうか」
そしてマルクの教え方がやけにうまいというか具体的っていうか、欲しい説明を的確にくれる。でも簡単にはいかせてくれないで、高度な要求のおまけもついてくる。
ご丁寧に見本を聴かせてくるから、余計にプロとして演ってるプライドみたいなものが刺激される。俺だって別に異国語の台詞ぐらい演ったことあるし……っ。
俺はもっと喉を締め上げて、舌も引き上げてその根本で喉に蓋をする。
「ほ、ほお゛、ぉえ゛へッ!! ゲホッゲホッッ!!!」
「だ、大丈夫ですか?」
「だ、だい゛じょう゛ぶげう゛」
「あ、今の〝げ〟かなり[ɢ]っぽい音で良かったですね」
今の『げ』が良かったって言われても喉痛めそうなんだけど……
そう思いつつ、いつの間にか傍にやって来ていたカーラから自然に差し出された紅茶を飲むと……いや、味が紅茶じゃないし、気持ちが悪いくらいに喉の痛みがスッと引いた。何これ。
「治癒効果のある特製ブレンドの花草茶で御座います」
「……それ、もしかしてアレ混ぜたんですか?」
「くくくっ、今の私共には希少では御座いませんから。この程度であれば主の手を煩わせるまでも無く煉れましょう」
「……他の人が聞いたら卒倒しそうですね」
何だ、何を言ってる……俺は一体、何を飲まされて……
いやこれは、〝知らない方が良いことは世の中にはいっぱいある〟ってやつだ。そういう余計な大人の事情に突っ込んで表舞台から消えた子役はたくさんいるって、先輩も言ってたしな!
「皆の時間を割き、ただ歌唱と演技指導だけでは味気ないと、クレイグモア家が心尽くしの晩餐を饗すとの事で御座いますし、──それに比ぶれば良く効く花草茶など些事。そう気を揉むでない」
たまにカーラ……さん?の口調がおかしいというか、いや気にしない気にしない、こういうところで見ないふりできない奴から消え……うわめっちゃ視線だけこっち向いて笑ってる怖あっ。