子守唄
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『猛きものよ 賢きものよ』
『今ひと時 その翼を休めん』
『健やかなる眠りを 安らかなる眠りを』
『今ひと時 その尾を休めん』
『夜天の闇を想い 暁天の光を想い』
『今ひと時 その瞳を休めん』
『焦がれ励む子よ 究め努める子よ』
『今ひと時 その身を休めん』
柔らかく風を伝い俺の耳まで届く声────この辺りでは聞き馴染みのない音階、旋律、抑揚、言葉。
我が家でそれを紡いでいるのは、異国の少数民族の出である俺の美しく愛しい妻、メイルーアだ。
「いい歌でしょう?」
「あぁ。実に希望に満ちた安息だ」
〝巫女〟として昔から歌や踊りを奉納してきたというらく彼女は、そういった芸事が得意だった。家事の類は破滅的だったが。おそは世話人に任せてきたのだろう。
掃除は『状態保存』でどうにかなるし、料理も俺ができるのだから問題じゃない。やれることを分担してやればいい。
俺はもう、一人ではないのだから。
そして今や、二人でもない。
先程まで『牙鼓』を元気良く叩いていたのが嘘のようだ。
俺と妻の愛の結晶は、妻の脚の上にもたれ掛かり小さく息を立てて眠っている。
「よく効く子守唄だな」
「ええ。というかグレンはニルギリ人なのに〝竜語〟聴き取れてるんでしょ? 歌うのも聴くのも、歌わせるのも聞かせるのも、もう自由自在なネイティブスピーカー。新曲だって作れちゃうんじゃないかしら」
「流石に歌は作っていないな」
「愛の詩は毎日囁いてくる癖に」
他愛のない戯言を吐き合いながら、俺は息子用お昼寝セットを取り出し、その小さな身体にブランケットをかける。
心地良さげに眠ったままふにゃりと笑う息子の様子に、俺達も揃ってふにゃふにゃになりそうだ。
「どんな夢を見てるのかしらね」
「竜に乗って、空を飛んでいるのかもな」
「ふふふっ……そうかもね」
◇
「この歌は、幼い我が子を仔竜に見立て、その健康を願う子守唄だ。
元は竜が自身の子を寝かし付けるために作ったものだと言い伝えられてきたと、妻が教えてくれた」
〈不思議なメロディと発音ですが、何故か凄く気分が落ち着きますね〉
「俺、この歌最後まで聴いたの初めてかも」
カイルはマイスの前でも何となく口ずさむ事があったが、歌の最後辺りは記憶に無かったようだ。まあ、それはそうだろう。この歌を聴かされたカイルは、いつも半ばにはぐっすり熟睡だったからな。
「実のところ、この歌自体が特殊な効果を持っている。親子関係かつ対象年齢に入っている者に、ほぼ確実な入眠効果を齎すものだ。あんな具合に」
ディルマーが身体を丸め、すぴすぴと眠っていた。
丁度ディルマーの歳辺りがこの歌の効果がある上限だ。
強いて言えば、このまま年月を経ても肉体が成長しない不死者には効果があり続ける可能性もあるということぐらいか。或いは霊体に作用しているのなら、肉体の年齢ではなく『魂が身体を通じ世界と交わりを持っている期間』の方が条件かもしれない。
ちなみにここで言う〝親子関係〟も血縁そのものより魔力や魂の繋がりを指している。
今のディルマーは、俺やカイルと眷属と言っていい強い繋がりがある状態だ。おそらくこの歌を作った竜は、血よりも魔力の方に強い繋がりを見出したのだろう。
まぁ今はその辺りの考察はいい。
「ゎー……ぐっすりだね……」
なんだろうな。なぜうちの息子は声量を絞ると、全身を骨抜きにされそうな魅惑の囁きvoiceになるんだろうか。
そういう風に世界ができているのか?
この世界、随分といい趣味してるな??
