歌を歌おう
〈ええと、あのさカイル……いや、おじさんの方がご存知かもしれないのですが……〉
空気を入れ替えるようにマイスがそう前置きしながら、霊体らしい浮遊感のある動きで廟の右奥へと移動する。
この地下廟は、教会をそのまま地下に埋めたようなと評した通り、地下にも拘らず結構な高さがある。深さと言った方が良いかもしれない。
何故教会と同程度だとすぐ判ったかといえば、モザイク画を囲うようにして、見えているだけで大小100本近い金属の管が壁面に整然と立ち並んでいたからだ。
そう、パイプオルガンだ。小型でも可搬型でもない、床から天井付近まである大型のもの。
本来個人で所有するような代物ではないが、億単位で資金を動かせるクレイグモア家にとっては造作もない事なのだろう。
などと考えているとマイスが微笑んだ。
〈あぁ。実はこれ、革命で貴族と癒着していた教会の勢力がガクっと落ち込んで、この辺が一気に再開発されることになった時に、移設になった近所の教会から買い取ったパーツを調整し直したものなのでそこまで高くはないんですよ。
送風器も換気設備の動力を使い回してますし〉
節約できるところは節約するようだ。節約の桁数が一般家庭とかけ離れているのは間違いないが。
「近所の……教会?」
今世のカイルやディルマー、ついでにアカーラもだが、聖神教会の中でも極めて腐敗している奴らによって非道な目に遭わされ家族と自分自身の命も奪われていると言っていい。
ディルマーはやはり顔を顰めている。これは仕方ない。
一方でカイルは、真っ当に運営された孤児院兼宿屋も見てきた上に、カイルは教会の奴等に直接、という訳ではない事もあってか、そこまでの忌避感は抱いていない。どちらかと言えばディルマーに気を使っている様子だ。
アカーラは、おそらく何とも思っていないだろうが……何故思わせぶりに目を薄く光らせながら優し気に微笑んでいるんだ……。次の瞬間にこの国が更地になるのか?
……何時まで経っても更地にはならなかったが、マイスはあくまで気軽な思い出話の体で話を続ける。
〈そ。近所の教会。小さい頃に一緒に祭事で聖歌とか歌ったとこ。憶えてる?〉
「……あ~! あのブドウジュースとモチモチのパンの!」
信仰するものが違う妻が足を運ぶことは無かったし、俺は俺でそこまで信心深いわけでもなかったが、タイミングが合ったときはカイルを連れて教会に行っていた。子供向けのイベントなんかも良くやっていたからだ。
『聖体の秘跡』という祭事では、その年に作られた熟成前のワイン(子供には葡萄ジュースだ)と、聖餅という無発酵パンを細かく千切り分けたものが振る舞われる。
カイルはこの聖餅が好きで、いつも翌日に「きのうのモチモチの食べたい……」と若干恥ずかしそうに強請ってきたものだった。
仕事柄、俺はレシピを知っていたから、強請られる度に家で一緒に何枚も焼きまくった。
妻は「やっぱりこれ、ピザじゃない?」と、そこにチーズやらトマトソースやらサラミやらを冒涜的なまでにふんだんにぶちまけた挙句オーブンで炭にして、カイルを泣かせていたものだ……。
ちなみにカイルがやると極めて美味しいピザになった。
罰当たりとかそういうのはない。ただの無発酵パンだからな。
いや、カイルが焼き上げたから俺の体力は全回復する。奇蹟のパンだ。聖餐だ。
〈えぇ~食べ物で憶えてんの? 相変わらず食いしん坊だなあ。僕、カイルの歌、結構好きだったのに」
──〝カイルノウタ、ケッコウスキダッタノニ〟……?
俺は身構えた。
◇
「えっ、そ、そう?」
マイスの言葉を聞いたカイルは、気恥ずかしそうに頬を指で掻く。かわいい。
落ち着いて考えれば、別に身構える事はなかった。
なんだか神経質になってしまっているな。ふぅ……
俺もカイルの歌、大好きだぞ!!!!
大好きなのは歌だけじゃないがな!!!!!!