そしてディルマーの下にいつの間にか存在している毛足の長い敷物はアカーラが用意したのだろう。
俺の周囲で感知できない大体の不可解な事象はアカーラの仕業だとみていい。
「この歌の入眠の対象になるのは11歳までだからな。人間に歌うにしては微妙に効果範囲が広いあたり、この曲の大元の竜種の幼児期がそれぐらいなんだろう」
「うむ。子孫、血族を滅ぼす呪法とも似通ったものがある。が、音声のみにて此処まで精緻な術を組めておるのが実に巧妙よの」
そうなのかも知れないが、人の家の子守唄を物騒な呪いと並び立てないでほしいものだ。
そんな俺とアカーラの言葉をマイスは深刻に捉えたのか少し考え込み、おずおずと口を開いた。
〈……それだけ〝力〟がある歌となると、迂闊に広めるのは止めた方が良いでしょうか。奥様とカイルのイメージソングの1つにどうかと思ったのですが……〉
ほう……
少し、詳しく聞こうか。
◇
私の名は、ピルール・ササーマッタム。
舞台という夜空で、もう四半世紀ばかり輝き続けている女優の一人。
私には才能があった。
勿論私よりも素晴らしい同輩の役者は星の数ほどいるし、私よりもずっと上の諸先輩方には今でもお世話になっている。私よりも若いスターの種だって日々芽生え続けている。
今共演している仲間達はそれこそ老若男女全員が精鋭だ。
とかく努力を怠れば、瞬く間に無数の名も無き星屑の中に埋もれ掻き消えるだろう。
大衆は常に新鮮な理想と幻想を私達に求める。同じ所に立っているだけでは飽きられてしまう。
だから私達は、期待には答えながら、予想は適度に裏切り続けなければいけない。ほんの少しだけ手の届かない理想と空想の先で、美しく華やかに儚くも綺羅びやかに。
輝き、瞬き、煌めき続けなければいけない。
そして私には才能だけではなく、運があった。縁があった。
この国において知らぬ者は居ない、あのグレンデール作品の原点にして金字塔とも言われる古典的名作『フロスト家の悲劇』を原作とする歌劇『グレンデール』。
それが現代ミュージカルの形式でリメイクされる事になり、そのメインヒロインであるメイルーア・フロスト役を私は勝ち取った。
しかも今回のリメイクは長年グレンデール作品のパトロンを務め、原作の権利を保有している大資産家クレイグモア家自身によるプロヂュースだ。
大口のパトロンとして作品制作を単に資金面で支援している時とは、あらゆる部分で力の入れ方のレベルが違う。
衣装や音楽は当然一級品で、照明や音響、特殊演出には最新の魔道具が惜しげもなく使われている。宣伝やグッズ展開、劇場で提携しているカフェレストランとのコラボまで一切の妥協がない。
間違いなく私の役者人生において最高の舞台。
だが、その全て以上に。
その全てが遠く彼方の星屑と感じる程に。
私の前に〝光〟が現れた。
それは、闇の中で少しでも輝こうと懸命に足掻き瞬く星々などでは到底敵わない、皓々と夜の空に君臨する支配者。
「彼女が?」
そのたった一言で、分かったのだ。
最早〝フロスト家の子孫〟かどうかなどという、その真偽は関係無い。彼女こそが『本物』だ、と。
「はい、グレナダ様。彼女が当家で主催したオーディションにて僭越ながら最も相応しいと選ばせていただいた女優の一人です」
驚いた事に──いや、事前に聞いていた話を考えれば当然なのかもしれない──傅いている壮年男性は、よくよく見ればパトロン向けの先行公演で御挨拶する機会があった、クレイグモア家の現当主その人だ。
「初めまして。急にお呼び立てするような形になってごめんなさいね。私はグレナダ。グレナダ・エスカルチア。
この国の方には、『エスカルチア』と言うより『フロスト』と言った方が分かり易いですわね」
冬の澄んだ濃紺の闇に浮かぶ白銀の満月が声を投げかけてくるとしたら、こうなのだろうか。
怜悧な知性と暖かな慈愛を同時に湛えた彼女の声が、姿が、立ち振る舞いが。自然と身体の芯へと染み込んで私の心臓を鷲掴みにする。
私の先輩としての矜持が、表面上の平静を辛うじて保たせていた。
──今日の午後の公演が終わった後、クレイグモア家からの使者が控室に突然やって来て、そのまま私達は邸宅まで招喚された。
そう、私達。
ここには私以外にもう一人、呼び出された者が居る。
ルークス・ダニントン。
今回の興行で私と共演する天才子役。つまり、カイルベッタ・フロスト役を務めている少年だ。