なんだアカーラその顔は。
マイスが鍵盤台前の椅子に座る。今のマイスでも足鍵盤に足が届くよう、どうやら最初から高さが調節してあったようだ。
そのまま鍵盤下に幾つか並んだボタンの1つを押すと、“音栓”と呼ばれる、鍵盤台の左右に並んでいる72個のつまみのついたレバーのうち、6つが勝手に飛び出した。
〈おじさんの頃はまだ普及し始めたかどうかぐらいでしたっけ。コンビネーションボタン、一人で奏るときは便利ですよ〉
パイプオルガンは、規模にもよるが様々な種類の音色を出せるものが多い。華々しい音や穏やかなフルートのような音、クラリネットやトランペット、弦楽器を模した音を出すパイプなどもある。
音栓は、そんな数多くの音色の中から何を鳴らすかを指定するレバーだ。鳴らしたい音色の音栓を引き出して鍵盤を押せば音が鳴る。中には複数の音栓の組み合わせを一度に操作できる複合音栓なんてものもある。
だが数が多い音栓を、物によっては3段ある手鍵盤と足鍵盤を操作しながら曲の合間で変えるのは中々忙しい。
魔法でどうとでもできるのだが、教会でのそれも祭事中に、となると不用意な魔力放出は要人警護の面から禁じられる事が多い。
俺が教会に潜入していた頃は、演奏に合わせて音栓を抜き差しする見習いオルガニストが副奏者扱いで同行していたのを良く見たことがある。
この煩わしい音栓操作を一括でできるようにしたのがコンビネーションボタンというらしい。広く普及する頃には、敵と直接殺し合う事の方が多かった俺に使う機会は無かったが。
少々話が逸れたが、それはともかくマイスの指が鍵盤を押す。
鳴り響いた音色は、飛び出た音栓の組み合わせで分かってはいたが、パイプオルガン特有の荘厳な音色〝主音色〟ではない。フルートを模した音色のパイプに加えて4種の倍音を同時に鳴らす、〝コルネ〟という音色だ。
〝コルネ〟は典型的な複合音栓の1つで、〝コルネ〟を抜き差しすると基音と倍音のパイプ計5つの音栓も同時に動く。
音色としてはリード系のようにも聞こえるが、低音は柔らかく高音は明るい、神聖というよりは親しみやすい印象が特徴だろう。
当時軍属の魔導師であり、その戦功が認められ姓と上級平民の階級を与えられていた孤児上がりの俺や息子が普通に足を運べる教会の祭事では、よく使われていた。
マイスはそのまま滑らかに指と足を動かす。
まさにあの時の曲だ。
カイルが最初「もちもちぱんのうた」と言っていた(超かわいい)、神の恵みを讃え感謝する賛美歌。
カイルはぽかんとしてマイスを見ている。自分と変わらない少年な見た目でオルガンを流暢に弾いていたら、ましてそれが生前そんな素振りなど見たことの無かった幼馴染ときたら驚くだろう。
だが前奏の最後の一小節でマイスが手元も見ずに振り返り、カイルにウィンクを飛ばせば、カイルは頷いた。
カイルとマイスの声が重なる。
ボーイソプラノはユニゾンから、寄り添い合う対位旋律に発展し、二人だけの、しかし差音とオルガンの音が合わさることで生まれる豊かな和音が胸を揺さぶる。
底が見えるほどに美しく澄み渡る湖面のような、春風が緩やかに雲を運び去ったほんの一瞬の一面の青空のような、美しく煌めくこれは蛍か、黄金の稲穂か、新雪か、星々の輝きか……な、泣きそう。
天゛使゛の゛声゛じ゛ゃ゛ん゛!゛!゛!゛!゛
若干力加減を誤った拍手で指が折れたり破れたりした気がするが些末な事象だ。
なんだアカーラその顔は。
◇
〈ええと、それでどうしても思い出せない……譜面が見つからない曲があってさ。確かこんなフレーズだったと思うんだけど〉
確かにそれは、微妙に一音一音の音高が記憶にあるものとずれていた。
カイルも首をかしげて、途中から「ふーーんふーん、ふーんふふーん、ふーんふふん、ふーー…?」と鼻歌を奏でては途中で首を傾げている。ハッーァかわいい。効く。
おかしく聞こえるのは、本来この曲に使われる音律や音階、音の高さ、1オクターブを構成する音程の数が根本的に違うからだ。
例えば、昔のオルガン──つまりここにある250年以上の年代物も例に漏れず──によく用いられている音律は純正律というものだ。
純正律は、基準の音に対して振動数が整数比になるよう各音程が定められている。パイプオルガンなら各パイプの長さが整数比で作られているということだ。
これにより基準の音に対する特定の協和音は全くうならず、一つの音色のように融け合う。
これを『神の響き』だとか言う奴もいたが、数学的な波の合成に対して何言ってんだコイツという感じだ。
ただ純正律には欠点があった。同じように隣り合う鍵盤でも、各音程の間隔が不均一になるという点だ。
新しく美しい旋律を考えるのが難しく、鍵盤上では同じように見えても歪にうなる音の組み合わせがある。『神の響き』とやらが損なわれるわけだ。
移調や転調でキーを変えても響きが損なわれないようにするには、微妙に各音の音高を都度変える必要がある。
これが声楽や弦楽なら致命的な問題にはならない。演奏技術でリアルタイムに連続的な音の調整が利くからだ。
しかしパイプオルガンではそうはいかない。
そこでどこぞの貴族が金に飽かせて開発させたという上等なオルガンには、風魔法陣によってあらかじめ比重が操作した空気に音栓操作で切り替えることで、各調性に合う音高に移す機構が備わっている。
まぁ、音栓は音色の切り替え、倍音、唸音やパイプ以外の効果音にも使うと考えると、とんでもない数のパイプ・機構・専門的な調律・演奏・保守技術が求められる。
まさに富と権威の象徴。
結果として冗談みたいな金がかかる事もあってか、俺が引き籠る手前くらいから1オクターブを対数的に12等分した平均律を用いる事が多くなっていたと思うが。
だが今マイスが奏でようとしている曲は、純正律でも平均律でもない。
そもそも1オクターブを構成する音の数から違う。調を変えるための機構で調整できる範囲の外の音もある。
オルガンで演奏するには些か無理があるだろう。
マイスもそう思ったようで、手を止めた。
〈やっぱり、音程が違いますよね〉
「あぁ。あれはこの国の歌ではないからな」
〈こちらの方が近い音を出せるでしょうか〉
そう言って、マイスがオルガンの鍵盤台の脇から取り出してきたのは、同じく年代物のヴァイオリンだった。